彼女たちを迎えに
──重く沈むような静けさが、部屋の隅々にまで染み込んでいた。
リディア・アーデルレインは、重厚な背もたれの椅子に身体を預けさせられる形で、固く縛られていた。手首は後ろ手に、足首は椅子の脚に括りつけられ、身動き一つ取れない。口元こそ塞がれていなかったが、それは「喋らせたい」という意図の表れに他ならない。
部屋には、古びた絵画と壁一面の書棚、そして金縁の装飾が施された鏡。磨かれた床の上には深紅の絨毯が敷かれ、蝋燭の揺れる炎が、部屋の荘厳さと異様な静けさを際立たせていた。だが、そこにあるのは格式ではなく、閉じ込めるための『檻』だった。
リディアの紅い瞳が鋭く光る。表面こそ冷静を保とうとしていたが、その奥には怒りと困惑、そして微かな恐怖が渦巻いていた。
──どうして。どうしてこんなことに。
数時間前まで、穏やかな日常だった。アリアと共に、屋敷の庭を散策していたはずなのに、いつの間にか意識を失い、目覚めればこの部屋の中。気がつけばアリアも、隣室で同じように拘束されていた。
そして──扉の向こうから聞こえてくる、聞き慣れた声。
「やぁ、こんな形で屋敷に招待することになってしまってすまないね、リディア嬢」
ゆっくりと扉が開き、銀髪の青年が姿を現す。グラスを片手に、軽やかに歩を進めるその姿は、見慣れた貴族の青年そのもの──グランシュタイン家の長男、エリオット・グランシュタイン。
だが、そこにあるのはいつかの礼儀正しさではない。笑顔の裏側に、ひどく歪んだ感情がにじんでいた。
「……あなた……どういうつもりなの?」
リディアは唇を震わせながらも、気丈な声で問いかけた。怯える気配を見せるつもりはなかった。だが、その瞳が捉えたエリオットの笑みには、ぞっとするほどの狂気が滲んでいた。
「君には、しばらくここで休んでもらうだけさ。あの男の元に戻る必要はない……いや、むしろ、戻るべきじゃないと思っている」
エリオットは窓辺に歩み寄ると、グラスを傾け、赤いワインを一口含んだ。蝋燭の光に照らされたその横顔は、どこか夢見るようでいて、どこまでも現実離れしていた。
「君の美しさは、ユーリには過ぎた贈り物だ。……分からないかな? あの男は、君という宝物を穢す存在なんだよ。アリアも同じさ。僕だけが、君たちを守れる」
「……ふざけないで。ユーリは私の大切な……私が、自分で選んだ人よ」
リディアは絞り出すように言った。その声には恐れよりも怒りが混じっていた。だが、エリオットは首をゆっくりと傾げて、あくまで柔らかい口調で答える。
「そう……まだそう思っているんだね。でも大丈夫だ。君も、すぐに気づくはずだよ。彼が君にとって、本当に相応しい相手ではないということに」
「あなたが決めることじゃないっ……!」
その叫びに、エリオットはわずかに目を細めた。その目には、もはや正気の光は宿っていなかった。
「僕の愛しい妹を、そして君を……彼は奪おうとしている。僕の大切なものすべてを……。だから、僕が守らなくてはいけないんだ。僕自身の手で」
「それは“守る”んじゃない。“支配”よ……!」
リディアの声が震える。それは怒りと、そして恐怖と、何よりも──悲しみによるものだった。
エリオットは何かを確信したように小さく頷き、静かに言った。
「……君が理解してくれると、信じているよ。リディア。時間をかければ、きっと分かる。僕の想いが、どれだけ純粋かを」
その微笑みは優しさに似ていた。だが、その実、狂気そのものだった。
リディアはその視線に背筋を凍らせながらも、心の中で静かに──確かに決意していた。
(……絶対に、こんなところで終わってやるもんですか)
あたしは、ユーリを信じてる。必ず迎えに来る──そう信じているからこそ、この屈辱を絶対に忘れない。そして、立ち上がるために、いまはただ、牙を研ぎ澄ます。
瞳を伏せたリディアの中に、確かな怒りの炎が灯っていた。
***
夜の静寂に沈む街。その喧騒を遠ざけるように、グランシュタイン侯爵家の屋敷は高台に聳え立っていた。鋭角な屋根と鉄の尖塔。高く厚い石塀が月光すら拒むかのように影を作り出している。
黒いマントを纏ったユーリ・フォン・コーリングは、崖上の林の影からその異様な屋敷を見下ろしていた。
視線を鋭く向けると、敷地内には数十名の兵士が常に巡回している。統制のとれた動きからして、彼らはただの衛兵ではない。精鋭――もしくは、戦の訓練を積んだ“選ばれた者たち”。
「……完全に、何かを“護っている”な」
ユーリは目を閉じ、静かに意識を集中させる。空気に溶け込んだ微かな魔力の残響――それは、リディアとアリア、二人のものだ。まるで燻る炎のように、確かな気配が屋敷の上階から伝わってくる。
(最上階の貴賓の間――間違いない)
マントを翻し、ユーリは崖の縁から音もなく身を投じた。
風の精霊術と創造の加護による術式が身体を包む。空気を受け流し、軌道を曲げ、まるで落下ではなく滑空するように、彼の姿は夜の闇に溶けてゆく。
着地は果樹園の片隅。ふわりと地を踏むと同時に、風の膜が音と衝撃を殺した。
(ここからが本番だ)
視線を鋭く巡らせながら、屋敷の裏口を目指す。だがその途中――
「誰だっ!」
一人の兵士が異変に気づいた。続けざまに松明が振り上げられる。
「っ……!」
ユーリは即座に小さく左手を振る。風を利用した閃光が、突如として闇を切り裂いた。
「ぐっ……目が、見えない!」
視界を奪われた兵士が崩れ落ちる。その背後から、もう一人の兵士が剣を抜いて突進してきた。
(やはり、見逃してはくれないか)
刹那の判断で短剣を抜き、斬撃を受け止める。
――金属が衝突する音が、鋭く夜に響く。
だが、剣の重さも構えも、全てが遅い。ユーリの動きはそれを遥かに凌駕していた。
「甘いっ!」
力を加減しつつ、敵の腕を絡め取るように短剣を滑らせ、次の瞬間には柄で側頭部を打ち据えていた。
「……っぐ!」
兵士が無言で崩れ落ちる。
風の魔法で気配を撹乱しながら、二人を木陰に引きずり、即興の拘束を施す。足跡も風で掻き消し、再び気配を殺して屋敷裏手の勝手口へ滑り込む。
中は静まり返っていた。
香水の甘い香り、燭台の揺らめき、赤い絨毯と装飾過剰な調度品の数々――それらは囚われた二人にはあまりに不釣り合いで、ユーリの胸を締め付けた。
(すぐに迎えに行く……もう、怖がらせはしない)
気配を殺し、館内を進む。幻影の術式で数人の警備兵の視線を逸らし、柱の陰から柱の陰へと移動していく。
だが――
「止まれ! 誰だっ!」
一人の兵士が、幻影の僅かな揺らぎに勘づいた。気配を悟るや否や、大声で叫ぶ。
瞬間、四方から重い足音が迫ってきた。
(もう隠れる時間はない)
ユーリは深く息を吸い、鞘から長剣を抜き放つ。
「通してもらうぞ――ここで、誰一人として殺すつもりはない」
床に魔法陣が描かれ、術式が起動。足元の大地が歪み、駆け寄ってきた兵士の足を滑らせる。同時に、宙に浮かぶ蒼い刃が三本、ユーリの背後から現れ、誘導された兵士の武器を一斉に叩き落とした。
「な……何だ、この魔法はっ……!」
「お前たちじゃ、止められない」
一人目の兵士が吶喊する。その剣を弾き飛ばし、肘で急所を突いて昏倒させる。続く二人の連携も、ユーリの重力操作による術式で足元をずらされ、動きを封じられる。
(創造の加護……応用すれば、いくらでも手段はある)
三人、四人、五人――数人がかりの連携も、ユーリの前では一撃すら通らない。すべての攻撃を最小限の動きで捌き、力ではなく「術」で制していく。
まるで、別格。圧倒的な差。
そして――
「っは……もう、終わりか?」
最後の一人の動きを封じ、床に転がした時、ユーリは静かに剣を収めた。
深く息を吐く。血を流した者は、一人もいない。
(このまま、突き進む)
階段を駆け上がる。気配が強まる。恐れ、そして微かな希望――彼女たちがそこにいる。
最上階、貴賓の間。分厚い扉に手をかざし、創造の加護で練り上げた魔術鍵を挿入する。
カチリ。
錠が音を立てて解かれた。
扉が静かに開き、蝋燭の光が彼を迎える。
そこにいたのは――縛られたまま、懸命にこちらを見つめる二人。そして、その傍らでワインを片手に、悠然と立ち上がる銀髪の男、エリオット・グランシュタインだった。
「やあ、やはり来たか。ユーリ・フォン・コーリング」
その笑みの裏にあるものを見据え、ユーリは静かに剣を構え直した。
「リディア、アリア――今、君たちを迎えに来た」




