第三章 精霊の森へ
午後の陽光が、石畳に優しく降り注いでいた。
屋敷の大扉を開けた瞬間、木の香りと微かに漂う花の香が鼻をくすぐる。足元をすり抜ける風が、どこか懐かしい。王都の喧噪から戻ったこの場所には、確かに“家”の空気があった。
「……ただいま」
誰にともなく呟いたその言葉が、館の静寂に吸い込まれるように消えていく。その直後だった。
「ユーリっ!!」
甲高い、けれどもどこか潤んだような愛おしい声。その主は、廊下の奥から勢いよく駆けてきた金髪の少女――リディアだった。
赤いリボンが踊り、スカートの裾がふわりと広がる。次の瞬間には、少女の体が弾かれるように彼の胸に飛び込んでいた。
「おかえりなさいっ……! 王城から戻ってきたんですね!」
柔らかな頬が彼の胸元にすり寄せられ、細い腕がぎゅっと背中に回される。そのまま、離れようとしない。
「リディア……ただいま。元気にしてたか?」
「ずっと……ずっと待ってたんだから……」
くすぐったいような、甘く切ない声。その愛情の重さが、ユーリの胸にじんわりと染み込んでいく。
そして数秒遅れて、息を整えながら小柄な銀髪の少女――アリアが姿を現した。
「お兄様……本当に、お疲れさまでした」
彼女は控えめに、しかしまっすぐな視線でユーリを見つめていた。肩で小さく息をしながら、それでも丁寧な言葉を崩さない。
「アリアも……ありがとう。ただいま、帰ったよ」
ユーリは二人に両腕を差し伸べ、それぞれの肩を抱き寄せた。柔らかく、優しく。愛しさを込めて。
三人はそのまま応接間へと移動した。大きな窓からは午後の陽射しが射し込み、淡く部屋を包んでいた。高級感あるソファに腰を下ろすと、リディアが身を乗り出してきた。
「それで、それで! 叙勲式って、どんな感じだったんですか? すっごく堅苦しいの? 陛下の前でひざまずいたりして、厳かに“忠誠を誓え”とか言われるの?」
「まあ……あながち間違いでもないな」
ユーリは少しだけ苦笑し、頭をかいた。
それから、王城での出来事――式典の雰囲気、宰相から爵位を授かったこと、新たな家門が生まれたこと――を丁寧に話していく。
「“コーリング家”として、正式に王国に仕える貴族になった。もちろん責任も増えるけど、色んな意味で、動きやすくなるはずだ」
「……コーリング家……」
アリアが、ほんのり頬を染めながら目を伏せる。
「つまり……私たち、これからは“貴族のご令嬢”になるんですね。兄様の……妻として」
「うふふ、だったらもう、堂々と名乗ってもいいのよね。“コーリング家の正妻候補、リディアですっ!”って!」
リディアはユーリの腕にくっつき、猫のように頬を擦り寄せてくる。
「……ちょ、リディアさん、それは少し……」
「なに~? アリアだって、結局同じ気持ちでしょ?」
「そ、それは……否定できませんけど……!」
ユーリは困ったように笑いながら、二人の手をそっと取り、重ね合わせた。
「本当に……俺にとって、大切な存在なんだ。どちらか一人なんて、選べるわけないよ」
言葉の一つ一つに、誠実さと優しさがこもっていた。少女たちの顔に、穏やかな紅が差す。
その時、ふとリディアが表情を引き締めた。
「……ユーリ。爵位だけじゃないよね? 何か任務を与えられた顔してるもん」
アリアも息を呑む。
「やっぱり……何か、危険なことを……?」
ユーリは、しばし言葉を選びながら語った。
「“精霊の森”だ。王国北東に広がる、立ち入り禁止区域。精霊たちが住む神域……だけど、最近、そこに異変があるらしい。王国はそれを調査し、収めるようにと命じた」
「そんな……」
「学園には“特別実習”という名目で報告されている。だが実際は、王国直属の特命任務だ」
静まり返った空気の中で、アリアがそっとユーリの手を握り返す。
「……お兄様が、また危ない目に遭うなんて、私は……」
「大丈夫だ、アリア」
ユーリはまっすぐに彼女の瞳を見た。その眼差しには、迷いも恐れもなかった。
「俺は、必ず帰ってくる。君たちを、守るために。……何があっても、絶対に」
アリアの頬に、ぽたりと涙が落ちる。それでも彼女は、笑った。
「……はい。私も、一緒に行きます。兄様の傍で、支えたい。どんなことがあっても……離れません」
「うん、私もっ! だって、ユーリと離れ離れなんて、ぜーったいイヤ!」
リディアは勢いよくユーリに抱きつき、その胸に顔をうずめた。
「本当に……ありがとう。お前たちがいてくれるから、俺は、前に進める」
少しの沈黙のあと、リディアが甘えた声で囁いた。
「ねえ、ユーリ……今日は、その……がんばったご褒美、欲しいな」
「お兄様……私も、たくさん甘えさせてください……」
その声に応えるように、ユーリは両腕を広げ、二人を優しく抱きしめた。
午後の光がだんだんと夕暮れ色に変わっていく中、応接間に満ちるのは、静かで温かい幸福。
このひとときが、長く続きますように――と、誰もが願っていた。
だが、この平穏がやがて嵐に変わることを、まだ誰も知らなかった。
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夜が更けていた。
屋敷の灯はすでに落ち、静寂がその身を広げていた。外では虫の音が遠くにかすかに響き、星の光が厚いカーテン越しにほのかに差し込んでいる。寝室の中は暖かなぬくもりと微かな香りに包まれていた。
ユーリは広い寝台の中心に横たわっていた。両腕には、それぞれ一人ずつ――愛する妻たちが寄り添っている。
右側にはリディア。柔らかな金髪が枕に流れ、彼の胸元にそっと顔を埋めて寝息を立てている。その頬は少しだけ赤く染まり、時折口元が緩んでいるのが愛らしい。
左側にはアリア。銀の髪が月明かりのように光を反射し、まるで天使のような寝顔を見せていた。彼の腕を抱きしめるようにして、小さく身を丸めている。
その温もりに包まれながら、ユーリは天井をぼんやりと見上げていた。
安堵と幸福、そしてほんの少しの罪悪感。さまざまな感情が心の奥に波紋のように広がっていく。
──あの時のことが、ふいに頭をよぎった。
叙勲式を終え、重たい服と緊張から解放されて王城の廊下を足早に歩いていたときのことだ。
心ここにあらずという状態だった。これからの責任の重さ、領地の未来、彼女たちのこと――考えなければならないことが山ほどあった。
だが、あれほど印象深く残ってしまったのは、ほんの数秒の出来事だった。
──角を曲がった、その瞬間。
彼の視界がぱっと開けたかと思った次の瞬間、何か柔らかなものに衝突した。
「──っ!? ごめ──」
声をかけようとした、その刹那だった。
唇と唇が、触れ合った。
一瞬すぎて、時間が止まったように思えた。
目の前にいたのは少女だった。彼を見上げたその顔には驚愕が浮かび、その琥珀色の瞳がまっすぐにこちらを射抜いてきた。
肩までの白銀の髪は絹糸のように滑らかで、彼女の頬にかかっていた。胸元には王家の紋章を刻んだブローチ。ドレスは繊細な金糸で刺繍され、まさしく高貴な存在を示していた。
「……ッ!」
「す、すまん! 俺、急いでて……!」
目を見開いたまま何も言わない彼女を残し、ユーリはその場から逃げるように立ち去った。顔が熱を持ち、心臓が無駄に跳ねた。あとで振り返ってみても、何ひとつ気の利いた言葉が出てこなかったことに情けなさすら感じる。
(……もしかして、王女様だったんじゃ……いや、まさか。でも、あの気品は……)
心の奥が妙なくすぐったさに包まれていると、右腕に抱きついていたリディアが寝返りを打ち、彼の胸に顔を押し付けた。
「……ユーリ?」
まだ眠たげな声だったが、どこか不穏な響きを含んでいた。
「さっきから、なんだかニヤニヤしてない? ……変な夢でも見てたの?」
「え、いや……たいしたことじゃ……」
「──また、女の子ですか?」
今度は左側から冷静な声が飛ぶ。アリアだった。瞳は開いていないが、声の調子は明らかに眠っていない。
「そ、それは……あの、ほんの偶然だ。向こうから来た子とぶつかって……その、ちょっと口が当たっただけで──」
「──キス、ですね?」
ユーリが慌てて両手を振ると、リディアが「ふふ」と小さく笑った。
「うん、まあ……仕方ないよね。だってユーリだもん。放っておいたら、女の子は寄ってくるし」
「……でも、ちょっとは反省してもらいます」
アリアはついに目を開け、じとっとした視線を送ってきた。
「私たちは、お兄様のことを信じています。……でも、信じてるからって、何をしてもいいってわけじゃありません」
「う……本当にごめん。相手の名前も知らないし、逃げたし、それっきりなんだ。ただの事故だよ、事故……!」
アリアは、すっと手を伸ばしてユーリの頬に触れた。
「兄様の気持ちは、ちゃんと伝わってきますから。私たちが最初に“心”をもらってるって、分かってます」
「うん、私は“手”も“腕”も“胸”も、ぜーんぶ先にもらったから、別にいいもん」
「それはちょっと違う気がするけど……」
ユーリは照れくさそうに頭をかきながら、二人の手を取った。
「……ありがとう。俺には、お前たちがいる。それが何よりの支えなんだ。たとえこれから、どんな困難が待っていたとしても……」
重ねられた三人の指先。そこに宿る温もりと絆は、ただの恋愛関係に収まらないものだった。
命の危機、戦乱、絶望の淵――幾度もそれらを共に乗り越えてきたからこそ、信頼は深く、愛情は揺るがない。
ユーリはゆっくりと目を閉じながら、胸の奥で一つの誓いを立てた。
──たとえこの先、どんなに道が険しくなろうとも。
──どれだけ多くの出会いが待ち受けていようとも。
──彼女たちへの愛だけは、決して失わない。すべてを誠実に、守り抜くと。
夜風がそっとカーテンを揺らした。星々の光が、彼らの未来をそっと照らしていた。




