月光の下で、少しだけ近づいた距離
朝の訓練場には、まだ静寂が残っていた。東の空にようやく陽が顔を出し始め、淡い金色の光が草葉を照らす。その中で、ユーリはすでに額に汗を滲ませながら、黙々と魔法の制御練習に取り組んでいた。
「はあ……」
吐き出す息は白くないが、体の芯まで熱くなるのは、内から噴き出す炎のせいだ。
右手を掲げる。
小さな魔法陣が空中に浮かび、中心にじわりと紅蓮の焔が宿る。だが、それを掌で穏やかに収めることが、いかに難しいか。リディア・アーデルレインとの特訓で思い知らされたのだ。
「……ちょっとずつだな」
目の前の木に刻まれた焦げ跡を見て、ユーリは小さく頷く。最初の頃のような大火傷寸前の暴発はない。焦げ跡の範囲も狭まり、形も安定してきている。着実な前進だ。
そんな折、足音が響いた。軽やかで、どこかリズミカル。
「なに、こんな朝っぱらから気合入れてるのよ」
声の主は、言うまでもなく――金髪に鮮やかな紅の瞳、アーデルレイン家の才女、リディアだった。制服のリボンはきっちり結ばれ、表情にはいつもの気高さとわずかな棘。
「お、リディア。昨日のアドバイス、試してみたんだ」
「ふぅん、少しは真面目なのね」
「真面目だってば、これでも」
「言うだけなら誰でもできるわ」
そう言いながらリディアはユーリの手元の魔法陣を覗き込む。その瞬間――
「ってあぶなっ!」
魔法陣の収束が予想以上に早く、余波が風圧となって放たれた。ひゅっと突風が巻き起こり、リディアのスカートの裾を大きくめくり上げる。
「きゃっ……!? な、なに見てるのよ、変態っ!!」
「ご、ごめん!!今のは偶然!事故だって!下着の柄は……いや、見てない!見えたけど覚えてない!」
「……覚えてるんじゃない!!」
リディアの顔がみるみる赤くなり、右手が杖に伸びた。だが、ユーリの慌てぶりと素直な謝罪に、彼女は一瞬躊躇した。
「……はあ。ほんとにバカ。魔法より、まず女の扱いを学んできなさいよ」
「はい、まったくもってその通りでございます……」
「って、素直に謝られるとムカつくのよっ!」
軽く後頭部を小突かれたユーリは、苦笑を浮かべた。だが、その仕草に込められた怒りは、以前よりずっと柔らかかった。
数日後の午後。中庭の一角――春の風が緩やかに吹き抜けるベンチに、ユーリは腰を下ろして筆記具を走らせていた。
「こんなところにいたのね」
またしても、現れたのはリディアだった。今回は制服ではなく、落ち着いた色合いの読書用の装い。手には薄い魔導書を持ち、肩にかかる髪が風に揺れている。
「ん、ああ。授業と授業の合間って、ちょっと落ち着かないからさ。ここ、静かでちょうどいいんだ」
「まったく……あなたってば、学園一の問題児って噂よ」
「え、それって褒めてる?」
「貶してるに決まってるでしょ。少しは自覚しなさい」
「うう……お説ごもっとも」
皮肉と叱責の混じった口調だが、リディアはそのまま隣に腰を下ろした。だが、タイミングが悪かった。ユーリが位置をずらそうと立ち上がった瞬間――
「あっ」
ぐらり。リディアの足がベンチの縁に引っかかり、次の瞬間にはユーリが彼女を庇う形で――押し倒していた。
倒れた地面は花壇の芝。ふわりと甘い紅茶のような香りが鼻先をくすぐる。金色の髪が頬に触れ、指一本分の距離で二人の顔が向き合う。
「……な、なにしてんのよ……っ!」
「い、いや事故!今のは完全に事故だから!しかも、変なこと考えてないから!!」
「ば、馬鹿……ほんとに……」
リディアは身を捻って立ち上がり、顔を真っ赤にしてその場を離れようとした。が、去り際、振り返りもせずにこう呟いた。
「……変なドキドキ、させないでよ……!」
それは、春の陽気に紛れてしまいそうなほど小さな声だった。
その夜。学院裏庭の人目につかない場所で、ふたりは再び顔を合わせていた。昼間の出来事には触れず、あくまで魔法練習という名目で。
「――それで、今日も暴発しないように祈ってるわよ」
「いや、もうこれで三日連続だから。今度こそ完璧に……!」
炎ではなく、風の魔法陣が展開される。リディアがそっと近づき、無言でユーリの手に自分の手を添えた。
「あ……」
「なに、照れてるの?」
「いや……その……柔らかくて……」
「手の話よね?」
からかうような視線に、ユーリは視線を逸らすしかなかった。月明かりの下、そのやり取りすら静謐な風景の一部のようだった。
――ざわり。
不意に、木々が揺れる。風ではない、誰かの気配。
「誰か……見てる?」
「気のせい……かもしれないけど。でも、これからは用心しないと」
「……そうね」
ふたりの間に、緊張の糸が一本張り詰める。
そして別れ際、リディアは立ち去る直前にだけ、ぽつりと小さく言った。
「ユーリ……あんたのこと、ちょっとだけ見直してきたのよ」
その顔は、いつもの気高くツンとしたものではなかった。月明かりに照らされた彼女は、少しだけ寂しげで――でも、確かな優しさがそこにあった。




