エリオットの狂気
草花が風に揺れる。
淡く柔らかな陽光が、揺らめく葉の間からこぼれ落ちる午後の庭。
そこは、寮の裏手にひっそりと広がる花畑だった。
静かな春の空気。鳥の囀りが遠くに聞こえ、時折、虫の羽音が通り過ぎる。
色とりどりの花々が咲き誇り、まるで絵本の中の一場面のように穏やかな場所だった。
その中に、二人の少女がいた。
「ふふっ、あの花、リディアに似てるかも」
アリア・アルシェリアは白銀の髪を風に揺らしながら、柔らかく微笑む。
指先で触れたのは、赤く艶やかな花弁。花の名も知らぬその花は、陽の光を反射してほのかに輝いていた。
「強くて華やかで、でも……どこか儚い感じ」
そう言いながらアリアは、ひとひらの花びらをそっと摘み取って胸元に抱える。
「……そんなこと言って、また誤魔化して」
リディア・アーデルレインは、少し顔を赤らめながら、わざとらしく視線を逸らす。
その金髪もまた風にそよぎ、咲き乱れる花と見紛うほどに鮮やかだった。
「どうせそれ、ユーリに渡すつもりでしょ。ね?」
「ふふ……バレちゃった?」
アリアは恥ずかしげに頬を染めて、唇に指を当てて微笑んだ。
その笑顔を見て、リディアは思わず視線をそらす。
「ま、まあ別に、そういうのは……止めないけどっ」
「うん。ありがとう、リディア」
アリアは嬉しそうに言い、そっとリディアの手を取る。
少女たちは手を取り合い、咲き乱れる花々の中を歩いた。
やわらかく、温かく、そして何もかもが優しかった。
ほんの一瞬前までは。
――風が止んだ。
それはほんの一瞬の出来事だった。
あれほどまでに心地よかった風が、ふと途切れた。
その刹那、空気の密度が変わった気がした。
「……?」
アリアはふと、背筋に走る寒気に気づく。
視線を上げると、春空には一点の曇りもないはずだったのに、どこか色彩が鈍く見えた。
「少し奥まで行ってみよう? あっちの方、まだ見てないよ」
「うーん……変な虫とか出ないなら、いいけど……」
いつものように、軽口を交わしながら、二人は小道を抜け、奥の林へと足を進める。
だが次の瞬間。
――草が揺れた。
まるで風でも通ったかのように、林の手前の草むらがざわりと揺れた。
「……っ、リディア。今の……」
「……気づいた? ……後ろ……っ!」
振り返ると、そこにいた。
黒衣の者たち――三、いや四人。
全員が黒いローブを纏い、顔を仮面で覆っていた。
その仮面は無機質な銀色で、まるで人の感情というものを拒絶するように冷たかった。
「誰よ、あんたたち……っ!」
リディアが即座に魔力を練り上げる。
だが、空気が重い。まるで透明な水の中にいるかのような、ねっとりとした圧力が体を包んでいた。
「……っ、魔力が、うまく流れない……なにこれ……!」
「結界よ……これは……!」
アリアの声が震える。
足元にはいつの間にか、見覚えのない紋様が浮かんでいた。
淡い紫の光で編まれた、精緻な術式。まるでその空間全体が結界魔法で封じられているようだった。
「術式結界……っ!」
「離してっ! 近寄らないで、ユーリに報告するから……!」
リディアが叫び、腕を振り払おうとする。
しかし、黒衣の者の一人が無言で手をかざした瞬間――彼女の体が、ぴたりと動きを止めた。
「……なっ、動けないっ!? なにこれ、体が……!」
紫色の魔法陣が彼女の体を淡く包み込み、拘束の魔法が発動していた。
リディアの瞳が恐怖に見開かれる。
「やめて……お願い……誰か……ユーリ……助けて……っ!」
アリアの叫びが、花々の揺れる中で空へと吸い込まれていく。
その声が、誰にも届くことはなかった。
黒衣の者たちは、まるで定められた手順であるかのように無言で二人を抱え上げると、中央に浮かび上がった転移術式へと足を踏み入れた。
魔法陣が淡く輝き、空間がねじれるように歪む。
「やめて……! ユーリっ、ユーリぃっ……!!」
最後の悲鳴が木々を震わせる。
そして――一瞬の閃光。
黒衣の者たちと、二人の少女の姿は、跡形もなくその場から消えた。
残されたのは、風に揺れる草花と、
踏みにじられた花弁。
そして――地面にぽつりと落ちた、小さな金の髪飾りだった。
春の陽光はまだ優しく降り注いでいる。
だがその光は、もう温もりではなく、虚ろな記憶のようにしか見えなかった。
──静寂が戻る。
あまりに、残酷な静寂だった。
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ユーリは焦っていた。
(……やはり、どこにも彼女たちの姿がない)
空は晴れている。風も柔らかい。鳥の囀りも絶え間なく響いている。
――それでも、何かがおかしい。
「アリア……リディア……どこに行った……」
呼びかけは空しく、誰の返事もない。
胸の奥が、じわじわと焼けつくように熱くなっていく。
それは不安というにはあまりに鋭く、ただの焦りでは済まされぬ確信を孕んでいた。
(違う……これは、ただの散歩じゃない)
アリアは、いつもなら花畑に寄るにしても、時間を気にして帰ってくる。
リディアはそもそも一人で出歩くことを好まない。何より、今日は昼下がりの時間に寮の裏手で静かに過ごすと言っていたはずだった。
——ならば、今ここにいないという事実こそが、異常だった。
ユーリは花壇を見渡した後、踏みしめるようにして林の方へと足を進めた。
よく少女たちが花を摘みに行くと話していた場所だ。穏やかで、安全で、守られているはずの中庭の外れ。
しかし、その場所に、はっきりとした「異物」があった。
「……魔力の残滓……?」
ユーリは地面に片膝をつき、手をかざす。
肌に触れる風の流れが、微かに引っかかる。
空気の層が、薄い膜のようにねじれ、わずかに焦げたような匂いを含んでいた。
自然ではない。これは、人工的な魔力の干渉――それも、術式に由来する。
「これは……強制転移か? いや、それだけじゃない……」
指先に集中を込めると、地面の上に極めて薄い紋様が浮かび上がる。
通常の視界では見えないが、残留魔素の輪郭を捉える術式を使えば、それは明確に――そして悪意を孕んだ形でそこにあった。
「……術式結界、か……」
胸がざわめく。
学園の警戒網をすり抜け、この中庭に結界式を展開し、しかも転移術式と組み合わせている――。
単なる悪戯や無差別な魔導犯罪ではない。
明確な「目的」と「技術」がなければ、ここまでのことは不可能だった。
そのとき、ユーリの視界に、白く小さなものが落ちているのが目に入った。
……それは、一輪の花だった。
「……っ」
静かに手を伸ばし、それを拾い上げる。指先に触れた瞬間、その花が、いつかアリアが胸元に抱えて笑っていた姿と重なった。
「アリア……」
言葉が漏れる。
同時に、胸の奥に走ったのは、雷鳴のような直感的な衝撃。
これは偶然ではない。
何者かが、意図的に、アリアとリディアを狙ってここから連れ去った。
ユーリの表情から、戸惑いがすうっと消えた。
代わりに現れたのは、冷たく研ぎ澄まされた理性――戦場で培った、生き残るための判断力だ。
(術式結界に、空間転移。それも高精度……)
(この術式構成は、おそらく王都標準の複合魔導理論。つまりこれは、王国の魔法体系を熟知している者……)
思考の刃が、記憶を切り裂くように巡る。
学園内部で、結界を破り、痕跡をほとんど残さずに少女たちを連れ去れるだけの技量を持つ者。
何人かの名前が脳裏に浮かんでは消えていく中で、ひとつの名だけが、まるで鉛のように沈み残った。
「……エリオット・グランシュタイン」
名を口にした瞬間、喉奥がひりついた。
その男なら可能だ。
魔術と結界術において、並ぶ者のない天才と謳われた存在。
だが同時に、その冷酷さと猜疑心の強さでも知られる。
ユーリはゆっくりと立ち上がり、握りしめた花を胸に収める。
(もし本当に……お前が関わっているなら――)
その瞳には、もはや迷いはなかった。
少女たちを連れ去った者が誰であれ、追いつき、取り戻し、そして――許さない。
花が再び揺れた。風が戻ってきた。
だが、もうそこに春の匂いはなかった。
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──どこか、遠い世界の奥に沈むような静けさだった。
意識が緩やかに波打ち、まるで深海に引き込まれるような感覚が続いていた。まぶたの裏には何の光も差さず、ただぼんやりとした闇だけがあった。時折、遠くで誰かの呼ぶ声が聞こえた気がしたが、それもすぐに霧の中へと溶けていく。
アリアは、やがてその霧の中からようやく意識を引き戻した。
まぶたが重い。目を開けようとすると、頭がずきりと痛んだ。
鈍く、鈍く、脈打つような痛み。
それでも、少女は目を開けることをやめなかった。
「……っ、ここは……?」
視界が、ぼやけたまま形を結び始める。天井の高い装飾、金と青を基調にした壁紙、背後に控えた重厚な書架。鼻に届くのは、古書と香木の微かな香り。そして身体には異物感。――そう、背中が硬い椅子に預けられ、両手首は背後で縛られている。足首も何かで固定され、自由が利かない。
アリアの心臓が、ゆっくりと、しかし確実に速くなっていった。
(この場所……知ってる……)
それは、記憶の奥に刻まれた部屋だった。少女の幼少期の一部が、この場所で過ごされた時間に結びついている。
この部屋は――グランシュタイン侯爵家の屋敷、そして兄・エリオットの私室だった。
そのとき、不意に扉が開く音がした。金属音も軋みもない、静かな開閉。
すでに整えられた一歩一歩の足音が、床に吸い込まれて近づいてくる。
「アリア、お目覚めかな?」
その声――聞き慣れた、懐かしい、けれどどこか異様な――その声に、アリアは顔を上げた。
淡い銀髪が、静かに揺れる。
スーツを端正に着こなし、相変わらずの涼やかな顔立ち。その表情には、酷く優しげな笑みが浮かんでいた。けれど、アリアの背筋を這う悪寒は、それがただの「兄の笑顔」ではないことを告げていた。
「兄……様……? どうして……私、こんな……縛られて……」
声が震えていた。混乱と恐怖が入り混じりながら、それでもアリアは自分を保とうとした。
エリオットは、ゆっくりと一歩、また一歩と近づいてくる。
その足取りは、まるで迷子の妹を諭す兄のように柔らかで、だが、狂気が滲んだ。
「怖がる必要はないよ。君はここにいてくれればいい。ただ、それだけだ。誰にも……君を渡したくないんだ」
「……っ!」
言葉の意味を理解した瞬間、アリアの瞳に怒りと恐怖が一斉に走った。
「ふざけないで! こんなやり方、歪んでるわ。……こんなことして、私の何が守れるっていうの!?」
その反論に、エリオットはまるで慈しむような微笑みを深めた。
「ユーリ・フォン・コーリングは、君の価値を知らない。君に触れる資格なんてない。リディア・アーデルレインのこともそうだ。……あの女も、僕のもの。君はもっと、純粋で、美しくあるべきなんだ。僕だけが、それを守れる」
「っ……!」
アリアは激しく首を振った。縛られた体がきしむほどに、彼女の否定は明確だった。
「勝手に……私のことを決めないで! 私は……私はユーリ様といたい。リディアとも一緒に笑っていたい……それが私の――幸せなの!」
そのときだった。部屋の隅、もうひとつの影が動いた。
視線をそちらに向けると、リディアがいた。彼女もまた同様に縛られ、口を布で塞がれている。
だが、彼女の瞳は何よりも雄弁だった。怒り、屈辱、そしてアリアを守りたいという意志。
エリオットはその視線に気づいていながら、あくまで無関心を装っていた。
「君には……まだ分からないかもしれない。だが、時間をかければきっと理解できる。僕たちは、家族だから」
「家族……だから?」
アリアの声が震えた。けれどそれは、恐怖からではなかった。
「そんな言葉で、私を縛れると思ってるの!? ……私、あなたが……そんなにおかしくなっていたなんて思いたくなかった……!」
涙が一筋、頬を伝った。だがその瞳は、折れてはいなかった。
決して、心までは屈しない。
それが、アリアだった。
エリオットはそれでも笑みを崩さず、静かにその場に腰を下ろした。
まるで、これから始まる「理想の時間」を予感しているかのように、狂気を秘めた穏やかさだった。
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一方その頃、ユーリ・フォン・コーリングは確信に至っていた。
学園の警備網、森の痕跡、結界式の緻密さ、そしてあまりに整いすぎた痕跡の消し方。
それら全てが、ひとつの名へと導いていた。
「……エリオット・グランシュタイン」
その名を呟いたとき、ユーリの瞳には鋭い光が宿った。
理性的な疑念は確信へと変わり、冷たい決意が全身を駆け巡っていた。
アリアの兄であり、学園でも魔術の名家とされるグランシュタイン家。その立地、その影響力。すべての条件が揃っている。そして何より、あの男の――異常なまでの執着した視線。
(理由はある……十分すぎるほどに)
兄として、妹を守りたいという気持ち。それ自体は否定されるものではない。
だがそれが、誰も幸せにしない歪んだ独占欲となった瞬間、それは――敵となる。
ユーリは、手にした杖の先端を静かに撫でた。
もう、迷いはない。
創造の加護は、彼が意志を通すたび、確かに応えてくれるようになっていた。
戦闘の加護も暴走ではなく、必要に応じて制御できる段階に近づいている。
今、求めるべきはひとつだけ。
「……アリア、リディア。必ず、迎えに行く」
声は低く、だが決して揺らがなかった。
それは決意の言葉ではない。
すでに――宣言だった。




