星見の夜
王都から北東へ、およそ七日。
精霊たちが棲むという《霊峰フォーリア》のふもとに広がる、広大な原生林──通称、《精霊の森》。
王国と隣国を隔てる自然の防壁として機能しているが、その一方で、長年にわたり人の立ち入りを禁じられてきた場所でもある。他国との国境を守る天然の城塞にもなっているという。
そして今、王国はその禁を破る決断を下した。
──原因不明の霊圧の乱れ。
──小規模だが、森の周辺の村々で発生した幻覚症状と、複数の失踪事件。
──そして何より、森の中心部に鎮座する“精霊の祠”との、長年続いていた微弱な霊脈の断絶。
王国魔導院はこれを異常事態と断じた。
「……というわけで、任命されたのが俺達というわけか」
馬車の揺れに身を預けながら、ユーリがつぶやく。
「精霊の森。どんな場所なのか、楽しみでもあるけど……やっぱり怖いね」
リディアが少し不安げに言った。
「でも兄様がいれば大丈夫です。わたしたちが一緒ですし」
アリアはいつも通り、微笑みながらユーリの腕にしっかりと絡みついている。
王都から任命された新設の“コーリング家”の初任務──
それが、この《精霊の森》の異変調査だった。
叙勲の場では、その功績と力を評価される形で、ユーリ個人に新たな爵位と封地の提示がなされたが、それは同時に“国家の盾”としての責任を意味する。
「……ま、要するに《便利に使える切り札》ってわけだよな、俺は」
自嘲気味に呟くユーリだったが、隣にいる二人の手の温もりが、その心を支えていた。
「私たちで、コーリング家を支えるわ。ね、ユーリ?」
「兄様が築く家を、わたしたちも一緒に守ります」
「……ああ。ありがとう、二人とも」
馬車の窓の向こう、遥か遠くに森の濃緑が、次第に近づいてくる。
不穏な気配が、確かに存在していた。
ただの自然のものではない──そこには、強い“意志”のようなものが、微かに流れていた。
−−−−−−−−−
「──ここが、フリューゼルの街か。王都からここまでで一泊半。予想より早く着いたな」
昼下がり、馬車を降りたユーリたちは、旅の途中の中継都市に到着した。
山と森に囲まれた街でありながら、精霊信仰が根強く残るこの地域は、かつて多くの神殿や祠が建ち並んでいたという。
今でも木彫りの精霊像や、魔除けの草飾りなどが街角に飾られており、独特の空気が漂っていた。
「ふぅ……馬車旅はやっぱり疲れるね」
リディアが腰に手を当てて伸びをすると、アリアがすかさずユーリの腕に抱きつく。
「お兄様、今日は温泉宿にしましょう。ね?」
「温泉か……いいな。それに、森に入る前に装備の点検もしたい」
街の中心には、騎士や冒険者も立ち寄る装備屋が並ぶ広場があった。
ユーリはまず、常備している魔法剣の保守点検と、魔石の補充に向かった。
その間、リディアは魔導具店で新しい触媒石を吟味し、アリアは薬草商人と親しげに談笑していた。
「ほら見て、リディア。この秘薬、精霊の森の“花粉病”に効くって」
「なにそれ……どうせ、ただの体にいいジュースじゃない?」
「むぅ……お兄様も、こういうとき無視するから……」
「聞こえてるぞ、アリア」
そう言いながら、ユーリは二人の間に立ち、三人で自然と手を繋いだ。
「じゃ、そろそろ宿に荷物を置いて、夜は情報収集だな。酒場に行こう」
「うん、いいね!」
夕暮れが街を染め、三人は宿で軽く身を清めた後、街で評判の酒場《月影亭》を訪れた。
精霊の民芸品で飾られた木造の店内は、灯火に照らされて柔らかい温もりに包まれていた。
「いらっしゃい! 珍しいね、若い男女でこの街に。旅人さん?」
店主は人懐っこい笑顔を浮かべた壮年の女性で、ユーリたちを見るなり歓迎の声をかけてきた。
「精霊の森に入る予定でな。何か知ってることがあれば教えてもらえると助かる」
「……ほぅ、あそこに行くのかい。最近は誰も近づかんよ。森が“うなってる”って噂でねぇ」
「うなってる?」
「そう、夜になると遠くの方から、何か……泣いてるような声が聞こえるんだと。森の神様が怒ってるとか、嘆いてるとか、村人はみんなそう言ってるよ」
他の客も話に加わる。
「去年の秋ごろまでは、まだ精霊の祠から加護があった。でも今じゃ、誰も近づけねぇ」
「この街でもよ、商売道具の木彫りが急に割れたり、井戸の水が濁ったりしたことがあったんだ」
リディアとアリアも真剣な顔になっていた。
「森に何かが起きてるのは間違いないんだね……」
「そうだな。でも、行くしかない。俺たちの役目だ」
「うん」
「兄様……危ないことはしないって、約束してくださいね」
「……約束するよ」
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夜──酒場で森の情報を集め終えたユーリたちは、静かな宿《星見の宿》に戻った。
与えられた部屋は、三人で泊まるには十分すぎるほど広く、中央にはふかふかのベッドが一台。
「うわぁ……素敵なお部屋です、兄様!」
アリアが目を輝かせながら部屋を見渡す。
「……っ! ちょっと、そういうのいちいち騒ぐ必要ある? 落ち着きなさいよ」
リディアがそっぽを向いてつぶやくが、耳まで赤くなっているのは隠せていなかった。
「ふふ、リディアも喜んでるみたいだな」
「べ、別にアンタと同じ部屋だからって喜んでるわけじゃないし……」
「はいはい。じゃあ俺は別の部屋に……」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよバカ! そういうとこだけ本気にしないで!」
「はは、ごめんごめん」
「……もう」
照れ隠しに視線を逸らすリディアとは対照的に、アリアは純粋な笑顔でユーリの腕に抱きつく。
「今日は……一緒に寝たいです。お兄様のぬくもり、たくさん感じていたいから」
「え……えぇっと……」
ユーリが戸惑いかけた瞬間、リディアがぷいっと顔を背けて言った。
「しょ、しょうがないでしょ。別にアンタが好きとかじゃなくて、夜は冷えるし。ついでに……その……隣にいてくれたほうが、寝やすいってだけ」
「はいはい、分かったよ。二人とも、今夜は一緒にゆっくりしよう」
──そして夜。
ベッドの上で、三人は寄り添っていた。
ユーリの左にはリディア。右にはアリアがいる。
「……あのさ、ユーリ」
リディアが、ぽつりと話しかける。
「明日からまた危険なことがあるんでしょ? だから今のうちに言っといてあげるわ。私、アンタのこと……ちゃんと好きだから。……ちょっとだけよ?」
「……ちょっとだけ、か?」
「う、うるさいわねっ! あんまり調子に乗ると──」
「……ふふ。ありがとう。嬉しいよ、リディア」
「……ばか」
頬を染めて俯くリディアの手を、ユーリはそっと握る。
アリアもその様子を見て微笑みながら、指を絡めてきた。
「兄様。私も……本当に、兄様のことが大好きです。もし、世界が崩れても、心はずっと一緒にいたい……」
「……俺も、だ。お前たちを絶対に、離さない」
月明かりの下、三人の影がひとつに重なり、宿の夜は穏やかに流れていく。
小さな幸せの中、愛しさが静かに積もっていく夜だった。




