エリオットの最期
異形と化したエリオットの体が、闇の脈動とともにさらに膨張していく。
裂けた背から突き出した骨のような棘は、まるで憎悪の結晶のように蠢いており、そのうちの一本がピクリと動いたかと思えば、鋭く空を裂いた。右腕はすでに人間のそれではなく、黒い鱗に覆われ、まるで爪獣のような異形の魔物のものに変貌していた。握るたび、骨と骨が擦れる音が聞こえてくる。
「お前だけは……絶対に許さない……! リディアもアリアも……俺のものだったのに……!」
声は嗄れ、低く濁っていた。言葉そのものに、呪いのような執念が宿っている。もはや人の理性を保った言葉ではない。同じ文句を、何度も、何度も繰り返している。膿んだ欲望と、自壊寸前の執念に突き動かされる怪物。それが、今のエリオットだった。
血のように赤黒く濁った涎が口元から垂れ、呼吸は荒い。理性という最後の糸が、今にも千切れようとしていた。
そんな歪んだ姿を前に、ユーリは、ほんのわずかに眉をひそめた。そしてその双眸に――怒りの火が灯る。
「お前が欲しかったのは、彼女たちの『心』じゃない。ただの、所有物としての姿だった……!」
静かに言い放った言葉は、激しい斬撃よりも鋭く、空間を断ち割る。
金の光が再び、ユーリの剣を包む。淡く、だが確かに、女神の加護が宿り始めていた。剣の鍔から刃先にかけて淡い輝きが走り、まるで彼自身の想いが形を成していくかのように、光が脈動する。
「アリアも、リディアも……今は俺の大切な恋人だ。彼女たちの心は、お前の歪んだ執着なんかじゃ、決して穢せない……!」
「黙れえええええええええッ!!!!!」
怒声と共に、エリオットが獣のような速さで突進してくる。床が砕け、壁がひび割れ、地響きすら伴ったその突進。だが――
(見える……)
ユーリの目には、すべてが見えていた。
膨れ上がった筋肉の動き、爪が振り下ろされる角度、呼吸のリズム――全てが、まるでスローモーションのように映る。女神の加護が、戦場におけるすべての流れを読み取らせていた。未来を断片的に視るような、その感覚。
「――ここだ!」
刹那、ユーリは左へ滑るように身をかわす。エリオットの爪が空を裂く。空気が断たれ、耳鳴りがするほどの斬撃。だが、爪が振り抜けた次の瞬間、ユーリの剣が閃いた。
斬ッ!
「ぐ、があああああああああああああッ!!!!!」
エリオットの右腕が、肘の付け根からごっそりと吹き飛んだ。黒い鱗ごと、関節ごと、斬撃は深く食い込んでいた。飛び散る血飛沫。化け物の血は濁った黒に染まり、熱を帯びて床に落ちるたびに煙を上げる。
「が、あ……あ、がああ……!」
のたうつように叫び、暴れまわるエリオット。しかしすぐに、ずるりと床を引きずって立ち上がる。切断面から膨れ上がる肉塊が蠢き、異様な速さで右腕が再生を始める――まさに不死性。しかし。
「……甘い」
ユーリは動きを止めなかった。即座に踏み込み、連撃を放つ。
横薙ぎ、回転、反転、踏み込み斬り――すべてが滑らかに繋がり、舞のような動きへと昇華していく。加護が、彼の動作に無駄なものを一切許さない。戦いの中で身体と意志が一つになり、加護の力が完全に溶け込んでいく感覚。
斬撃の一つ一つが、確かな痛打となってエリオットの肉体を穿つ。
両脚が切り裂かれ、血が噴き出す。筋肉が断たれ、軟骨が砕け、異形の身体が膝をつく。
「終わりにしよう……お前の狂気も、この執着も――すべて、ここで断ち切る!」
ユーリが跳躍。高く、まるで空を裂くかのように。
掲げた剣が天井の光を受け、眩いほどの黄金の光を放つ。女神の加護が、完全にその刃に宿っていた。もはやそれはただの武器ではない。人の想いを断ち、妄執を祓う、神の閃光――!
「――はあああああああああああっ!!!!!!」
一閃。
空間そのものが切り裂かれたかのような感覚と共に、剣閃がエリオットの胸から腹にかけて深々と刻まれた。
「が、はっ……っ!」
口から吐き出された黒い血が、地面にどろりと零れる。肉が裂け、臓腑が露出し、異形の体ですら到底耐えきれないほどの致命傷――それでも。
エリオットは、倒れなかった。
否。倒れることを拒んだ。
「ま、だ……終われるか……っ!!」
血を吐きながら立ち上がる姿は、もはや人間ではない。意地でも、執念でもない。妄執だけで動いている。再び、言葉を紡ぐ――
「なぜだ……なぜ、リディアは俺を選ばなかった……なぜ、アリアまでもが……お前に……俺は……すべてを、手に入れるはずだったんだ……!」
歯を食いしばり、血走った瞳でユーリを睨む。だがその叫びは、どこか――泣いていた。
「家柄も……力も……知識も……誰よりも、優れていた……そのはずだ……ッ!!」
「お前さえ、いなければ……お前さえいなければ……!」
呪詛のように吐かれたその言葉に、ユーリは静かに答えた。
「違う」
「お前は、自分しか見ていなかった。人の心を理解しようとせず、誰かの痛みや望みすらも踏みにじってきた。ただ欲しがるだけじゃ、誰の心もつかめない。だから、お前は……ずっと、一人だったんだ」
その言葉が、最後の楔だった。
「……黙れぇぇぇぇぇええええええええええええええええッッッ!!!!!!!」
死に損ないのような突進。身体はもう、限界を越えていた。だが、それでも。
――ユーリは動かない。
剣を静かに構え、眼差しは真っ直ぐに相手を見据えていた。
「終わりにしよう――もう、十分だ」
金色の剣が、最後の光を宿す。
刹那、光が瞬き、風が裂け――
――剣閃が、エリオットの首筋を正確に断ち切った。
「が……っ……ま……だ……っ……」
唇が動く。
その声はもはや、誰にも届かない。
膝から崩れ落ち、震える指が空を掴むように伸ばされる。
「……リ……ディア……アリ……ア……」
それは、歪んだ欲望の名残ではなかった。最後に呟かれた名は、かつて焦がれ、手に入れられなかった少女たちの――純粋な呼び名だった。
そして、エリオット・グランシュタインの身体は、崩れ落ちる。
闇の加護が剥がれ、肉体が灰となって風に還っていく。
その場に残されたのは、焦げ付いた床の黒い痕跡と、燃え残る執念の気配――それだけだった。
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戦いの嵐が過ぎ去り、静寂が部屋を支配した。
断ち切られた狂気の余韻がまだ空間に漂い、鉄と血の混じった濃厚な臭気が鼻を突く。床には黒く焼け焦げた痕が残り、そこにはもはやエリオットの姿はなかった。ただ、変わり果てた異形の残骸と、無数の薬瓶が割れ散った床。そこにあった全ての悲劇と狂気が、ようやく終焉を迎えた証であった。
──だが、終わったのは戦いだけ。
ユーリは、手にしていた黄金の剣を静かに手放した。硬質な音を立てて石床に転がった刃は、今や何も語らず、ただ使命を終えた静かな意志を湛えていた。
その瞬間、彼の視線は、奥の檻に向かう。
薄暗い部屋の隅。魔力障壁に守られた重々しい鉄格子の向こう──そこに、二人の少女がいた。
アリアとリディア。
剣では救えない、けれど何よりも救わねばならない存在が、震える小動物のように膝を抱え、身を寄せ合っていた。光の届かぬその場所で、長い時間、絶望と恐怖に晒されていたのだろう。
「……アリア。リディア」
その声は、戦場での鋭さを捨てた、ごく優しいものだった。
少女たちの肩がぴくりと揺れ、ゆっくりと顔を上げる。
「……兄様……?」
かすれた声で、アリアが呼んだ。
その表情は、まるで幻を見ているようだった。青ざめた顔、涙の跡、瞳の奥には、信じたいのに信じるのが怖い、そんな迷いが揺れていた。
「本当に……来てくれたの……?」
掠れる声で、震える唇から零れた言葉は、まるで祈りだった。
リディアも、何かを言おうとして、言葉にならず、ただ目元を覆い、肩を震わせる。彼女は普段、誰よりも強がりで、誰よりも気丈だった。だが今は、鎖に繋がれた囚人でしかなく、剥き出しの不安に晒された少女のままだった。
「……遅くなって、ごめん」
ユーリは一歩、また一歩と彼女たちに近づきながら、低く、だが確かな声で言う。
「でももう、心配はいらない。……もう絶対に、誰にもお前たちを傷つけさせない」
彼が手を差し出すと、剣とは異なる金色の光がその掌に集まった。魔力の解放。拘束具に封じられていた術式が、淡い光とともに無力化され、ガシャリ──と音を立てて鉄の鎖が外れる。
まずアリア。彼女の手首を締めつけていた枷が落ちると、彼女の細い肩がびくりと跳ねた。続けてリディアの鎖も外す。自由になった手を、自分の胸に当てて、リディアは泣き出した。
「……ユーリ……!」
次の瞬間、アリアがユーリの胸に飛び込んだ。
「怖かった……っ、でも……兄様の顔を、何度も思い出して……それで、耐えたの……!」
その声は涙で濡れ、途切れがちだった。だが、全ての言葉に込められた真実は一つ──彼を信じて待っていた、という想い。
「私も……私も信じてた……!」
リディアも遅れて抱きついた。震える両腕でユーリの背に回し、彼の胸に顔を押し当てる。
「絶対に、ユーリは来てくれるって……! もう駄目だって思っても、それだけは信じて……信じてよかった……!」
少女たちの嗚咽が重なり、熱い涙がユーリの胸を濡らす。まるで押し殺していた感情が、一気に解き放たれるかのように。
ユーリは、二人を優しく抱きしめる。守ると決めた腕で、これ以上ないほどにそっと包む。
「ありがとう……信じていてくれて、本当にありがとう……」
この再会にどれほどの重みがあったか。言葉では到底足りない。触れ合う手の温もりが、鼓動が、全てを語っていた。
──互いに生きて、こうして再び触れ合えた。
そのただ一点だけで、胸が張り裂けそうになるほどの感情が、あふれ出す。
アリアは静かに顔を上げ、潤んだ瞳でユーリを見上げた。
「……夢じゃ、ないよね……?」
「違う。これは、現実だよ」
ユーリは微笑む。そしてリディアの額にも、そっと手を当てる。
「もう大丈夫。二人とも……もう、自由だ」
言葉に宿る温かさが、深い恐怖の余韻を少しずつ溶かしていく。
アリアは両手を握りしめて、泣きながら、だけど少し笑って言った。
「兄様の声、ちゃんと聞こえる……温かい……本物だ……」
リディアも、涙を拭おうとしながらも止まらず、声を震わせて呟く。
「……これからは、離さないでね。もう……怖い夢なんて、見たくないから……」
「もちろんだ。二度と、離さない」
その誓いは、神にも等しいほどに揺るぎなかった。
壊れかけた心を、ようやく繋ぎ止めた三人。
互いの存在が、互いの光となり、まだ残る暗闇を少しずつ追い払っていくようだった。
そしてその時、ようやく、夜が明けたのだ──彼らの心の中で。




