↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
44/160

森の裂け目にて

森の空気は、前日と変わらずしっとりと湿っていた。

朝露を吸った木々の葉は、陽の光を受けてきらめき、まるで森全体が静かに目覚めていくようだった。


小鳥のさえずりが、風に乗って遠くから届いてくる。

見た目には平穏で、美しい朝――だが、昨日の異形との戦闘が一行に与えた衝撃は、まだ薄れていなかった。


警戒の色は、誰の顔にも滲んでいた。

自然に見える森の風景のすべてが、いまはどこか不穏に映る。


「この先……川があるみたいです」

アリアの静かな声が、張り詰めた空気に小さく割って入る。

手にした羊皮紙には、エルナが記した森の簡易地図。


「水を補給しておきましょう。戦闘が続くと、魔力の消耗も大きいですから……」

彼女は地図を見つめたまま言い、静かに先頭を歩き出す。


その後ろを、リディアとユーリが歩く。

リディアは無言だが、細剣の柄にかけた手がその緊張を物語っていた。

そして最後尾にはエルナ。

小柄な身体に不釣り合いなほどの荷を背負いながら、黙々と歩いていた。


額にはうっすらと汗が浮かび、呼吸も少し浅い。

森の湿気が体力を奪っていくのが分かる。


「……だ、大丈夫か?」


ユーリが気づいて声をかけると、エルナはびくりと肩を揺らし、驚いたように振り向いた。

だが、すぐにその目元を和らげ、ぎこちなく笑みを作った。


「……はい、がんばれます」

息は上がっていたが、声には意地のようなものがあった。


その笑顔を見て、ユーリは少しだけ眉を寄せた。

だが、何かを言おうとしたその瞬間――


「……っ!」


突然、小鳥の群れが一斉に飛び立つ羽音が上空に響いた。

風もないのに、茂みがわずかにざわめく。

そして――


「ガサッ……ガサガサ……」


草をかき分ける音。

明らかに、誰か――あるいは何かが近くにいた。


「っ! 伏せろ!」


ユーリが咄嗟に叫ぶ。

だが、それと同時に、足元の地面が乾いた音を立てて崩れた。


「エルナ!」


ユーリの目の前で、エルナの小さな身体が、落ち葉と共に滑り落ちていく。

反射的に手を伸ばした。


間一髪、彼女の手首を掴む――だが。


「っ、くそ……!」


足場がぬかるんでいた。

ユーリの体重も相まって、そのまま重力に引かれ、ふたりは斜面を転げ落ちていった。


枝がはじけ、葉が舞い、視界が緑と茶に渦巻く。

地面の感触が一瞬ずつ上下を失い、やがて――


「ぐっ……!」


鈍い衝撃とともに落下が止まった。

重なるように倒れた体を起こし、ユーリは荒い息を吐いた。


「……いてて……っ、大丈夫か、エルナ……?」


「う、うん……ちょっとびっくりしましたけど……平気、です……」


エルナは乱れた髪を手で押さえながら、泥だらけのローブを気にする素振りを見せた。

その顔には擦り傷がいくつかあったが、致命傷ではない。


周囲を見渡すと、そこは岩に囲まれたくぼ地だった。

柔らかな土に覆われたその場所は、まるで森の隠れた寝床のように静かだったが――


「……戻れそうに、ないな」

ユーリがつぶやく。見上げた崖は、つるりとした岩肌で、容易に登れそうになかった。


「……やられたな。こりゃ、しばらく二人で行動するしかなさそうだ」


その言葉に、エルナの肩が小さく震えた。

だが、それを隠すように彼女は微笑んだ。


ユーリの横顔を見つめる。

戦場では鋭く、誰よりも冷静だったその表情は、いまはどこか柔らかくて、近くにいるだけで胸の奥が温かくなる。


「……ユーリさん」


「ん?」


「えっと……さっき、手をつないでくれて……ありがとう、ございました」


エルナの声はかすれていた。

だが、その頬にはうっすらと紅が差し、胸の奥からにじむような思いがにじんでいた。


「……わたし、昔から……ずっと、誰かと手をつないだ記憶って、あまりなくて……だから、すごく……うれしかったんです」


ユーリは、その言葉に少し驚き、そして静かに息を吐いた。


「そうか……」


しばらくの沈黙が落ちた。

けれど、それは重苦しいものではなく、どこか心地よい間だった。


「……でも情けないよ。結局一緒に落ちちゃったしな。礼を言うのは、無事に戻ってからにしよう」


ユーリはそう言って立ち上がり、衣服の泥を払いながら辺りを見回した。


「さて……出口を探すとするか。ここでじっとしてても何も始まらない」


その背中がゆっくりと歩き出す。

エルナは数歩遅れて、その後を追った。


森の奥で、たった二人きり。

戦場でも、屋敷でもない。

誰にも邪魔されない、静かな時間が、こうして始まったのだった。


風の音が、どこかやさしくなったような気がした。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


森の奥深く――


幾度も足を取られそうになる湿地帯をようやく抜けた先に、小さな岩陰があった。そこだけぽっかりと周囲から切り離されたような静けさがあり、広葉樹の枝葉が天蓋のように頭上を覆っていた。陽はまだ高いはずなのに、光は葉の合間から細く差し込むだけで、辺りはしっとりとした薄暗がりに包まれていた。


「……ここで少し休もう」


ユーリは周囲を素早く確認した後、斜めに傾いた大岩の下へと足を踏み入れた。岩と木々が風の通り道を作っているのか、湿った空気が幾分和らぎ、ひんやりとした風が頬を撫でた。


エルナは、その岩陰にたどり着いた瞬間、ぺたんと地面に座り込んだ。ぬれたローブが冷たく肌に貼りつき、身体の熱を容赦なく奪っていく。


「くしゅっ……」


小さなくしゃみが漏れる。


「風邪ひくぞ。……服、乾かそう」


ユーリの低い声がすぐ隣から聞こえた。


「え……?」


見上げると、彼はすでに上着を脱ぎ、その下のシャツにも手をかけていた。何の躊躇もなく、シャツを肩からすっと抜き取る。その仕草に無駄はなく、まるで剣を抜くときのような流麗さがあった。濡れた布地が肌から離れるたびに、しなやかに引き締まった上半身が陽の光の下に現れる。傷一つないわけではない。だがその痕さえ、戦場で彼が歩んできた道を語っていた。


「どうした。早く脱がないと体を壊すよ。いくら俺でも……子供に対して変な気は起こさないからさ。せめてローブだけでも……それ、乾かさないと」


口調はあくまで自然で、気遣うような柔らかさが込められていた。


だが、その言葉にエルナの肩がぴくりと震える。


「……子供じゃないもん」


「え?なんだって?」


「っ!……わかった、脱ぐよ」


恥ずかしそうに視線を逸らしながら、エルナはおずおずと立ち上がり、両手でローブの前をぎゅっと掴んだ。指先が震えていた。それでも意を決して、そのまま濡れたローブを肩から外す。ぴたりと肌に貼りついていた布地が重たげにずり落ち、水の音を立てた。


下には――何も身に着けていなかった。細く、白い肩。薄桃色の頬と、伏せられた長い睫毛。そして胸元を腕で隠しながら、エルナは恥じらうように座り直す。


だが、ユーリは目を逸らすわけでもなく、興味深げに見るわけでもなく、ただ静かに彼女と背を合わせるようにして座った。彼の体温が、背中越しにじんわりと伝わってくる。


「……こんなふうに、誰かと背中合わせになるの、初めてです」


エルナがぽつりと呟いた。かすかに震える声。それでも、そこにはどこか、安心したような響きがあった。


「俺も……そうかもな」


ユーリは少し笑って、両腕を膝に乗せた。


「不思議だよな。武器も防具も置いて、こんなふうにじっとしてるのに……なんか、妙に落ち着く」


「ふふ……ほんと、そうですね」


エルナの声には、確かな笑みがあった。背中がすこし、ぐっと強く触れ合う。体温と、鼓動と、息遣い。言葉よりも確かな、静かな繋がり。


「私……森でずっと暮らしていたから、人とこんなふうに一緒にいるの、初めてで……」


「精霊たちと、家族と……?」


「はい。……でも、もう家族はいません。精霊たちも……この森には、もう……」


エルナの声がかすかに沈んだ。


「……寂しかったか?」


「……少し、だけ。でも、今は……寂しくないです。ユーリさんが、一緒にいてくれるから」


彼女の小さな言葉が、じんと胸に響いた。


「……そうか」


それだけを言って、ユーリは静かに息を吐いた。言葉にできない想いが、背中越しに伝わる気がした。


だがそのとき――


ざわり、と草が不自然に揺れた。空気が一変する。空気の密度が変わったような、低い唸りが森の奥から聞こえてくる。


「っ……!」


ユーリが瞬時に反応し、背筋を張る。手元に武器はない。上半身は裸のまま。だが、その表情には一片の動揺もなかった。


「隠れろ。岩の影に」


そう言って立ち上がろうとした、その瞬間。


「こ、こわい……っ」


エルナの小さな手が、ユーリの背中に縋りついた。柔らかくも、震える手。濡れた身体が、彼の背中にぴたりと貼り付く。


「……離さないで」


「離さねぇよ」


その言葉は、誓いのように低く静かに、しかし力強く響いた。


ユーリはエルナの背をそっと抱き寄せた。彼女の震えを受け止めるように、全身で包み込む。ひんやりと濡れた肌が、彼の胸元に触れ、細く震えていた。だがその震えは、次第に落ち着いていく。まるで、ユーリの腕の中でようやく安らげる場所を見つけたかのように。


「大丈夫だ、絶対に守る。……だから、信じてくれ」


エルナは、こくりと小さく頷いた。瞳にはまだ不安が残っていたが、それ以上に、ユーリの言葉が心に深く染み込んでいた。


――森の静寂の中、ふたりきりの時間は、思わぬかたちで強く、深く結ばれていく。


それは決して華やかではない、けれど確かな絆の芽生えだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。