誘う花畑
──淡い朝靄が立ち込める学園の裏庭。
そこはかつて誰かが愛したであろう石畳の小道が、苔に覆われながらもまだ残っており、古木たちが枝を伸ばして天を仰いでいた。
静かで、ひどく落ち着いた場所。だが同時に、その静寂さがどこか、異質な気配を孕んでいるようにも感じさせる。
ユーリはゆっくりと小道を歩いていた。
冷えた朝の空気が喉をくすぐるたび、身体の内側から昨夜の出来事が熱を持って蘇る。
リディアとアリア。
その名を心に浮かべるだけで、胸がじんわりと温かくなる。
銀と金、異なる輝きを放つ少女たちは、もう彼の隣に立つ存在ではない。
互いに手を取り合い、心も体も預け合い、愛を交わした。
一夜限りの衝動ではない。
彼女たちは、選んだのだ。ユーリと共に生きるという未来を。
そして、ユーリもまた決めた。
彼女たちを守るための力を、決して無駄にはしないと。
──しかし。
その幸福な余韻の背後に、拭えぬ違和感があった。
(この数日、何度も……あの視線を感じる)
風に紛れて、気配が流れ込むような錯覚。
それは決して攻撃的ではない。むしろ、じっと何かを見定めるような冷たい視線。
彼は静かに立ち止まり、周囲を見渡す。
木々が揺れ、葉が風に乗ってさざめく。
鳥たちの囀りも変わらず響いている。だが……それゆえに、わずかな異音が際立つ。
(いる……間違いなく、どこかに)
ユーリは深く息を吸い込み、自らの内なる加護に意識を向けた。
女神から与えられた三つの加護──戦闘、創造、魅了。
その中でも「創造」の力は、最近になって急速に成長を遂げていた。
特に昨夜、リディアとアリアに渡した指輪は、単なる贈り物ではなかった。
心を繋ぐ象徴であり、同時に、護りの魔法が編み込まれた特別な存在だ。
彼女たちが今も安全に眠れていたのは、その加護の恩恵でもある。
(でも、それだけじゃ足りない)
これから先、もっと強いものと対峙するかもしれない。
彼女たちを、妻として、恋人として迎えた以上、彼はもう一人ではない。
背負うものは多い。だが、その分、強くもなれる。
「……油断するなよ、ユーリ。今の俺は、もう一人だけの命じゃない」
呟いたその瞬間。草を踏む音が背後から近づいてきた。
振り返ると、そこにいたのは──
「兄様っ」
銀の髪が朝陽に揺れる。
アリアだった。
制服のまま、白いマントを軽く羽織って、頬をほんのり紅潮させながら駆けてくる。
「おはよう、アリア。……眠れたか?」
ユーリは歩みを止めて微笑んだ。
「はい。とっても……でも、朝になったら兄様に会いたくて、ずっと寝返りばかり打ってました」
「そうか。……可愛い寝顔だったよ。まるで、月の精が寄り添ってくれてるみたいだった」
アリアはその言葉に耳まで赤らめ、小さな拳でユーリの胸を軽く叩いた。
「……ずるいです、兄様。朝からそんなの……」
「でも、本当のことだからな」
そう返されると、アリアは俯きがちに笑った。
その笑みはどこまでも純粋で、けれどどこか艶を帯びていた。
昨夜、少女から大人へと一歩を踏み出した、その証のように。
やがて、風が少し強くなり、別の気配が現れた。
「また……アリアと先に会ってるし。ほんっと油断ならないんだから、アンタは」
金色の髪が風に揺れて現れたのは、リディアだった。
両手を腰に当て、頬をわずかに膨らませている。
「悪かったよ。でも、朝の君の寝言も可愛かった。『ユーリ……そこは……やっ……』って、はっきり聞こえたぞ?」
「なっ……っ、ゆ、ユーリの、バカぁぁっ!」
小突かれた胸を押さえながら、ユーリは笑う。
リディアの拳は、本気ではなかった。
照れ隠しとわかっているからこそ、愛おしさが増す。
「それでも……起きてすぐ、こうして二人と会える朝が、すごく嬉しい」
その一言に、アリアとリディアはふと目を見合わせ、そっと微笑んだ。
彼女たちの間にあった競争心も、昨夜で確かな絆に変わったのだ。
互いを受け入れた上で、共にユーリの隣に立つことを選んだ。
だからこそ、今この朝は――静かに、確かに、温かい。
けれど。
風が、また吹いた。
遠くの枝葉が不自然な音を立てた。
ユーリはふと目を細める。
(やはり……何かが、動いている)
だがそれを口にすることはしなかった。
今はまだ、二人の笑顔を曇らせる時ではない。
「……さて、そろそろ朝食に戻ろうか。」
「ふふ……今日は私が、兄様に紅茶を淹れてあげますね」
三人は並んで歩き出す。
朝靄の中。
古木の影に潜む何者かは、静かに身を潜めながら、その背中を見送っていた。
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「――そうだユーリ様、私たち、今日は二人で少し外に出てきますね」
澄んだ声でそう告げたのは、銀髪の少女――アリア・アルシェリアだった。
その微笑みは穏やかで、どこか春風のように柔らかい。陽光を受けて揺れる長髪は、まるで銀糸を束ねた絹布のように輝いていた。
「寮の庭で花摘みでもしようって話になったの」
隣に立つもう一人の少女――リディア・アーデルレインは、いつものようにすこしだけ頬を膨らませながらも、ツンとした表情で頷いた。
その金髪は陽光に照らされてきらきらと反射し、どこか誇り高く、それでいてほんの少し照れくさそうだった。
「ん、わかった。でも、最近気になることもあるから……あまり遠くには行かないようにな」
ユーリは、彼女たちのやや浮き立った様子に微笑みながらも、声にはわずかな慎重さを滲ませていた。
「わかってますよ、兄様」
アリアはくすっと笑って振り返る。どこか少女らしい甘えと信頼が混じったその声に、ユーリの胸も少し和らいだ。
「……別に、迷子になるほど子供じゃないんだけど」
リディアは口を尖らせながらも、アリアの腕を取って歩き出す。
二人の笑い声が軽やかに廊下に響き、やがて開かれた扉の向こう、陽だまりの庭へと消えていった。
その後ろ姿を見送りながら、ユーリはふと胸の奥に、小さな棘のような感覚を覚えた。
アリアの微笑みの奥に、ほんの一瞬――影が走った気がしたのだ。
(……気のせい、か)
そう自分に言い聞かせて、窓辺から離れた。
*
夕刻の光が差し込み始めた室内。
あたたかなはずの光が、どこか空虚な印象を与えていた。
ユーリは机に向かって書類に目を通していたが、いつのまにか筆の動きが止まっていた。
理由は明白だった。二人が出かけてから、かなりの時間が経っていたのだ。
(……静かすぎる)
最初は、風に乗って二人の笑い声が遠く届いていた。
庭を通るたびに響いていた、アリアの鈴のような声や、リディアの少し拗ねたようなツッコミ。
それが、気づけば――完全に、途絶えていた。
「……?」
ユーリはゆっくりと立ち上がった。
机の端に置かれていたスカーフ――アリアのものだとすぐに分かった――に目が留まった。
薄桃色の刺繍入り、彼女が出かける前、確かにそれを首元に巻いていたはずだった。
(忘れた……? いや、あの子がこんな大事なものを……)
違和感が胸の奥で明確な形を持ち始める。
靴音を立てず、静かに窓辺に戻り、外の様子を見下ろす。
花壇、噴水、小道――どこにも人影はない。
風がわずかに木々を揺らしてはいたが、その音さえどこか遠くに感じた。
「リディア、アリア――?」
名を呼びながら、ユーリはもう迷わず扉を開けていた。
*
廊下を駆け抜け、螺旋階段を飛ぶように下る。
塔の出口を蹴り開け、陽が傾きかけた中庭を横切る。
草木の匂いが鼻をかすめ、鳥たちが驚いて飛び立った。
だが、声はない。姿もない。
花の香りが漂う小道を進み、彼女たちが「お気に入り」と言っていた花畑へたどり着く。
だがそこに――
「……いない……っ」
あたりは静まり返り、そこに在るべき人の気配は皆無だった。
代わりに、花壇の端、草の合間に、不自然な痕跡があった。
花が倒れ、花弁が散り、草が押しつぶされたように乱れていた。
その中央、かすかに土の上に刻まれた足跡。複数ある。
そして――ひときわ目立つ、小さな光沢。
「これは……リディアの……!」
小さな金の髪飾りが、土に埋もれるように落ちていた。
彼女が肌身離さず身につけていた、大切なもの。
指先が震えた。拾い上げた瞬間――
(これは……“連れ去られた”……)
明確な確信が、胸の奥で冷たい刃となって突き立った。
ただ迷子になったのではない。
ただ遊びに行ったのでもない。
何者かが、意図を持って、二人を攫ったのだ。
それを裏付けるように、風が一瞬止まった。
空気が張りつめる。世界が、音を失う。
「リディア……アリア……っ!」
叫びながら、周囲を見渡すが――応えは、ない。
返ってくるのは沈黙だけ。空に吸い込まれていく声。
手を、見た。
その指に嵌められた指輪――二人と揃いのもの。
まるでそれすら、何も語らぬかのように、ただ冷たく光っていた。
「……必ず、見つけ出す。お前たちを……!」
拳を握りしめたその瞬間。
木々の向こう、視界の端に――黒衣の人影があった。
こちらを見ていた。明らかに、意図を持った存在。
だが、ユーリが目を向けた時にはもう、その姿も、気配も、すでに消えていた。
(くそっ……!)
一瞬の怒りが、心を焼いた。
それと同時に、背中に冷たい汗が流れ落ちる。
これは偶然ではない。
――狙い撃たれたのだ。
ユーリの大切なものを、最も効果的な方法で。
それは、彼の心に明確な“怒り”を刻み込んでいた。
「許さない……俺の大切な人たちを、傷つける奴なんて……!」
その声は、低く、震えていた。
静かに、しかし止めようのない激しさを帯びて。
決意が瞳に宿る。
――花畑に、微かな香りだけが残っていた。




