蠢く銀の視線
ユーリ・フォン・コーリングは、いつものように自室の窓辺に佇んでいた。頬に冷たい夜風を受けながら、ぼんやりと月を見上げる。静寂の中、彼の心には言葉にならない波紋が広がっていた。
故郷での扱いを思えば、この学園生活はずっと穏やかで、平穏で、平凡で――だが、どこか物足りない。それでも、そんな日々の中に一つだけ、確かな熱を帯びた時間があった。
リディア・アーデルレインとの、夜の魔法練習。
表向きは犬猿の仲。学園では口を開けば口喧嘩ばかりだが、日が沈んだ後の中庭では、互いの魔力をぶつけ合う濃密な時間が流れていた。
(最初は、ただの意地だった)
リディアの実力に、負けたくなかった。彼女もまた、自分にだけは頭を下げたくないという思いがあったのだろう。だが、夜ごと剣と魔力を交え、汗を流すうちに、言葉にならぬ感情が少しずつ育っていた。
(……あいつ、本当は優しいんだ)
強気で負けず嫌いで、人の懐には決して自分から入ってこない。けれど、その魔力制御は極めて繊細で、こちらの失敗には誰よりも早く気づいて声をかけてくれる。
今夜も、学院裏手の静かな中庭で、ふたりだけの稽古が始まっていた。
「……そこ、もっと集中して。詠唱とイメージがずれてるわ」
鋭いが、どこか柔らかくもある声。振り返ったユーリの目に映ったのは、月光を浴びて輝く金髪の少女――リディアの凛とした横顔だった。
その瞳は真っすぐで、決して揺らがない。けれど、最近になってようやく気づき始めた。彼女の瞳の奥には、ほんのわずかに、寂しげな色が混ざっていることに。
気づけば、その横顔ばかりを見てしまう。
「悪い、つい君の方ばかり気になって……って、痛いッ!」
呟いた次の瞬間、魔力が暴発してユーリは自分の詠唱の余波をまともに受けた。爆ぜた風が彼の帽子を吹き飛ばし――そして、なぜかリディアのスカートの裾までも巻き込んだ。
「きゃっ……!」
月明かりの下、白く輝く足が一瞬だけ露わになり、風に舞った布がふわりと落ちる。
沈黙が落ちた。
そして、数秒後――
「この、変態っ!! もう二度と話しかけないで!!」
雷鳴のような怒声が夜空に響いたかと思うと、リディアは真っ赤な顔でその場を駆け去ってしまった。
ぽつんと取り残されたユーリは、地面に突っ伏して嘆息する。
(……やっちまった。何度目だ、これ)
けれど、なぜだか彼の胸の奥には、「また話してくれるはずだ」という妙な確信があった。
翌朝――
教室の扉を開けた瞬間、リディアの鋭い視線が飛んできた。だが、それは「視線」というより「無視」という名の刃だった。
彼女は自分の席にどっかりと腰を下ろし、わざとユーリから半歩分だけ机を遠ざけるようにして座っている。まるで目に見えない結界でも張られたかのように、こちらを一切見ようとしない。
(いつものやつか……)
授業中も徹底的に無視。プリントを渡す時も視線は合わず、声も出さない。けれど、ふとした瞬間、リディアの耳が赤くなっていたことに、ユーリは気づいていた。
昼休み、窓辺で独り立っていたリディアが、ふいにぽつりと呟いた。
「……ちゃんと反省したなら、また……練習くらいは、付き合ってあげてもいいわよ」
背を向けたまま、けれど耳まで真っ赤にして。
(やっぱり、優しい子だ)
その微笑を浮かべたとき、不意に背筋を冷たいものが撫でた。
“視線”――まただ。数日前から感じていた、どこか異質な気配。まるで自分の背後に、誰かの意識がへばりついているような感覚。
それは、ただの好奇心や興味ではない。敵意とも、憧れとも違う。だが、明らかに普通ではない“関心”が、常に自分を、そしてアリアやリディアと一緒にいる時を狙って増していた。
(……誰だ?)
さりげなく窓の外を見渡すが、誰の姿もない。
だが“いる”――本能が警告していた。
放課後、図書室で本を探していた時、アリアと偶然出会った。彼女は静かに本を手にしながら、ふとこちらに視線を向けて言った。
「兄様、最近……よく溜息をついておられますね。何か、気になることでも?」
その問いかけはごく自然で、けれどどこか痛いところを突かれたようで、ユーリはわずかに眉を動かす。
「……いや、なんでもないさ。それより、“兄様”って……」
少し驚いた口調に、アリアはくすっと微笑む。
「兄様とお呼びしたら、ダメでしたか?」
「いや……妹を思い出すみたいで、むしろ嬉しいよ。ぜひ“兄”と呼んでほしい」
その言葉に、アリアは小さく手を合わせ、まるで花が綻ぶように微笑んだ。だがその直後、彼女はほんのわずかに目を伏せる。
「この学院には……いろんな人がいます。兄様を妬む人も、きっといます。でも私は……兄様の味方ですから」
彼女の銀髪が揺れ、静かに光を反射する。その一瞬、またしても視線――いや、“意識”が背後から刺さるように突き刺さった。
(やはり、誰かが……俺を? いや、アリアを?)
今度ははっきりと、誰かが自分たちを“監視している”という確信があった。
その晩、いつものように中庭へ向かうと、リディアが先に来ていた。だが、彼女はどこか様子がおかしかった。普段のように魔力を整えるわけでもなく、辺りを警戒するように目を走らせていた。
「……あんたも気づいてた? 誰かに見られてるって」
リディアの言葉に、ユーリの中で点と点が繋がる。
「やっぱり……リディアも、気づいていたか」
彼女は腕を組み、視線を夜空に走らせた。
「ずっと誰かが……誰かの視線が追ってきてる感じ。」
空気がぴりりと張り詰める。
二人は練習を始めるふりをしながら、意識を周囲に張り巡らせた。だが、何も起こらなかった。風が木々を揺らし、月がただ、無言で照らしているだけだった。
――そして翌日。
ユーリは、今度こそ決定的な“違和感”と出会うことになる。
午後の授業を終え、廊下を歩いていた時だった。不意に、また“視線”を感じて振り返る。
廊下の奥――窓の向こうに、一瞬だけ銀色の髪が揺れるのが見えた。
(……今のは)
アリアと同じ銀髪。だが、あれはアリアではなかった。もっと硬質で、冷たく、そして支配的な空気を纏った存在。
思い出す、アリアがかつてぽつりと口にした言葉。
『……私は兄が、嫌いです』
グランシュタイン家。アリアの兄――エリオット・グランシュタイン。
(まさか……あいつが、視線の正体?)
確信がある。あれは敵意だ。表面には出していない。アリアに向けた強い“所有”の感情、そして自分への警戒と嫉妬。それらが、鋭い針のように突き刺さってきた。
(何を狙っている……?)
背筋を這う不穏なもの。それがただの“嫌な予感”では済まされない現実であることを、ユーリは直感していた。
だが――この時はまだ、それが後に自分たちを巻き込む大きな事件へと発展することを、彼は知らなかった。




