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朝露を踏みしめながら、馬車はゆるやかな坂を登っていた。
「もう少しで境の峠を越えるみたいね。そこを過ぎれば、ユーリの新しい領地よ」
リディアが地図を広げ、朗らかに告げる。エルナは頷き、アリアは窓の外に広がる山並みを見つめながら、「兄様、なんだか冒険みたいだね」と無邪気に笑った。
「そうだね、旅の終わりが近づいているのは名残惜しくもあるが──そろそろ、皆疲れも見えてきた」
ユーリはそう言って、皆に水筒を配りながら、笑顔で気遣う。セレスティアはそんな姿を、無言で見つめていた。
(本当に……飾らない。貴族の癖に)
否応なしに思い出すのは、夜の焚き火の傍で、アリアが彼の膝枕で眠っていたこと。リディアが自然に腕を絡ませていたこと。エルナが遠慮がちに微笑みながら寄り添っていたこと。
(私は……なんでこんな、落ち着かない)
「私はただ任務のためにここにいるだけだ」
自戒するようにつぶやいた。
その時だった。
「きゃっ!? ちょ、ちょっと!」
ゴトン、と馬車が大きく揺れ、セレスティアの身体が横倒しになり──不運にも、ユーリの胸の上に転がり込んだ。
「うぐっ……セレスティアさん、大丈夫?」
「な、何してるのよ、アンタが下にいるなんておかしいでしょ!」
「え!? いや、馬車が揺れただけで──」
すぐに飛び退いたセレスティアだったが、頬はほんのりと赤い。服の胸元を直しながら、何かに驚いたように、唇を噛みしめた。
(私は今……嫌じゃなかった?)
「セレスティアさん……顔赤いよ?」
「う、うるさい! 黙ってなさい!」
「でも、なんか照れてる?」
「リディア、あなたまで!」
アリアやエルナ、リディアが微笑ましそうにセレスティアを茶化す中、ミリアとメルリナは控えめに笑っていた。
──そして、誰よりも焦っていたのは、他でもないセレスティア本人だった。
(私……一体、何をしてるの。あの男に──あの鈍感男に……振り回されて)
悔しさとも恥ずかしさとも言えない感情が胸に残ったまま、馬車は峠を越えていった。
やがて遠くに、小さな城砦と、奥に広がる森が見えてくる。
「見て! あれ、精霊領…いえ、アルシェリア領だよ!」
アリアが嬉しそうに叫び、皆の目が一斉に前方へと向く。
──そしてその中で、セレスティアだけは視線をユーリから逸らし、静かに呟いた。
「……私には関係ない。ただの任務よ。感情なんて……邪魔なだけ」
だが、胸の奥に芽生えた何かは、もう無視できるほど小さくはなかった。
(……今さら、戻れないの?)
旅の終わりが近づくほどに、心はかえって乱れていく。
そのことに、セレスティア自身がいちばん困惑していた──。
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領地──アルシェリアの風は優しく、王都の喧騒とはまるで別世界だった。
到着から数日。町並みの整備や領民への挨拶も一段落し、穏やかな日々が流れはじめていた。
セレスティアは、屋敷の一室で鎧の手入れをしていた。鋼の光沢を確かめるように指先でなぞりながら、ふと外から聞こえる笑い声に手が止まる。
「ユーリ、またそんなに甘やかして……」 「ええっ、リディア姉さんもやってたでしょ!」 「ふふ、だってユーリ、可愛いんですもの」
──ああ、まただ。
セレスティアはため息をついた。
「まったく……あんな馴れ合い、任務中にすることじゃないでしょ」
冷たく呟いたはずの言葉には、もはや以前のような棘はなかった。心の奥底に、どこか寂しさのようなものが広がっていた。
(でも……これで終わり。やっと、王都に戻れる)
すでに報告書はまとめてある。任務終了を王都に伝えれば、正式な帰還命令が届くはず。ずっと張りつめていた何かが、ようやく終わる──そう思っていた。
だがその夜、使いの騎士が屋敷を訪れた。
「王都より、新たな命令です。セレスティア殿は引き続き、アルシェリア領にてユーリ様の護衛を継続するように、とのこと」
「──え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「期間は未定。王都内の動向に不穏な気配があるため、しばらく外部との連絡役としても残ってほしい、とのことです」
騎士が去ったあと、セレスティアは一人、夜の廊下を歩いていた。
外は静まり返っている。満天の星空。遠くの森から聞こえる虫の音。
(帰れると思ってた……)
口には出さなかったが、彼女の胸の奥には確かな“安堵”があった。
(あの空間から離れられる。あの……妙な空気の中にいなくてすむ。あの男と、変な距離感に巻き込まれなくて済む──)
そう思っていたはずなのに、今こうして「戻らなくていい」と知って、ほんの少し、胸がふっと軽くなるのを感じた。
(なんで、ほっとしてるの?)
屋敷の一角に明かりが灯っていた。庭でユーリが薪を割っていた。エプロン姿で、リディアに何やら指導されながら、笑っている。
(……何がいいのよ、あんな男。気が抜けてて、隙だらけで、妙に女に優しくて……)
なのに、その後ろ姿を見つめる自分がいる。
(私は──何をしてるの?)
セレスティアの硬派な心が、静かに揺れ始めていた。




