第5話:初めての配送
無料で譲ってもらった防具は、使い込まれた革鎧一式だった。
ところどころ擦り切れてはいるが、丁寧に手入れされていたのだろう。見た目ほど傷んではおらず、十分実用に耐えそうだ。
武器は――遠慮した。
剣も槍も斧も、振ったことすらない。使えもしない得物を格好だけで背負ったところで、いざという時に自分の首を絞めるだけだ。だったら最初から持たない方がいい。
結果、俺は革鎧に身を包み、背中へ荷物用の鞄を背負っただけの、いかにも新人冒険者らしい格好になった。……少なくとも、昨日までの「私服で迷い込んだ一般人」よりは様になっているはずだ。
依頼品を保管するための鞄だけは新品を購入した。配送中に荷物を傷付けるわけにはいかないので、そこだけは妥協したくなかった。
「よし、行くか」
そう声を掛けると、ジロウは俺の服の裾を軽く咥えて引っ張った。
「ん?」
今度は顎をクイッとしゃくり、何かを催促するような仕草を見せる。
「……地図か?」
長年一緒に暮らしていれば、この程度は何となく分かる。心が読めるわけではないが、視線の動きや耳の向き、尻尾の振り方といった細かな仕草を無意識に拾い、何を求めているのか予測できるようになっていた。
羊皮紙の地図を広げて地面へ置くと、ジロウは鼻を近付けるでもなく、しばらく全体を眺めたあと、目的地である『ケンデル』の文字へ前足を乗せた。
「ああ。そこだよ」
確認すると、ジロウは一度だけ頷き、今度は鼻先を持ち上げて風の匂いを探り始める。何度か方向を変えながら空気を嗅ぎ、やがて何かを捉えたのか、迷いなく一方向へ顔を向けた。
「……いやいや、それはあり得ないですよジロウさん」
そう口にしてから、すぐに思い直す。
匂いを追う能力だけなら、人間の常識を遥かに超える動物は実際に存在する。
ブラッドハウンドは何日も前に残された人間の匂いを追跡できるし、ホッキョクグマも風に乗った獲物の匂いを遠方から察知するといわれている。二十キロという距離だけを理由に、絶対に不可能だと切り捨てることはできない。
ただし、それは追うべき匂いを知っている場合の話だ。
ジロウが見たのは地図に書かれた『ケンデル』という文字だけで、当然ながら現地の匂いなど嗅いだこともない。それなのに地図から位置を把握し、風の匂いと照合するように進む方角まで決めたのだとすれば、問題は嗅覚の鋭さではなく別のところにある。
「……発情期なの?」
問い掛けたところで答えるはずもなく、ジロウは確認を終えたように尻尾を大きく一度振ると、当然のように先頭へ立った。
◇
そうだ。
荷物用の鞄を買ったついでに、旅装備も一式揃えていた。丸い真鍮製の革縁ゴーグル、口元を覆う長いスカーフ、それにフード付きのマント。
どれも冒険者向けの中古品だったが、配送依頼では意外と重宝される装備らしい。高速移動時の風圧や砂埃、枝葉、小雨まで防げると店主は胸を張っていた。
……もっとも、俺の場合、高速移動の手段は馬ではなく犬なのだが。
「それじゃ、頼むぞ」
ジロウは嬉しそうに尻尾を振ると、その場へ伏せて背中を差し出した。俺は革鞄を背負い直してその大きな背中へ跨り、首元の毛をしっかり掴む。次の瞬間、全身が後方へ引っ張られるような凄まじい加速に思わず声が漏れた。
「うおっ!?」
慌てて身体を前へ倒し、首筋へしがみつく。視界の両端は一瞬で流れ始め、風圧がゴーグルを叩き、マントが激しくはためいた。
景色を楽しむ余裕など欠片もない。顔を上げれば涙が滲み、口を開けば虫でも飛び込んできそうだ。なるほど。この装備は飾りではなく、生き残るための必需品だった。
どれくらい走っただろう。
頬を叩いていた風がふっと弱まり、ジロウはほとんど音を立てることなく速度を落としていく。やがて小さな町の入口で静かに足を止めた。
「……もう着いたのか」
体感では十五分ほどしか経っていない。
エストラからケンデルまでは約二十キロ。単純計算でも平均時速は八十キロ近くになる。それだけなら日本の自動車でも珍しくない速度だが、問題は走ってきた場所だ。
舗装された道路でもなければ、平坦な道が続いていたわけでもない。木の根が張り出した山道や石の転がる街道を、俺と荷物を背負ったまま駆け抜けてきたのである。
しかも当のジロウに疲れた様子はない。
呼吸もほとんど乱れず、長距離を走り終えたというより、近所を一周してきた程度の顔をしている。時速八十キロという数字より、俺にはそちらの方がよほど異常に思えた。
どうやら今後、こいつと移動時間を考える時だけは、人間の徒歩や馬を基準にしない方がよさそうだ。
町の入口へ近付くと、門番らしき男が俺たちを見るなり目を丸くした。通りを歩いていた女性も足を止め、こちらを二度見している。一方、そんな大人たちとは対照的に、子供たちは「でっかい犬だ!」と目を輝かせながら駆け寄ってきた。
ここが『ケンデル』か。
率直な感想を言えば、田舎だった。
石畳こそ敷かれているものの、大通りは一本だけ。煉瓦造りや木造の家々がゆったりと軒を連ね、軒先には色とりどりの花が植えられている。
薪を割る乾いた音と焼きたてのパンの香ばしい匂いが町中へ漂い、どこか懐かしい空気が辺りを包み込んでいた。活気に満ちた城塞都市エストラとは対照的に、ここでは時間そのものがゆっくり流れているように感じられる。
「受取人は……」
依頼書へ目を落とす。
『マーサ・グレイン』。
依頼書に記されたその名前を頭へ入れ、まずは近くを歩いていた人へ居場所を尋ねてみることにした。幸い、マーサさんはこの辺りではよく知られているらしく、道行く人へ尋ねると皆驚くほど親切に教えてくれた。
「ああ、マーサさんなら川の向こうだよ」
「大きなリンゴの木がある家さ」
「白い魔獣は怖いけど……大人しい子なんだね」
そのたびにジロウは子供たちへ囲まれ、頭や背中を好き放題撫でられている。当の本人も満更ではないらしく、尻尾をゆっくり揺らしながら大人しく触らせていた。
「営業上手だなお前」
思わず笑みがこぼれる。
案内された先にあったのは、蔦の絡まる小さな煉瓦造りの家だった。庭には季節の花が咲き、小さな畑まで丁寧に手入れされている。
まるで絵本や風景画からそのまま切り取ってきたような穏やかな景色を眺めながら、俺は木製の扉をコンコンと叩いた。
「すいませーん」
しばらくして、中から年季の入ったしゃがれ声が返ってくる。
「……どなたかねぇ?」
「ギルドの依頼で、お荷物をお届けに参りました」
しばらく待っていると、木の扉が軋む音を立てながらゆっくりと開いた。
現れたのは、想像していた通りの老婆だった。腰は少し曲がり、真っ白な髪を後ろで束ねている。深く刻まれた皺と柔らかな表情からは、長い年月を穏やかに重ねてきたことが窺えた。
俺はゴーグルと口元のスカーフを外し、背中の鞄から荷物を丁寧に取り出す。
「ギルドの配送依頼でお尋ねしました。ロイド・グレイン様よりお預かりしております。よろしければ中までお運びいたしますが?」
老婆は目を細め、荷物を見るなり嬉しそうに微笑んだ。
「まぁ……ロイドからかい。あの子も元気にやっとるんだねぇ」
皺だらけの手が、大切そうに荷物を撫でる。
「悪いねぇ、冒険者さん。そこへ置いてもらえるかい」
「かしこまりました」
指示された場所へ丁寧に荷物を置き、俺は小さく息を吐いた。
正直、もっと手間取ると思っていた。道に迷うかもしれないし、荷物が傷付かないよう慎重に進めば時間も掛かる。町に着いてから受取人を探すだけでも、知らない土地では一苦労だ。
だが実際には、ジロウが迷うことなく道を選び、荷物を揺らさない速度で駆け抜け、町の人たちも親切に家まで教えてくれた。
俺がしたことといえば、依頼書を確認し、荷物を渡し、失礼のないよう頭を下げるくらいだ。
……これで、本当に冒険者の仕事と言っていいのだろうか。
「こちらへ受領印をお願いいたします」
差し出した書類へ、老婆がゆっくりと印を押す。
ギルドの説明では、この受領印には魔術が施されており、本人以外が押した場合は印影そのものが変質するらしい。原理はさっぱり分からないが、「不正は絶対にできない」と何度も念を押された。
これで依頼完了。
拍子抜けするほど単純な流れだった。荷物を届け、受領印をもらい、依頼完了。それだけで銀貨三枚が手に入る。
宿代が一泊銀貨一枚。パンは銅貨三枚だったから、一回の配送で宿に三泊し、それでも食費が十分に賄える計算になる。
もちろん、毎回これほど近距離というわけではないし、荷物の量や距離で報酬も変わるだろう。それでも、危険な討伐をしなくても生活費を稼げるという事実は、今の俺にとって何より大きかった。
少なくとも、無理に剣を振る必要はない。俺には俺の稼ぎ方がある。その手応えを、初めてはっきりと実感できた。
「それでは、これで失礼します」
「ありがとうねぇ。本当に助かったよ」
深々と頭を下げる老婆へ軽く会釈し、俺はジロウの待つ表へ戻った。
◇
依頼は無事に完了。
あとは帰るだけだ。
ジロウは退屈そうに欠伸をしながらも、俺が近付くと嬉しそうに伏せて背中を差し出した。
やっぱり思う。
こいつ、本気なんかじゃない。
俺を乗せているから、わざわざ速度を落としてくれているだけだ。ジロウの体力を考えれば、この程度の距離は散歩どころか準備運動にもならない。日没までの時間を考えても、今日中ならあと数件は配送をこなせそうだった。
俺は背中へ跨り、首元を軽く叩く。
「帰りは……少し速くしてもいいぞ」
ジロウの耳がぴくりと動き、金と銀のオッドアイがゆっくりこちらを向いた。その口元が、明らかに犬の表情筋では説明できない角度でニヤリと吊り上がる。
「……おい。その顔はやめろ」
返事代わりに尻尾が一度だけ大きく揺れた。
次の瞬間、景色が消えた。
道も木々も空も、輪郭を失って一本の色の帯になる。風圧が真正面から全身を殴りつけ、ゴーグルの内側で涙が滲み、スカーフ越しの呼吸すらうまく吸えない。
耳元では風が音ではなく圧力になって唸り、胃が背中側へ置き去りにされるような感覚が続いた。速い、なんて言葉では足りない。地面を走っているはずなのに、体感としては低空を撃ち出された砲弾に近かった。
途中から、速度を楽しむ余裕など完全に消え失せた。
俺はただ首元の毛へしがみつき、生き残ることだけに意識を集中させていた。
◇
「おぇぇぇぇぇぇっ!」
エストラへ到着した瞬間、俺はジロウの背中から転げ落ち、その場で胃の中身を盛大にぶちまけた。
「おぇっ……おぇぇ……!」
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃ。
膝をついたまま肩で息をしている俺を見下ろし、ジロウは――。
「ワフ」
鼻で笑った。
「……お前、絶対わざとだろ」
ジロウは知らん顔で尻尾を振っている。
その姿を見て、俺は心の底から決意した。
次からは、絶対に余計なことは言わないと。




