幕間 静かなる叙勲と、新たな名のはじまり
侯爵家で起きた問題からしばらくした頃、王都の中心、王城の一角にある静謐な書簡室。大広間ではなく、限られた者しか入ることを許されぬ密室に、ユーリ・フォン・コーリングは呼ばれていた。
目の前にいるのは、王国の宰相と数名の重臣たち。だが、その場に王の姿はなかった。
「このたびの件、正式な記録には残されぬだろう。だが、大貴族の失態、下手をすれば国の存続に関わる大事であったことは疑いない」
年老いた宰相が、静かに切り出す。
「侯爵家の後継者が、強化薬を用い反乱を企てた。事実は伏せられる。だが、それを止めたお前の働きは――我々だけは、正しく記憶する」
別の重臣が、封蝋の施された巻物を差し出してきた。重々しい朱色の紋章が、それが特別なものであることを示していた。
「ユーリ・フォン・コーリング。王命により、貴殿に新たな家門を授ける。名は、〈守護貴族・コーリング家〉」
「……家門?」
ユーリは思わず聞き返した。
「表向きは新興の家門として扱う。だが実際には、国家の非常時における“盾”として、諜報と武力の両面を担う役割を与えられる。いわば……裏の守護家」
「お前の行いは、貴族としての資格以上のものだ。正当な報いとして、そして今後の責任として、受け取ってもらう。公爵家の令嬢、侯爵家の令嬢2人を妻にするものが
平民も同然の伯爵家3男坊では話にならんからな」
言葉とともに差し出されたのは、白銀にきらめく一枚の紋章――〈白銀の鷹〉。コーリング家の象徴となるものだった。
ユーリはその場に膝をつき、深く一礼した。
「拝命いたします。――この命、王国と仲間のために尽くします」
深い沈黙のあと、重臣たちは静かに頷いた。
この日より、ユーリ・フォン・コーリングは“国家の影”として、名を持つこととなる。
そして、その責任の重さが、彼に新たな試練をもたらしていくことを、まだ誰も知らなかった――。
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貴族位の拝命と、それに伴うある任を正式に受けた後のことだった。
ユーリ・フォン・コーリングは王城の奥まった執務室を後にし、厳かな石造りの回廊を足早に歩いていた。日が傾き、城の高窓から射し込む夕陽が、金と朱に染まった床を斜めに照らしている。薄闇が始まりを告げるように、光と影の境界が刻一刻と延びていた。
(しまった……思ったより話が長引いた)
複雑な手続きと任命にまつわる儀礼が終わったのは、すでに夕刻を回った頃だった。本来ならもう屋敷に戻っていてもおかしくない時間。アリアとリディアが待っているだろうと考えると、心のどこかに焦燥感が滲む。
(二人とも、心配してるかもしれない……)
足を速めながら、ユーリは深く息を吐いた。疲れが溜まっているのを自覚していたが、それ以上に、彼女たちの顔を見ることが今は何よりの癒やしだった。
だが、その矢先――
――どんっ!
「うわっ……!」
「きゃっ……!」
思いもよらない衝突に、ユーリの身体が前のめりに倒れこむ。反射的に手を伸ばし、何かを庇おうとしたその刹那。
ふわり、と甘い香りが鼻腔をくすぐり、同時に――柔らかな感触が唇に触れた。
(……え?)
一瞬、世界が止まった。
あまりに唐突で、非現実的な感触に、ユーリは目を見開いたまま凍りつく。そして数秒の沈黙の後、慌てて距離を取ったのは、彼だけではなかった。
「す、すみませんっ! 俺、急いでて――っ!」
顔を真っ赤に染め、言葉も途切れがちに謝罪を口にすると、ユーリは深く頭を下げたまま背を向けた。もう一度顔を合わせる勇気もなく、振り返らずに回廊を駆けていく。
背後から、何か呼び止めるような声が聞こえた気もしたが、その意味を確かめる余裕など、今の彼にはなかった。
残されたのは、そよ風の吹く静寂と――呆然とその場に立ち尽くす、ただ一人の少女。
白銀の髪がゆるやかに揺れ、品のあるローブに王家の紋章が輝いている。整った顔立ちには戸惑いと驚きが交錯し、指先は唇に触れたまま、微かに震えていた。
「………………」
その頬が、夕焼けとは別の熱を帯びて朱く染まる。彼女は唇に手を当てたまま、ふと呟いた。
「……わたくしに、突然キスをしてきた男の人……」
声に出してみたものの、それはまるで夢の中の出来事のようで、現実感が伴わない。だが、唇に残る微かな温もりが、たしかにそれが“現実”であったことを証明していた。
そして、その表情が変わる。
困惑、羞恥――そして、微かに浮かぶ、興味と高揚の色。
「……誰……?」
その声は囁くように小さかったが、彼女の胸の奥では確かに何かが波打っていた。
王国第一王女、エステル=ルクレティア・エルディア。
その凛とした立ち姿は、これまで幾多の政務をこなしてきた威厳と風格を備えていたが――
今、この瞬間ばかりは、恋を知らぬ少女のまなざしだった。
* * *
それから数時間後。
王女付きの執務室は静まり返っていた。窓の外はすでに夜の帳が下り、城下の灯りが星のように瞬いている。室内では、長年仕える側近の侍女が小さな声で問いかけた。
「……姫様、まさか調査を……?」
「ええ。必要ですもの。彼の素性を知らずして、この胸のざわめきは治まらないわ」
扇をそっと閉じると、エステルは微笑んだ。その笑みは、どこか満足げであり、同時に――挑戦的でもあった。
「顔はしっかりと覚えているの。あの目、あの声、あの……距離感」
頬を染めながらも、目の奥は冴えていた。
「名を知りたいの。今は、それだけでいい……それだけで、充分」
扇の骨をゆるやかに握りしめながら、彼女は決意を宿した瞳で遠くを見つめる。
名も知らぬ少年との偶然の接触。それがどれほどの運命を巻き込むかを、彼女はまだ知らない。
だが、その出会いが王女の心に“何か”を芽生えさせたことは間違いなかった。
そして、彼女の調査が密かに始まるのは、この夜のうち。
再び二人の道が交差するのは――少し先の未来。
けれど、それは確かに運命の針が動き出した証だった。




