どうしてこうなった…
森の木々の合間から、わずかに朝の光がこぼれていた。まだ湿気の残る空気の中、土と草の匂いが微かに漂っている。風がわずかに葉を揺らし、小鳥のさえずりがどこか遠くで鳴いていた。けれど、そんな穏やかな風景の中にいても、俺の胸の内には静けさとは真逆の感情が渦巻いていた。
「……どうしてこうなったんだ……」
呟きにもならない声が喉の奥からこぼれた。腕の中には、エルナが静かに眠っていた。俺の体にすっぽりと収まるように、膝を抱えながら身を丸め、安らかな寝息を立てている。まるで、子猫のように。
エルナの緑の髪が、俺の胸元にふわりとかかっていた。夜露でわずかにしっとりとしたその感触が、現実であることを改めて突きつけてくる。俺の胸元に顔を寄せ、細い指が無意識に俺のシャツの裾を軽く掴んでいた。
昨日までの彼女は、どこか遠い存在だった。言葉を交わし、共に過ごしていても、どこかで神秘的で、触れることを許されないような雰囲気を纏っていた。けれど今は――今だけは違う。確かに彼女は俺の隣で、俺の腕の中にいる。
昨日のことが、脳裏に鮮明に甦る。
森の奥、闇に潜む気配を感じ取った瞬間、俺たちは咄嗟に岩陰へと身を寄せた。草が擦れる音、湿地を踏みしめるような水音。野生の獣の接近に神経を尖らせながら、俺はエルナの手を引いた。ぬかるんだ地面に足を取られ、バランスを崩しかけた彼女を、反射的に抱きとめたのが始まりだった。
顔が近かった。吐息が混じるほどに。
「……だめ、見ないで……」
その言葉とともに、エルナの唇が、そっと俺の唇に触れた。
一瞬、世界が止まったような感覚だった。柔らかくて、震えるようなその口づけに、俺は反応できずにいた。ただそのまま、動けないまま、彼女の熱を受け止めていた。
けれど、次の瞬間には彼女の細い腕が俺の背中にまわされていた。わずかな震えと、迷いと、それでも何かを伝えたいという想いが、その抱擁に込められていた。
……それがどんな意味を持つのか、考える余裕なんてなかった。理性が追いつく前に、俺の手は自然と彼女の背に触れ、そっと引き寄せていた。互いに濡れたままの肌が重なり、体温が伝わり合う。それだけで、もう戻れないと悟った。
子供だと思っていた?――いや、違う。
彼女は、確かにそこにいる一人の女性だった。俺の知らなかった一面を、あの一瞬で見せてくれた。怖がりで、繊細で、それでも勇気を振り絞って想いをぶつけてきた彼女を、俺は拒めなかった。
そして今――
「ん……ぅ、ユーリさん……?」
柔らかい声が、朝の静寂を破った。エルナが、ゆっくりと目を開けていた。まぶたの間からのぞく瞳は、まだ少し眠たげで、けれどはっきりと俺を映していた。気づけば彼女の指先は、俺のシャツの裾をそっと摘まんだまま、離さずにいた。
「……おはようございます」
「……ああ、おはよう」
それだけの言葉が、やけに胸に響いた。
エルナはそっと体を起こすと、少しだけ俺の胸元に顔をうずめるようにしながら、かすかな声で続けた。
「昨日は……ありがとうございます。すごく……あったかくて、優しくて……」
その声音には、恥じらいと、それ以上の安心が混じっていた。小さく震える肩越しに、昨夜の感触が甦ってくる。あの肌の温もりも、彼女の瞳に浮かんだ涙も――すべて、忘れられない。
「こんな気持ち、初めてでした。胸がぎゅっとなって、でもどこか落ち着いて……あの時、ユーリさんが隣にいてくれて、本当によかったって……」
彼女は、ほんの少し顔を上げ、俺を見上げる。目元にはまだ眠気の名残があるものの、その奥に宿る光は、昨日とはまるで違っていた。どこまでも真っ直ぐで、そして――揺るぎない。
「……あの時、わたしの方から……でしたね」
「……ああ」
「ふふ……ユーリさん、あんなに真っ赤になって……今でも思い出すと、胸が熱くなります」
恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑うその姿に、俺は言葉を返すことができなかった。何を言っても、軽くなってしまうような気がして。
「……でも、後悔はしていません。わたし……ユーリさんが傍にいてくれて、よかったって、本当にそう思ってます」
それは、告白だった。
恋という言葉を使わずとも、それは明らかだった。彼女の目が、それを語っていた。俺に手を伸ばしてくれたことも、昨夜のすべても、すべては――彼女の中に芽生えた想いの結果だった。
「……ありがとう、エルナ」
ようやく言えたその言葉に、エルナは小さく微笑んだ。今度は、俺の胸元ではなく、静かに俺の肩に額を預けてきた。
朝の光が、ようやく森の奥まで届き始める。けれど、その柔らかな温もりよりも、今はこの腕の中にある命の鼓動の方が、ずっと強く、確かに俺の心を照らしていた。
――エルナは、もうただの仲間じゃない。
それだけは、確かだった。
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森の朝は、あまりに静かだった。
風もなく、鳥のさえずりがときおり枝葉を揺らす以外に、音らしい音はない。昨夜降った小雨が葉に残り、しずくとなってぽたり、ぽたりと地面に落ちていく。それすらも、静寂を際立たせる装飾のようだった。
焚き火の跡に腰を下ろし、エルナは空を見上げていた。淡い光が葉の隙間から降り注ぎ、彼女の髪を淡く照らしている。その緑の髪に朝露がわずかに光り、どこか幻想的な雰囲気を漂わせていたが、その顔にはほんのりと紅が差していた。
……昨夜のことを思い返しているのだろう。
俺の視線に気づいたのか、エルナはふと焚き火の跡に目を落とし、小さく息を吐いた。
「……火がもう、残ってないですね。あたためたかったのに」
ぽつりと、呟くような声。何気ない言葉だったが、その端々に、どこか物足りなさと寂しさがにじんでいた。
俺は自分のマントを脱ぎ、そっと彼女の肩にかけた。まだ湿り気の残る空気の中、彼女の細い肩が小さく震えたように見えた。
「こっちの方があったかいだろ。……身体、冷えてるんじゃないか?」
エルナは驚いたようにこちらを見たあと、視線を伏せ、そっとマントの端を手で押さえた。
「ありがとうございます……でも、これ……ユーリさんの体温が残ってて……あの、えっと……」
言葉を濁しながら、マントを抱きしめるように胸元で寄せる。頬の赤みが増して、耳までほんのり染まっていた。
その仕草が妙に色っぽくて、俺は思わず視線を逸らした。昨夜、あれほど近くにいたはずなのに、今はどうしてこんなにも気恥ずかしいのか。空気はどこか甘く、それでいて、ぎこちない。
だが、不快ではなかった。
むしろ、心地よかった。
――確かに、距離が縮まったのだと実感する。
「……そろそろ、他の2人とも合流しないとな」
気を紛らわせるように、少しわざとらしく口を開いた。
「そうですね……リディアさんもアリアさんも、きっと心配してます」
エルナも立ち上がった。小柄な体をゆっくりと起こしながら、どこか躊躇うように、俺の袖口をそっとつまんだ。
「……もう少しだけ、このままで歩いてもいいですか? 離れたくない、っていうか……その、少し歩き辛くて……」
顔を真っ赤にして、言葉の最後はほとんど聞き取れないほど小さかった。けれど、それは確かな“甘え”であり、昨日までのエルナにはなかった感情の表出だった。
俺は何も言わず、彼女の手をそっと握る。
その手は、少しだけ冷たかった。でも、ぎゅっと握り返してきたそのぬくもりが、たしかな温度として伝わってきた。
森の小道を、二人の足音だけが静かに響く。
雨の後の地面はややぬかるんでいて、葉の裏に残った雫がときどき顔に落ちてきたが、不思議と不快ではなかった。
むしろ、今この瞬間が、どこか永遠に続いてほしいと思えるほどに、穏やかで温かだった。
やがて、茂みを抜けてわずかに開けた一帯に出たとき、エルナがふいに足を止めた。
「……この辺り、空気が違います」
「空気?」
俺も足を止め、周囲を見渡す。
「ええ。森の精気というか、流れみたいなものが……昨日までは穏やかだったのに、今日は少し……ざわついています」
エルナの表情が、わずかに緊張を帯びていた。
精霊族である彼女には、俺には感じ取れない“森の気配”の変化がわかるのだろう。
その時だった。
「……あれ?」
俺の視界に、何かが光った。木の根元、苔むした土の間に、ガラスが反射するような微かな光。しゃがみ込み、手を伸ばすと――小さな、小瓶だった。
拾い上げた瞬間、嫌な感覚が指先を走る。
「これ……前にも見た。あの時、倒した“変異体”が落としたのと、同じだ」
小瓶の中には、どろりとした紫色の液体が揺れていた。微かに濁り、光に透かすと中でわずかに泡立っているのが見える。
エルナが俺の隣に膝をつき、瓶を覗き込む。
「この匂い……魔力の流れが、ねじれてます。普通の魔道薬じゃない……“人工的な精霊干渉物質”かもしれません」
「つまり、誰かが意図的に精霊の力に干渉してる……?」
エルナが静かに頷く。その顔には、わずかに怯えの色が浮かんでいたが、それ以上に――覚悟があった。
「“あいつら”が何かを狙って動いてるなら、ここからそう遠くない場所に、痕跡があるはずです」
彼女の声に、俺はしっかりと頷いた。指に力を込めて瓶を握り締めると、再び立ち上がった。
エルナは立ち上がった俺の腕にそっと寄り添う。震えてはいない。ただ、そばにいたいと願う意志のようなものが、全身から伝わってきた。
その肩に、俺は静かに手を添える。
「行こう、エルナ」
「はい、ユーリさん。……わたし、もう逃げません。ずっと、そばにいます」
彼女の目には、確かな決意が宿っていた。
昨夜までとは違う。もう、守られるだけの存在じゃない。
同じ道を歩く、隣にいるパートナーとして――共に戦う覚悟を持った女性の顔だった。
森の奥から、わずかに不穏な気配が漂ってくる。
その気配に逆らうように、俺たちはゆっくりと歩き出した。
まだ見ぬ敵と、見えない闇を前にしても、背筋はまっすぐだった。
――守りたいものが、あるから。
それはもう、ただの使命じゃなかった。
胸の奥に灯った想いが、静かに、しかし確かに俺の背を押していた。
そして、隣にはエルナがいる。
震えない、逃げない、支え合える存在として。
森の朝に、ふたりの足音が静かに重なっていった。




