薬の代償
貴賓室の扉が、きぃ、と微かな音を立てて開かれた。
その瞬間、冷たい空気が廊下から流れ込み、部屋の中に張り詰めた沈黙と交わって凍りついたような緊張が生まれる。
ゆっくりと踏み入る黒衣の男――ユーリ・フォン・コーリング。
彼の足音は重く、確信に満ちていた。だが、心の奥では怒りと焦り、そして何よりも愛する者を奪われた苦しみが渦を巻いていた。
「……ようこそ、我が家へ」
部屋の奥、月明かりの差し込む大窓の前に佇む男が、背を向けたまま低く呟く。
エリオット・グランシュタイン。
侯爵家の嫡男にして、リディアとアリアの従兄。白銀の髪が月光を受けて鈍く輝き、細身のシルエットに狂気めいた威圧感をまとわせていた。
ユーリは視線を左右に走らせ、すぐに二人の姿を見つけた。
「リディア……アリア……!」
部屋の壁際、豪奢な絨毯の上に座らされたまま、鎖で縛られている少女たち。
リディアは唇を噛み、憤怒と恐怖を押し殺して瞳を見開き、アリアは怯えながらも微かに震える声で答えた。
「ユーリ……来てくれたんだね……」
「当然だ。遅れて悪かったな」
ユーリは一歩、また一歩と前に進む。その眼差しには迷いなどなかった。
手には鍛え抜かれた剣を下げ、身体には創造の加護による魔法障壁を展開している。全身が戦いのために研ぎ澄まされていた。
「何が目的だ、エリオット。なぜこんな真似を?」
問いかけには答えず、エリオットはゆっくりと振り返った。
その顔に浮かぶのは、薄ら笑い。そして、明確な殺意。
「なぜ? ……君に聞かれる筋合いはないさ。君はただ、奪っただけだ。僕が、人生のすべてを懸けて手に入れようとしていたものを」
「……リディアとアリアのことか?」
「当然だ。彼女たちは――僕のものになるべきだった」
声に狂気が混じる。彼の視線がリディアとアリアに注がれた途端、二人の身体が一瞬ぴくりと震えた。
だが、恐怖に屈することなく、リディアが毅然と言い放つ。
「エリオット……私は、あなたのものになんてならない。私はもう、ユーリのものよ」
その言葉は、剣よりも鋭くエリオットの心を貫いた。
「戯言だ……! 所詮、子供のお遊びだろう!? すぐに……すぐに私のものにしてやるさ!」
エリオットが嗤う。狂気がその声音に滲み出る。
しかし、アリアが静かに、だが凛とした声で続けた。
「いいえ、私たちはもう……ユーリと夜を共にしました。肌を重ね、心を通わせ、想いを確かめ合いました」
その告白に、エリオットの目が大きく見開かれた。
リディアもまた、はっきりとした口調で言い切る。
「私たちは、何度もユーリに抱かれました。彼の腕の中で、女として愛されたの。心も体も、全部――彼のものよ」
アリアが頬を染めながらも目を逸らさず、優しく微笑んだ。
「貴方に、そんな気持ちを抱いたことなんて、一度もない。それが、私たちの答えです」
沈黙が部屋に満ちた。
その重さは、大理石の床よりも重く、冷たい。
エリオットの顔から血の気が引く。
唇が震え、目はうつろに宙を彷徨う。
「……な、にを……言ってる……」
「もう、“彼の女”なのよ」
リディアの微笑みがトドメを刺した。
その瞬間――。
「な、なん……だと……! 貴様……貴様ァァアアアアアアアッ!!」
エリオットの叫びが爆発した。
彼は懐から小瓶を取り出す。中には、不気味に揺れる紫色の液体。
「僕の人生を! 僕の愛を! 全てを! 田舎貴族風情が奪ったんだあああああッ!!」
瓶の栓を引き千切り、液体を一気に飲み干す。
次の瞬間、肉体が異様に膨張し、皮膚の下に血管が浮かび上がる。目は充血し、歯は鋭く変形し、指先は獣のような鉤爪へと変貌した。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」
部屋中に響く咆哮。
豪奢な部屋が戦場へと変わる音がした。
アリアが小さく悲鳴を上げ、リディアが必死に彼女をかばう。
ユーリは、剣を水平に構え直した。
「来いよ、化け物。――その程度の力で、俺から何か奪えると思うな」
エリオットの瞳が揺れる。理性と激情の狭間で、何かが崩れ落ちた。
「……ふざけるなぁぁぁあああ……!」
アリアとリディアがわずかに身を強張らせる。エリオットの目が、もはや人のものではない。
「全部、お前のせいだ……! お前さえいなければっ!」
そう言う間にもエリオットの姿は変質していく
背筋が反り、骨が軋む音が響く。関節という関節が異常な音を立てて軋み、筋肉が異様に膨れ上がっていく。
制服の上着が裂け、皮膚の下から黒い筋が浮かび上がった。血管ではない。何か別の、異質な“もの”が、彼の肉体の中で蠢いている。
「ッが……ッ、あああッ、ぐうぅあッッ!!」
手が伸び、指が異様に長く、鋭く変形する。爪は漆黒の刃となり、指先から血のような液体が滲み出す。
「ア……アリア……リディア……返せ……!」
その声はもう、エリオットのものではなかった。
牙が生え、瞳孔が縦に裂ける。黒と赤に染まった虹彩が光を帯び、まるで獣のように光を反射する。
「……なにこれ……」と、アリアが呟く。
リディアが唇を噛む。「薬の力……こんな……」
彼の背中から、うねるような触手のような影が生える。それは肉体ではない、魔そのものが具現化したものだった。
「俺は……誰よりも強くなる……お前を……八つ裂きにして……妹を、リディアを……取り戻すッ!!」
足元の床石が砕け、強化された肉体が大地を震わせるほどの力を得た証を示す。
だがその瞳に宿るのは、狂気と妄執――もはや人間としての意志ではない。
「来ォい、ユーリ・フォン・コーリング……!」
――最悪の兄、魔性の怪物と化したエリオットが、戦いの幕を切って落とした。




