婚姻の誓い
朝の陽が、侯爵家の瓦礫混じりの館に差し込んでいた。
割れた窓から入り込んだ陽光が、焦げ跡の残る壁や、崩れた天井の隙間を優しく照らす。まだ戦いの爪痕が生々しく残る廊下には、学院と王都から派遣された騎士たちが詰めかけており、急ピッチで修復作業が進められていた。
鎧の擦れる音、瓦礫を運び出す掛け声、呪文を唱える魔導官の声。それらすべてが、ようやく日常を取り戻そうとする場の気配だった。
だが、その中心にいる者──ユーリ・フォン・コーリングの歩みは、静かで重かった。
彼の制服は破れ、袖には血の染みが残っている。片腕には包帯を巻かれていたが、それも医療班の説得を断ったうえでの応急処置にすぎなかった。
「……ユーリ。無理しないで。傷、痛むでしょ?」
リディアが、隣で心配そうに囁く。細い指が、彼の手にそっと触れた。
「兄様……あなたがいなければ、私たち……」
アリアもまた、その手を握りしめ、微かに震えていた。あの恐怖と絶望の檻から救い出されたばかりの二人にとって、いま唯一信じられるものは、隣にいる彼の存在だけだった。
「ありがとう。でも……まだ、終わっていない。終わらせないと」
ユーリの声は静かだったが、その奥には確かな意志があった。
三人は館の奥へと進む。重厚な扉の向こう、応接室では既に人々が待ち構えていた。
紅茶の香りも残らぬその部屋には、学院から派遣された数名の魔導官と、王都直属の調査官たちが揃っていた。冷静な顔立ちの男たちは、彼らが入ってきた瞬間、ぴたりと目を向ける。
テーブルの上には書類が積まれていた。中には、エリオットの経歴、侯爵家の裏取引の証拠、違法薬物に関する記録、そして──彼の変異体の断片までもが、封じられた魔道瓶に収められていた。
「ユーリ・フォン・コーリング殿。状況はすでに確認しております」
最年長と思しき調査官が立ち上がり、口を開いた。無表情の中にも、どこか疲労の色が滲む。
「敵対者の暴走と拘束不能、ならびに人命救出のための行動として、正当防衛の範囲内と判断されます。ただし……貴族邸への無断侵入、および施設損壊については――」
「彼がいなければ、私たちは命を落としていたわ」
突然、リディアが椅子を蹴るように立ち上がった。声ははっきりと、揺るぎなかった。
「あなたたちは何もしてくれなかった。王都の法が届く前に、私たちは薬漬けにされて殺されていた。兄様がいなければ、今ここにはいないのよ」
アリアも続けて立ち上がる。その瞳には、いつもの柔らかさではなく、凛とした強さが宿っていた。
「お兄様は、正義の名の下に動いたのです。王都の正義が届かないところで、誰が私たちを守ってくれるのですか?」
調査官たちは、一瞬言葉を失ったように目を見交わす。何かを言いかけてはやめ、重苦しい沈黙が流れる。
やがて、別の調査官が小さく咳払いをし、口を開いた。
「……侯爵家の内情、違法薬物の使用、組織とのつながり──既に複数の証拠が揃っています。事実は明白です。しかし、問題はその事実をどう扱うか」
「国家の信用がかかっている、と?」
ユーリが問い返す。口調は穏やかだが、視線には鋭い光が宿っていた。
「……そうなります。この件が広まれば、他国への影響は避けられない。外交、王権、貴族制度そのものが揺らぎかねません」
「つまり、隠蔽するということですね」
ユーリの言葉に、調査官のひとりが深くため息をついた。
「……あなた方には申し訳ないが、この件について一切を口外しないよう求めます。すべては国家の安定のためです」
「ならば、こちらからも条件を出させていただきます」
アリアが一歩前へ出た。その小柄な身体には似合わぬ、王家の血を引く者としての気迫があった。
「私、アリア・グランシュタインは、ユーリ・フォン・コーリングと正式に婚約することを、ここに宣言します。これが私の意志です」
静寂が走る。
誰もが目を見開いたまま、言葉を失った。ユーリすら、一瞬だけ息を呑んだ。
「私も同じく。リディア・アーデルレインも、ユーリと共に生きる未来を望みます。国として私たちを支えるのならば、私たちも国家機密を守る義務を負いましょう」
「国が認めたなら、パパ達ももう何も言えないだろうしね」
リディアは微笑みながら、だが瞳は真剣だった。
調査官たちは驚きに眉を上げながらも、互いの顔を見て、ついにうなずいた。
「……個人間の婚約について、我々が干渉する権利はありません。ただし、学院内での振る舞いには一定の配慮を求めます」
「それで構いません」
ユーリはアリアとリディアの手を、静かに、しかし強く握り返した。
三人の絆は、言葉や書面では測れないものだった。王都の制度も、法も、彼らの信じた未来には追いつかない。
この日、正式な書類は何も交わされなかった。
だが、それでも──
確かに、ひとつの約束が結ばれた。
誰よりも深く、真実に近い、未来への誓いが。
館を離れた夕暮れ、学院へ戻る道の途中でユーリは空を仰いだ。
「ようやく……終わったな」
「ううん、お兄様」アリアが微笑んで手を握る。「始まったの。私たちの、新しい時間が」
「そうだな」ユーリも頷く。「これからは、三人で一緒に」
リディアが寄り添ってくる。「これからの未来、きっと素敵にしてみせる。ユーリ、覚悟してね?」
三人の影が、夕焼けの道に重なって伸びていった。
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──「影に潜む者たち」
場所は、王都のはずれにある貴族の廃館。
今では誰も近づかないはずの屋敷に、仄かな灯りが漏れていた。
「……失敗だな。とはいえ、想定内だ」
重い石壁に囲まれた地下室。そこに集う黒衣の数人の男女。その中心には、仮面をつけた男が一人座していた。
机の上には、砕けた強化薬の空瓶と、エリオットの最期を映した記録魔晶石。
「第十一個体、エリオット=グランシュタイン。強化薬『ヴァルザリア試薬β』を自発的に投与。結果、肉体の魔力抵抗値の破綻による崩壊──死亡確認」
男が手を伸ばし、魔晶石の映像を止める。
画面には、怒りに狂い、変異し、そして敗れたエリオットの姿が映っていた。
「だが、戦闘時間は予想より延びた。ユーリ・フォン・コーリングあの男の適応力……興味深い」
「どういたしますか?」
隣の黒衣の女が問いかける。
「継続だ。実験は“成功”とみなす。あの程度で死んだのなら、所詮は器が足りなかったということ。試薬の耐性は、あの少年にこそ試す価値がある」
「対象への接触を?」
「焦るな。まだ時期尚早だ。だが、彼は我らが探す“器”の可能性を持つ。
彼の周囲には興味深い存在も集まっている。リディア=アーデルレイン、アリア=グランシュタイン……どちらも優秀な血筋だ」
仮面の男は立ち上がる。黒衣の者たちが一斉にひざをついた。
「《深淵の杯》は止まらない。
王都がどう動こうと、我らは計画を進める。今宵、ただの一歩にすぎん」
蝋燭の炎が揺らめく中、仮面の下から笑みが漏れた。
「“次”を始めよう。あの少年の運命が、どこまで抗えるか──見せてもらおう」
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こうして、ユーリたちが知らぬところで、さらなる混乱の種が蒔かれた。




