戦闘の加護の成長
侯爵家の一室――本来ならば貴族の優雅を象徴する空間だったはずが、今は異様な雰囲気に満ちていた。窓は閉ざされ、重たい香が漂う。床には何かに爪を立てたような深い傷が無数に走り、空気そのものが淀み、肌を刺すような圧力が室内を支配している。
「ゆるさんぞ、ユーリ・フォン・コーリングーー!」
闇の中、低くくぐもった声が響いた。
その姿は、もはや人ではなかった。血管が異様に浮き上がり、皮膚は青黒く変色し、全身の筋肉は過剰なまでに膨張していた。鋭く伸びた爪、牙を剥いた口元から滴る唾液。そして――真紅に燃えるような双眸。理性も感情も捨て去り、ただ本能と欲望だけが支配する眼だった。
「……エリオット。そこまでして、なにを手に入れたかった」
ユーリは息を整えながら問いかける。時間を稼ぐためではない。ただ、確かめたかった。彼がどこまで堕ちてしまったのかを。
「おまえにはわからん……! 俺のモノだったんだ、あの子たちは! アリアも、リディアも……! おまえさえいなければ……っ!」
咆哮と共に、エリオットの巨体が弾けたように動いた。
その一瞬、視界から姿が掻き消えた。
「っ――!」
重たい拳が、腹部に直撃した。反応が、間に合わなかった。
肋骨が軋む音が、自分の鼓膜に届いた気がした。息が肺から弾け飛び、視界が白く染まる。体が宙を舞い、壁に背中から叩きつけられる。
「ぐっ……かはっ!」
喉の奥から血が滲む。壁からずるりと崩れ落ち、膝をつく。握っていた剣は手から落ち、床に鈍い音を立てた。
(……速い……っ。あの巨体で、この速さ……!)
思考が追いつかない。鼓動が耳を打ち、視界が揺れる。頭の中で警鐘が鳴り響くが、体はすぐに反応してくれない。
次の瞬間、気配が目前に迫る。
「せいぜい苦しめ、ユーリィィィィ!」
怒声とともに振り下ろされる巨大な腕。避けきれない。とっさに剣を拾い上げ、横に構えて防ぐ。
轟音。激しい衝撃。全身に稲妻のような痛みが走る。
剣ごと押し潰され、再び弾き飛ばされる。今度は床を転がり、椅子や調度品を巻き込みながら部屋の端まで叩きつけられる。
(……剣が……折れかけた……っ)
両腕が痺れる。骨の軋み。握力が抜けかけているのを、気力で押し留める。
「どうした? 加護を使っていても、その程度か! おまえは、弱い!」
嗤う声。まるで肉を裂くような、忌まわしい声。
(……まずい。このままじゃ、押し切られる……!)
ユーリはなんとか膝をつき、ぐらつく体を支える。心臓が脈打ち、視界が滲む。立ち上がるだけでも、体が悲鳴を上げる。
だが――それでも、止まるわけにはいかない。
「やめろ――!」
叫びは無意識だった。だが、それに応えたのは――
「兄様、もうやめて……! お願い、私たちはもう、ユーリと……っ!」
震える少女の声。足元で泣きそうになりながら訴えるアリア。
「うるさい、アリアァァァァッ!!」
怒号。振り返ったエリオットの眼に、狂気と――殺意。
「そうだ…おまえたちはもう……俺のものじゃない……! 俺のものじゃないなら壊さないとなァ!」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
(――ダメだ、今のままじゃ耐えるだけだ。……俺が、戦わなきゃ!)
力を振り絞って、足を踏み出す。
胸の奥――女神から授けられた加護が、かすかに震えた。
まだ完全には目覚めていない。しかしその片鱗だけでも、確かに力が宿っていた。
「……立つのかァ。面白い。ならばァ、何度でも叩き潰してやろうゥ゙……!」
地鳴りのような足音。再び迫る、爪の斬撃。
視界の端に見えた閃光のような爪――床を裂き、風を切る音が鼓膜を打つ。
反射的に身を捻る。ギリギリで回避。
だが、鋭い爪の先端が腕をかすめた。裂傷。熱い血が、肌を流れる。
致命傷ではない。まだ戦える。
剣を逆手に握り直し、呼吸を整える。背後を取ろうと、一気に間合いを詰める。
だが――エリオットは、読んでいた。
「甘いなァ!」
背後から肘が突き出された。避けきれず、腹部を抉る一撃。
「がっ……!」
胃の中が逆流しそうになる。膝が折れ、今度こそ意識が飛びかける。
(……速い。強い。経験もある。……身体を変えても、自分の力を使いこなしてやがる……)
苦悶の中で、思考だけは必死に動かし続ける。
自分の弱さ。相手の強さ。守らねばならない者たちの存在――
すべてが混ざり合い、一つの確信へと至る。
(――それでも。俺が守る。たとえこの命を削ってでも)
ユーリは、また立ち上がる。
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「まだ立つのか……しぶといなァ、ユーリ・フォン・コーリングゥ゙!」
「そう簡単には、倒れてやれないのさ……あいつらが、俺を信じてくれてるからな」
血に濡れた唇に微かな笑みを浮かべながら、ユーリは剣を構え直した。崩れかけた呼吸を整え、一歩、床を踏みしめるたびに、内から脈動する力が全身を巡るのを感じる。女神から授けられた加護――それはただの祝福ではなく、戦いの中で主と共鳴し、強さとして現れる生きた力だった。
ガキンッ!
金属の響きが室内に爆ぜた。今度はただの防御ではない。エリオットの獣じみた爪の一撃を、剣で押し返したのだ。その爪先から、細かな欠片が砕け散る。
「なにっ……!」
獣の顔に一瞬、戸惑いの色が走る。今までの優位を崩された、その違和感。
「見える……動きが、読める……!」
視線は鋭く。呼吸は静かに。世界の“ノイズ”が薄れ、敵の動きが透明になる。踏み込み、腕の振り、力の集中――すべてが予兆のように感じ取れる。まるで、時がほんのわずかに遅く流れているかのように。
その感覚を逃さず、ユーリは斬り上げた。剣筋は一閃、鋭い光を放ち、エリオットの左肩を深く抉る。
「ぐあっ……!」
裂けた肉から黒く変色した血が噴き出す。だがそれでも、エリオットは倒れない。怒りと痛みに満ちた声を上げながら、振り返る。
「貴様ァァァァァッ……!」
「アリアも、リディアも……俺の大切な人たちだ!」
叫びと共に、再び剣が閃いた。重心をずらし、真横から足を薙ぐように斬りつける。エリオットの膝が崩れかけ、巨体が僅かに沈む。
が、それでも崩れない。
「……くそッ……タフすぎる……!」
明らかに決定打。だが、異形と化したその肉体は、常識を超えた耐久を持っていた。筋繊維が千切れても、骨がきしんでも、それでも立ち上がろうとする力。
「ふざけるな、ふざけるなあああああああッ!!」
怒号と共に、エリオットの体にさらなる異変が起きる。皮膚が裂け、脈打つ血管が音を立てて膨張する。骨が皮膚を突き破り、背から棘が突き出る。その様は、もはや人間とは言い難い――まさに、怪物。
「貴様ごときに、俺が負けてたまるかァァァッ!!」
「……ああ、もう……お前は、止めなきゃならない存在だ」
言葉の裏に、覚悟があった。もはや説得も、情も通じない。ユーリの剣は、“守るための剣”として、確かにその意志を帯びていた。
踏み込み、斬りかかろうとしたその瞬間。
「動くなァァァッ!!」
掌から放たれた衝撃波。目に見えぬ圧が壁を割り、床を裂く。
「っぐ……!」
反射的に剣を構えるが、完全には防ぎきれず、体が吹き飛ぶ。壁に背中を打ちつけ、呼吸が止まりかける。
しかし、倒れない。いや――倒れ“られない”。
膝をつくことすら許されない状況で、ユーリの中で何かが完全に目覚めた。
(……来る。この力……これはもう、加護じゃない。俺自身の“意志”だ)
ゆっくりと立ち上がる足取りには、もはや迷いはなかった。背筋が自然と伸び、両足が地をしっかりと捉える。剣が震え、刃が淡い金の光を帯びていく。
「終わらせる……この狂気も、おまえの執着も……俺が、止める!」
部屋に充満する瘴気を打ち破るように、金の光が眩しく煌いた。




