幕間 あなたのいない世界で
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。
柔らかな光が、まだ少し冷たい空気を通して、部屋の壁を淡く照らす。ベッドの中、菜々美はゆっくりとまぶたを開けた。目を覚ましたばかりの視界はぼんやりと曇っていて、まるで夢の続きのように現実感がなかった。
ふと、無意識に右手を伸ばす。
だが、その先にあるのは、ただひんやりとした空気と、冷えたシーツだけだった。
そこには、もう誰もいない。
「……お兄ちゃん、おはよう」
誰に聞かせるでもなく、消えてしまいそうなほど小さな声でそう呟く。返事はない。それでも、言わずにはいられなかった。毎朝、目覚めた瞬間、最初に思い浮かべるのはいつだって兄のことだった。
布団をぎゅっと抱きしめる。あたたかさを求めて。でも、それはすぐに冷めていく。何度繰り返しても、満たされることのない朝。
彼が事故でこの世を去ってから、もう何ヶ月も経っていた。けれど、時間は何ひとつ解決してくれなかった。
むしろ、日に日に思い出は鮮明になっていく。
忘れたくないと願うから。忘れてしまうのが、何より怖いから。
あの日のことも、まるで昨日のように思い出せる。
まだ寒さが残る春の朝。学校へ向かう途中の、いつもの坂道。緩やかな下り坂を並んで歩いていたとき。信号が変わりかけて、菜々美は一歩、踏み出してしまった。
「危ない!」
腕を強く引かれた。
視界がぶれて、背中から歩道に倒れ込む。驚きに見開いた目の中で、兄の背中が前へと押し出されるのを見た。
ほんの一瞬のことだった。車の急ブレーキの音、悲鳴、そして、静寂。
時間が止まったように感じたのは、きっと気のせいじゃなかった。
それ以来、世界はずっと色を失ったままだ。
「ねえ、お兄ちゃん……なんで、あんなこと……」
ぽつりと問いかける。
けれど、返事はない。天井を見つめても、窓の外を見ても、そこに兄の姿はない。何度繰り返しても、その言葉は虚空に溶けて消えていくだけ。
でも、それが菜々美の日常だった。
高校では、周囲の気遣いがむしろ苦しかった。誰もが「無理しないでね」と言葉をかけてくれる。けれど、その優しさが透明な壁を作っていた。
心の奥にまで踏み込んでくる人はいない。
「辛いでしょ?」
「大丈夫?」
「何かあったら言ってね」
どれも、表面だけを撫でる言葉だった。
本当は、大声で泣き叫びたかった。抱きしめてほしかった。
「お兄ちゃんを返して」と、喉が潰れるほど叫びたかった。
でも、それができる相手は、もうどこにもいなかった。
兄のいない世界は、まるで灰色に染まった風景のようだった。空も、街も、教室も、全部、透明なフィルム越しに見ているようで、何もかもが他人事のようだった。
ただただ、動くだけ。呼吸をして、食べて、通学して、眠る。それだけの、味気ない毎日。
「今のわたしって、生きてるだけのロボットみたいだよね……」
自嘲気味に呟いても、誰も返さない。
兄だけが――どこまでも真っ直ぐで、温かくて、弱い自分をまるごと抱きしめてくれた人だけが、彼女の心に踏み込んでくれた。
夕方、部屋の棚に置かれた写真立てに視線を移す。
中学の卒業式の日に撮った一枚。制服姿の兄が、少し照れたように笑っていた。その横で、菜々美も微笑んでいる。まだ子どもっぽさが残る表情。あの頃は、まだ自分の気持ちに戸惑っていた。
「お兄ちゃん……やっぱり、私、好きだったんだと思う」
言葉にすることで、自分の想いの重さを改めて感じる。
ただの“家族”ではない。
ただの“兄妹”では済まされない、もっと深くて、もっと重たい何か。
小さな恋心なんかじゃない。
世界で一番大切な存在。誰よりも愛おしくて、誰よりも近くにいてほしい人。
今はもう、その愛を伝えることも、確かめることもできない。
夜が更けていく。
ベッドの上で、菜々美は毛布にくるまって目を閉じる。眠りの中で、兄に会えることを願いながら。夢の中なら、声を聞けるかもしれない。優しく頭を撫でてくれるかもしれない。
(……もし、どこかで生きているのなら)
(もう一度だけ、笑って)
あのときの笑顔を、もう一度だけでいい。
手を伸ばせば届きそうな、あの温もりに触れたい。
そんなありえない願いを、繰り返し、繰り返し、祈る。
その願いが叶うことはないと、どこかで分かっていても。
それでも、祈らずにはいられなかった。
──どこか遠い世界で、
──彼が生きていて、幸せでありますように。
それが、菜々美の、たったひとつの祈りだった。




