⑧
道程も進み、何度目かの夜
夜も更け、他の者たちはすでにそれぞれの部屋に引き上げていた。宿の廊下に面した小さな縁側に、私はひとり、静かな空気を楽しんでいた。…否、楽しんでいたというより、気を紛らわせていたのかもしれない。
「ああ、いたんだ。セレスティアさん」
静かに近づいてきたその声に、私は思わず背筋を伸ばした。振り返ると、そこには湯上がりのユーリが、少しだけ火照った頬をして、私を見つめていた。
「…おひとりで?」
「見ての通りだ。…騒がしい空間は、少々苦手でな」
「そっか。みんな、楽しそうだったから」
彼の言葉に、私は小さく鼻を鳴らした。…その“みんな”の中に、自分が含まれていないように感じてしまうのは、私の心が狭いからだろうか。
「それで? こんなところまでわざわざ何の用だ?」
「んー…なんとなく、セレスティアさんが一人でいる気がして」
「察しがいいな。…余計な詮索だが」
「そっか。でも、隣座ってもいい?」
断る理由がなかった。むしろ、なぜか心臓がほんの少し高鳴った。
私はわずかに身体をずらし、彼にスペースを作る。座るとき、彼の膝が私の太腿に軽く触れた。布越しとはいえ、その熱が直に伝わってきて、私は一瞬、呼吸を止める。
「ごめん、狭かった?」
「いや…構わん。少しくらい、こうしても…」
言葉が喉で絡まり、最後まで出てこなかった。
風が一瞬、二人の間を通り過ぎた。静けさの中で、心臓の鼓動だけが妙に耳に響く。
「セレスティアさんって、こうしてると意外に…女の人だなって思う」
「っ…何を唐突に言っている」
「いや、ごめん。変な意味じゃなくて。凛々しくて、強くて、でも…ちょっと今、可愛いなって」
「っ……!」
私はその場から飛びのくように立ち上がろうとした。だが、不意に着物の裾を踏んでしまい、バランスを崩す。
「あ──」
次の瞬間、私は彼の胸元に倒れ込んでいた。
腕が私の背を支え、頬が彼の胸板に触れた。石鹸の香りと微かな熱気が混じり合い、思考が白くなる。
「だ、大丈夫…?」
彼の声が耳元に近く、私は思わず目を閉じた。
──なぜ、こんなにも息が乱れている?
──なぜ、拒絶しない?
「……っ、私は…部屋に戻る」
なんとか身体を起こし、私は言葉少なにその場を離れた。だが背を向けたまま、胸に残る温もりは消えなかった。
(馬鹿か、私は……なにを……)
顔が火照っていたのは、冷たい夜風のせいではなかった。
------------
承知しました。それでは前回の流れを受けて、セレスティアの揺れ動く感情をより深く描きつつ、翌朝のシーンへと繋げていきます。節度を保ちつつ、可能な限り感情の機微を丁寧に描写します。
---
翌朝、まだ朝靄の残る空の下、私は一人、宿の裏手にある小さな井戸のそばで剣を振っていた。
身体を動かしていなければ、昨夜のあの情景が何度も脳裏に蘇ってきてしまう。それが、どうしようもなく腹立たしく、そして…悔しかった。
──なぜ、あんなにも動揺した?
──なぜ、あの体温を拒めなかった?
「……っ」
振るった刃が空を裂く。だが、心の迷いが剣に乗り移るように、軌道は鈍く、鋭さを欠いていた。
「おはようございます、セレスティアさん」
振り返ると、そこには柔らかく笑うユーリが立っていた。朝露に濡れた髪を手で払いながら、あのいつも通りの無防備な顔で。
「……ユーリ殿か、朝から馴れ馴れしい」
「でも、ちゃんと名前で呼んでくれるようになったの、嬉しいな」
「……っ」
私は思わず目をそらした。あの夜のことを、彼は軽く流しているのか、それともまるで覚えていないのか。
(……いや、どちらでもいい。どちらでも…いいはずだ)
「お前が出しゃばる前から私は起きている。邪魔するな」
「剣、ちょっと鈍ってる。らしくないよ」
「……黙れ」
ユーリはにこりと笑いながら、井戸の縁に腰掛けた。その目が、どこか私を観察しているようで、また心がざわつく。
(なんなんだ…本当に)
遠くから、リディアとアリアの笑い声が聞こえた。湯宿での出来事を思い出し、私はますます集中できなくなる。
──彼女たちは、もう、彼の“妻”なのだ。
──自分とは、立場がまるで違う。
(それがどうした? 私は関係ない。ただ、任務として共にいるだけだ)
「セレスティアさん、これからもよろしくね。無理せず、頼っていいんだよ」
そう言って差し出された手を、私は見つめた。
──なぜ、こんなにも優しい。
──なぜ、私を崩そうとする?
握るわけにも、払いのけるわけにもいかず、私はただ視線を落としたまま、小さく呟いた。
「……愚か者」
「え?」
「なんでもない。先に行くぞ」
私は背を向け、彼の手を取ることなく歩き出した。
──だが、心の奥で小さな炎が、確かに揺れていた。
それが温かさなのか、焦がれる痛みなのか、まだ分からないままに──。




