第10話 森の狩人
この森独特の陰鬱さが和らいでいった。木々の間が開け、水面には光が注いでいた。風の匂いが変わり、不思議と音がなくなっていく。
(そういえば、この辺りは聖域の一つだったわね)
聖域。そこは魔物が近寄ることのない、神聖な場所だ。
(元々は女神の箱庭だったかしら……)
小川をたどって泉のそばの岩場まで来たとき、何者かの気配を感じた。
近い……。
咄嗟に木の陰に身を隠し、すぐに隠蔽魔法を行使する。一瞬、風が揺らぎ、私は辺りの景色に溶け込むように同化した。
「うおおおおおお!」
その直後、男が黒い髪を振り乱し、ものすごい形相でこちらへ向かって走ってきた。身につけているものは見たことのない様式で、ところどころ破れている。細身だが筋肉質な体。こちらへ突進してくる姿は、小柄なオーガを思わせた。
(なっ……ノーマン!? 遅かった!?)
私は腰の短剣をそっと抜き放った。
「どこや……どこにあるんや……!」
男は私のところまで来ることなく、地面に這いつくばって何かを探している。
ずいぶん必死な様子だ。
(一体、何をしているの?)
「あったぁ!」
男が地面から何かを拾い上げた。黄色い石だった。
「うぉおおおお! よっしゃあああ! 文明開化やぁあああ!」
男は石を握りしめ、天に向かって拳を突き上げた。
そして、来た道をものすごい勢いで引き返していった。
「…………え?」
私は、しばらくその場から動けなかった。今のは、何だったのだろう。
少し光っているだけの屑石なのに、なぜあれほど喜ぶのだろう。
いや、それ以前に。
「……ノーマンが、どうして聖域に?」
私は改めて、男が走り去った方向を見つめた。
ノーマンと私たちエルフの関係は、決して良好とはいえない。遠い昔に戦争があり、長命なエルフの中には、当時の出来事を今も鮮明に覚えている者がいる。
今では誰も住んでいないが、聖域はエルフにとって特別な場所の一つだ。
ノーマンが立ち入ることなど、本来あってはならない。
「……排除するべきなのは、わかっている。でも……少しだけ、様子を見るだけよ」
誰に言い訳するでもなく呟き、私は男の後を追った。
*
男は泉から少しだけ離れたところにいた。側にはもう一人、女が立っていた。
(二人……。あの足跡は、この二人のものね)
男は先ほどの石を別の石で叩き続けていた。
(何かの儀式かしら……?)
女はしばらく男を眺めていたが、少し離れた場所へ移り、弓のような道具を取り出した。その弦は一本の棒に巻きつけられていた。
棒を板の上に立てて弓を前後に動かすと、棒が回転し、板をこすり始めた。
(一体、何をしているの……?)
二人は黙々と作業を続けていた。やがて、女の手元からかすかな煙が立ち上った。
女は繊維の束を持ち上げ、そっと息を吹きかける。煙が濃くなり、やがて小さな炎が生まれた。
(まさか、今のは火起こしだったというの? なぜ生活魔法を使わないのかしら?)
「……あかん、全っ然点かん……火花、めちゃくちゃ散っとんのに」
男はぶつぶつと呟きながら、まだ石を叩いていた。
(本当におかしな二人ね……。もう少し、もう少しだけ様子を見ようかしら)
*
翌日も、私は二人を監視するために聖域を訪れていた。隠蔽魔法をまとい、木の陰に身を隠す。
二人は泉のそばでしゃがみ込み、何やら話している。私はその内容に耳をそばだてた。
「うーん、やっぱ何となくでやってもうまくいかんな」
「どうしたん? ワタル」
「あぁ、アイ。ナイフを作ろ思ってんけど、うまいこといかんくてな。なんか間違えてるんやろか」
ワタルと呼ばれた男の言葉に、アイと呼ばれた女が答えた。
「調べてみるな」
アイは目を閉じ、おもむろに両手をこめかみに当てた。そして、そのままぐりぐりと回し始めた。
(調べる? 何をしているの? あの動きは、新種の魔法の儀式なのかしら)
しかし、魔力の流れは感じなかった。
アイはやがて手を下ろし、目を開いた。
「ワタル、斧の時みたいに磨いて整えようとしてるやろ? その石はそれには向いてないみたい」
「でも、ナイフ作れるって言うてなかったか?」
「言ったけど、打製のナイフやね。他の石で打ち欠いて、剥がれた方を使う感じ」
ワタルは手元の石を見つめた。
「剥がれた方か……。一回やってみるわ」
ワタルは別の石を打ちつけ、薄く剥がれた破片を拾い上げた。刃先を確かめると、生えていた草を刈る。
「うん、まぁ切れるな……。でも、なんかちゃうねんなー」
(やり方を聞いただけで? そんなに簡単なことには見えないわ……)
「なんか納得いかんの? ちゃんとできてるやん」
「いやな、もっとスーッと切れる感じにしたいんやけど……」
ワタルは手元の刃を見つめ、納得がいかない様子で首をひねった。
「アイ、ほかにええ石ないん?」
「磨いて形を整えるなら、こっちの方がええかも。ただ、ちょっと脆いみたいやで?」
そう言いながら、アイは黒みがかった灰色の石を拾い、ワタルに渡した。
「ザラっとしてんな。粒が細かいんかな」
ワタルは石を受け取ると、少しだけ割って形を整えた後、別の石にこすりつけ始めた。
石同士が擦れる音が、泉のほとりに響く。
(石を削ってナイフを作ろうというの?)
魔法を使う気配はない。ワタルはひどく真剣な顔で、石を削っていた。
(ノーマンというのは、本当に理解できないわね……)
その日、辺りが暗くなるまで、ワタルは石を削り続けていた。
*
翌日も、私は聖域を訪れた。
今日もワタルは何かを作っていた。木の枝を削り、手頃な大きさの木片を整えている。時折、隣にいるアイに何か尋ねていた。何を作っているのかと思えば、どうやら器のようだった。
器を作り終えた後はまた、黙々と石を磨いていた。
(まだ続けていたのね……)
私は呆れながらも、その手元から目を離せなかった。
*
さらに翌日。
ワタルとアイは火のそばで石を熱している。十分に熱くなった石を水を張った木の器に入れると、湯気が立ち上った。
(木の器に、石……? もしかして、お湯を作っているの?)
二人の嬉しそうな声が辺りに響いていた。
ワタルは時間が空くとナイフ作りを続けていた。
石を磨き、形を確かめ、また磨く。
(いったい、どこまでやるつもりなの……?)
*
それからも、二人は毎日のようによくわからないことを繰り返していた。
湯を沸かした器に魚の骨を入れてみたり。
また石同士を叩いて火花を散らしてみたり。
開いた魚を焚き火の煙に当てようとしてみたり。
渋い実をすり潰して天日で干してみたり。
さまざまなことを行いながらも、ワタルは石を磨き続けていた。
*
そして、次に訪れた日。
最初に目に飛び込んできたのは、黒みがかった灰色のナイフを手に、高揚するワタルの姿だった。
(あれが、あの石なの?)
石の表面は滑らかに整えられ、刃先は薄く鋭く仕上がっていた。
「よっしゃ、やっとできたで。試し切りや……! アイ、そのゴボウもどき貸してくれ!」
「え、今吸ってるんやけど」
しぶるアイから根菜を受け取ると、ワタルはナイフを当てて引いた。
根菜は音もなく切り分けられた。
「おっしゃ! これやこれ! このスッと切れる感じ。大成功や! あとは草縄でグリップ作ったら完成やな」
(……石で、あんなことができるの?)
私は驚きのあまり、その場で固まった。
あれほど時間をかけていたのは、このためだったのね。
しかし、私が戸惑っている間にも、ワタルはすでに次の作業に取りかかっていた。
「握りもしっかりしたし、やっと魚がまともに捌けるな。三枚おろしにしてつみれにするで」
「つみれ?」
アイが首を傾げた。
「あぁ、身を切り分けてすり潰す。んで、団子にするんや。そんときに今ある食材も練り込もか。味の変化も楽しめるはずや」
「もっと美味しくなるん?」
「たぶんな!」
ワタルは手際よく魚をさばき、すり潰していく。根菜や葉物も細かく刻み、練り込んでいった。
丸めたものを葉でくるみ、火にかけていく。
(こんな調理法、見たことも聞いたこともない。でも、こんなことのために、あれほどの時間をかけてナイフを作ったの……?)
しばらくして、ワタルが葉の包みを開いた。
ふわりと湯気が上がり、香ばしい香りが広がる。
姿を現した魚の団子から、目が離せなかった。
「おお。ええ香りやな」
「ワタル、これ美味しい! 甘くて優しい感じするわ」
「もう、食ってるんかいな……。うん、美味いな。こっちもピリッとして、いい味出てるわ」
「身もいつもよりふわふわやね」
ごくり、と喉が鳴った。自分でも驚くほど、その音が大きく聞こえた。
(え? 私、今……)
いけない。今日のところは引き返そう。
自分の中に生まれた気持ちを振り切るように、私は帰路についた。
*
翌日。
(昨日は動揺してしまったけれど、きちんと監視は続けないと。あの二人が怪しいことには変わりはないのだから)
私は再び聖域を訪れた。
いつもと同じように隠蔽魔法をまとい、木の陰から二人を観察する。
ワタルは泉のそばで、昨日完成したナイフを手に、鼻歌交じりに魚を捌いていた。
「ん、骨に引っかかったか……。よっと」
ワタルが少し力を込めた瞬間、乾いた音が響いた。
「…………え?」
ワタルは手を止めた。
手元に残っていたのは、刃の部分が半分ほどになったナイフだった。折れた部分は魚に突き刺さったままになっている。
「……うそやろ?」
ワタルはしばらく、手元の柄を見つめていた。
(……壊れたの? あれほど苦労して作ったものが、たった一日で?)
やがて、ワタルは小さく呟いた。
「……薄すぎたんか」
その声には、悔しさが滲んでいた。
(あ……)
気づけば、手が伸びていた。
私ははっとして手を引き戻すと、そのままぎゅっと握りしめた。
そして、その場を離れた。
*
あれから数日、私は聖域を訪れていなかった。なぜか足が遠のいていた。
今日もいつもどおり、魔物を狩って肉や皮を取り、森の恵みを採取して過ごすはずだった。
(いつの間にか、ここに来てしまったわね)
私は聖域の端に立っていた。
「せっかく近くまで来たのだから、監視するべきね」
私はいつものように隠蔽魔法をかけ、聖域へと入っていった。
木陰に身を潜め、ワタルたちを観察する。どうやら食事の時間のようだった。
「今日の魚は葉包みの香草焼きや」
「香草焼き?」
「あぁ、この前つみれ作った時、爽やかな味の葉っぱと、胡椒みたいにピリッとする葉っぱがあったやろ? あの二つと一緒にして焼いてみたんや」
「おー、うち、つみれの甘いやつまた食べたい」
「アイはほんま甘いんが好きやな。つみれはまたナイフが作れたらな。打製のナイフやと身が綺麗に取れんから後が大変なんよ」
「わかった。うちも石探し手伝うからね」
「頼むわ。さて、どうなったかな?」
ワタルが葉っぱを開けると、魚の香ばしい匂いに、爽やかで少し刺激のある香りが重なり、辺りに広がった。
(すごく……いい香りがする……)
私はこの前に見たつみれのことを思い出した。
気づけば、もう一歩、二人の方へ踏み出していた。
その足元で、枝が折れる音がした。
(え?)
「ん? なんの音や?」
ワタルが顔を上げ、こちらを見た。アイも続いて振り返る。
(しまった……!)
動揺したことで、隠蔽魔法が解ける。
私は二人の前に姿を晒してしまった。




