それってどういう意味よ、バカ…!
放課後の学園、陽が傾きかけた中庭にはまだ数名の生徒が残っていた。だが、もうすぐ門限の時刻ということもあり、次々と校舎に戻っていく。
リディア・アーデルレインは、木陰に立つひとりの少年の姿を見つけて、足を止めた。
――ユーリ。
彼は座ったまま、魔導書を膝に広げていた。ページの隅に走らせる指先と、真剣な表情。その横顔を見ているだけで、リディアの胸の奥がなぜかもやっとしてくる。
(……別に、気にしてない。気にしてないわよ)
自分にそう言い聞かせながら、彼女は小さく咳払いをして声をかけた。
「……また勉強してるの? あなたにしてはずいぶん熱心じゃない」
「おっと。リディア、どうしたの? こんな時間に」
顔を上げたユーリは、にこっと人懐っこい笑みを浮かべる。それだけでリディアの頬がわずかに赤く染まるのは、自覚があるのかないのか。
「たまたま通りかかっただけよ。暇だから、付き合ってあげようと思ったの」
「付き合ってくれるの? それはありがたいな」
「……ふん、感謝なさい」
腰を下ろしたリディアは、ユーリの隣に座った。風が緩やかに吹き抜ける。ふと視線を感じて顔を上げると、彼の目がこちらを見ていた。
「……な、なによ。そんなに見つめて」
「いや、髪、きれいだなって。今日、いつもより柔らかそうに見える」
「はっ……!? な、なに言ってんのよ、バカ!」
(な、なによそれ。そんなの……普通言う!?)
顔が熱い。鼓動が速くなる。平静を装いたいのに、うまくいかない。
「そ、そういうの……軽々しく言うものじゃないわよ……っ」
「ごめん。でも本当にそう思っただけで――」
そこに、カツカツと足音が響いた。
「あっら~、ユーリ君。今日もリディアさんと仲良しねぇ?」
声をかけてきたのは、同じ学年の女子生徒――ローゼ・ミリティス。腰まで届く赤毛を巻き上げた、いかにも社交好きな雰囲気の少女だった。
「ふたりで隅っこでなにしてるの~? まさか……こっそりデートとか?」
「ち、ちがっ……そ、そういうんじゃなくて!」
リディアが慌てて否定すると、ローゼはにやにやと笑いながら、わざとらしくため息をついた。
「ふ~ん? でもでも、リディアさんって、ユーリ君のこと気になってるんじゃなかったの?」
「はっ……!? き、気になってるって……だ、誰が……!」
「えー? じゃあさ、ユーリ君と他の子が仲良くしてても、なんとも思わない?」
「そ、それは……っ」
詰まる言葉。視界の隅に、ユーリが少し困ったように笑っているのが見える。余計に胸がざわつく。
(私……本当に……ユーリのことが、気になってるの……?)
「じゃあさ、ちょっと試してみようかな」
ローゼがすっとユーリの腕に手をかけ、軽く寄り添った。
「ねえ、ユーリ君。もしよかったら、明日一緒にお昼食べない? 私、いい場所知ってるの」
「え……いや、それは……」
ユーリが返事に困っている間に、リディアの中で何かがぷつんと切れた。
「――ちょっと、離れなさいよっ!」
思わず立ち上がり、ローゼの手を振り払った。
「ユーリは……明日は、わたしと食べるのよっ! いいわね!?」
「へぇ~? なにそれ、告白?」
「ち、ちが……っ! だ、だけど……あんたになんか、渡さないんだから!」
ローゼは肩をすくめて、悪戯っぽく笑った。
「ふふん。じゃあ、またね~。お邪魔虫は引っ込むわ」
軽い足取りで去っていくローゼ。その背中を見送りながら、リディアはふと気づいた。自分の手が、まだユーリの手首を握っていることに。
「――あっ、わ、わたし……!」
「リディア……今の、本音?」
静かな声。それが、妙に胸に響く。
「……ち、ちがう。違うけど、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、あんたのことが……気になってきただけよ」
視線を逸らしながら、ぽつりと呟く。
「だから勘違いしないで。べ、別に好きとかじゃないんだからね……!」
そのくせ、ユーリが嬉しそうに笑うと、どうしてか胸がぎゅうっと締め付けられるような気がした。
その夜、部屋に戻ったリディアはひとり、窓辺に座っていた。
月明かりの下で、彼女はつぶやく。
「……ほんと、バカみたい。どうしてあんなこと……」
頬に手を当てると、まだ少し熱が残っていた。
(あんたのせいよ、ユーリ……あんたが、あんな顔するから……)
少女の心は、まだ自分の感情に名前をつけられずに揺れていた。
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午前の魔法理論の授業を終えたリディアは、剣を背に背負ったまま中庭を早足で通り抜けていた。
(ったく……なんで魔法科のあたしが、剣の授業なんか受けなきゃならないのよ)
魔法だけでは対応しきれない状況への対処を目的とした、いわば「基礎戦術」の実地演習らしい。
もちろん、リディアにとって剣術は得意ではない。だが、得意不得意以前に――
「……また顔合わせるのよね、あいつと」
昨日の出来事が脳裏をよぎる。
突然絡んできた女子生徒――ローゼ――に向けて叫んだ、自分でも驚くような言葉。
「ユーリは、あんたになんか渡さない……?」
(なんで、あんなこと言っちゃったのよ……!)
頬が熱を帯びる。自分でも気づかぬうちに、唇を噛みしめていた。
午後、訓練場。
剣の授業とはいえ、形式はごく簡易な模擬戦に過ぎなかった。木剣を用いて、互いの動きを見るだけの内容だ。
だが――
「リディア嬢、対戦相手はユーリ君だ。お互い実戦のつもりで励みなさい」
教師の宣言に、ざわめきが起きる。
「お、おい、うちのクラスの夫妻対決だってよ」
「いや、籍は入ってないだろ……でも噂では、そうなるのは時間の問題らしいぜ」
「ってかあの二人、昨日中庭でなんかあったんじゃなかったっけ?」
視線が集まる。リディアは深く息を吸い、正面に立つユーリを見た。
「……あんた、手抜いたらぶっ飛ばすわよ」
「うん。全力で行くよ、リディア」
澄んだ瞳。揺るぎない構え。昔はどこか不安定だった彼の立ち姿が、今はまるで別人のようだった。
訓練が始まる。
剣が打ち合わされるたびに、木剣とは思えぬ響きが空気を震わせる。
「――ッ!」
ユーリの突きを紙一重で外し、リディアは反撃に転じる。しかし、彼は軽やかに後退し、間合いを保った。
(なんなのよ、こいつ……!)
悔しさより、感心が勝っている。リディアは魔法科の中でも特に優秀だが、剣では彼に及ばない。それは以前から分かっていたことだ。
けれど、今のユーリは――
「強い……本当に、強くなったのね……」
不意に漏れた言葉に、ユーリが微笑む。
「ありがとう。でも、君に勝てたわけじゃないよ。リディアは、すごく速い。反応も鋭い。俺も本気でやらないと追いつけない」
「……ふん。なによ、今さらそんなこと言って。あたしに勝とうなんて、百年早いわよ」
照れ隠しに剣を振りかざすが、その動きはさっきより僅かに鈍っていた。
(なにやってんのよ……集中しなさいよ、あたし)
鼓動が速い。息が詰まりそうだ。目が合うたびに胸がぎゅっとなる。
結果は、引き分け。
「ふたりともよくやった。互いの間合いと技量を尊重し合う、理想的な模擬戦だった」
教師の講評に、生徒たちから拍手が起きる。
リディアは黙って木剣を置いた。その手は少しだけ震えていた。
(なんなのよ、これ……)
その後、着替えを済ませたリディアは、一人で中庭のベンチに腰かけていた。
頭の中は整理がつかないままだ。
(あたし、あいつに……)
昨日、誰かに取られそうになったとき――
あたしは、咄嗟に叫んでいた。
(あんたになんか、渡さない……)
「……馬鹿みたい」
呟いたその声に、自分の本音が滲んでいた。
「あたしが……ユーリに惚れてる? ……はぁ……」
静かに、頬を両手で覆う。
熱い。心臓の音がうるさい。
そして、そんな自分が少しだけ――悔しくて、でも嬉しい。
その日の夜。
リディアは机に肘をつき、窓の外をぼんやりと眺めていた。街の灯りがちらちらと揺れ、空には三日月が浮かんでいる。
「……少しは、自覚した方がいいかもね。あたし……」
ぼそりと呟いて、ため息をつく。
「でも、次会うときは――もうちょっと、素直になれるよう頑張ってみようかしら」
それが照れ隠しなのか、気まぐれなのか。
本人にも、まだ分からない。




