第4話:初めての依頼
昨日、愛犬から生肉を差し出された俺は、丁重に辞退した。
ジロウなりに、獲物の中でも柔らかく栄養価の高い部位を分け与えてくれたのだろう。気持ちは嬉しい。とても嬉しいのだが、現代日本の衛生観念を持つ元獣医として、正体不明の魔物の心臓付近を生で齧る勇気はなかった。
結局、その肉はジロウが少し不満げに平らげた。俺はというと、宿に戻ってから胃袋の存在を強く意識しながら眠り、翌朝、改めてギルドの依頼板の前に立っていた。
討伐依頼は論外。採取も、植物の知識がない今の俺には危険すぎる。
だが、昨日の試走で分かったことがある。ジロウは俺を乗せて走れる。しかも、常識外れの速度で、ほとんど揺らさずにだ。
なら、今の俺たちに一番向いている仕事は何か。答えは、依頼板の端に残っていた一枚の羊皮紙にあった。
「すいません。この依頼を受けたいのですが……」
受付に依頼書を差し出すと、片眼鏡を掛けた受付嬢は一瞥しただけで内容を把握し、小さく目を見開いた。
「かしこまりました。こちらは……配送依頼ですね」
依頼書と壁の時計を見比べた彼女は、胸に手を当てて安堵の息を漏らした。
「間に合って良かったです。期限は本日いっぱいでしたので、このまま受理されなければ、依頼は取り下げとなるところでした」
「取り下げ、ですか?」
「はい」
彼女は微笑みながらも、手元の書類へさらさらとペンを走らせる。
「配送依頼は、討伐や採取と違って拘束時間が長く、荷物の受け渡しや積み込み、受領証の確認など手続きも多くなります。さらに、運搬中の盗難や紛失、破損といった責任も伴いますので、どうしても敬遠されがちなんです」
なるほど。
魔物と戦う危険はあっても、討伐なら獲物を倒した時点で終わる。採取も指定された素材を集めれば帰れるし、街の清掃や荷運びなら半日も掛からず終わる仕事がほとんどだ。
その点、配送は違う。
目的地が遠ければ、それだけで数日を費やすこともある。荷物を積み込んでから届けるまで気を抜けず、盗難や事故を防ぐため常に荷物へ気を配らなければならない。
当然、その後は空になった荷車や騎獣と共に帰ってくる時間まで必要だ。
往復すれば、一件の依頼だけで何日も潰れることも珍しくない。
「依頼が期限まで受理されなかった場合は、ギルドが依頼主へ違約金と補填金をお支払いします。当然、依頼主からの信頼も損ないますので、期限が近づくとギルド側で特定の冒険者へ指名依頼を出すことが多いんです」
彼女は苦笑しながら肩をすくめた。
「ですので、自ら配送依頼を選んでくださる方は、本当に珍しいんですよ」
討伐依頼が次々と剥がされていく中、端の方に貼られた配送依頼だけが色褪せて残っていたのは、そういう事情だったのか。
「ヤト様は、この周辺の地図はお持ちでしょうか?」
受付嬢はそう言うと、カウンターの下から丸められた羊皮紙を取り出した。
「いえ、持っていません」
「でしたら、こちらをお持ちください。この依頼は隣町の『ケンデル』までですが、街道の途中には山道や分岐が多く、初めて向かわれる方は道に迷いやすいんです。これは引退された冒険者の方々や、地図作成を得意とする方々から寄付していただいたものになります。必要でしたら、どうぞお使いください」
そういえば、地図のことなどまるで考えていなかった。
日本では目的地を入力すれば、スマホが最短経路から渋滞情報まで勝手に教えてくれる。それが当たり前になりすぎて、自分で地図を読むという発想自体が抜け落ちていた。
文明とは、便利さと引き換えに人間から考える力を少しずつ奪っていくものらしい。
「助かります」
地図を受け取ると、受付嬢は満足そうに頷き、依頼書を手元へ引き寄せた。
「では、改めて依頼内容をご説明いたします」
一度小さく咳払いをしてから、事務的な口調へ切り替わる。
「今回の配送先は、エストラ東方の町『ケンデル』です。依頼主様からお預かりしている個人宛のお荷物を、受取人様へ直接お届けください。代理人への受け渡しは原則認められておりませんので、必ずご本人様のお名前をご確認ください」
受付嬢は木箱ほどの大きさの荷物を丁寧にカウンターへ載せた。
「受け渡しが完了しましたら、こちらの受領証へ受取人様の署名、もしくは印章を頂いてください。それが依頼完了の証明となります。こちらの受領証と引き換えに報酬として銀貨三枚をお支払いいたします」
なるほど。口約束ではなく、きちんと証拠を残す仕組みになっているらしい。荷物が届いた、届いていないで揉めるのは、どこの世界でも同じということか。
受け取った地図を広げる。
街道は一本ではなく、森を避けるように何本も枝分かれしていたが、目的地のケンデルまでは街道沿いに進めば迷うことはなさそうだ。距離にして、およそ二十キロ前後。途中には小さな山を越える必要があるものの、地図を見る限り道は通っているため、移動そのものに苦労するような行程ではない。
むしろ気になるのは、二十キロという距離が今の俺たちにとってどれほどのものなのか、ということだった。
昨日、ジロウの背中で体感した速度は、高速道路を大型二輪で法定速度を大きく超え、「この先にオービスがあったら人生が終わる」と冷や汗をかくような、あの感覚に近かった。正確な速度までは分からないが、あれを基準に考えるなら二十キロ程度など散歩の延長と言っても過言ではない。
……もちろん、その“散歩”が人間の常識を遥かに超えていることさえ除けば。
「ちなみに、ヤト様……その、装備の方は……?」
受付嬢は言いづらそうに視線を泳がせ、恐る恐る口を開いた。
「え?」
「い、いえ……失礼を承知でお尋ねするのですが、そのまま出発なさるおつもりでしょうか?」
言われて初めて周囲を見渡す。
剣を腰に提げた剣士。大盾を背負った重戦士。弓を抱えた狩人。杖を手にした魔術師らしき人物までいる。
装備の質に差こそあれ、全員が何らかの武器と防具を身につけていた。
対して俺は、パーカーにジーンズ、履き慣れたスニーカーという完全な私服姿だ。
まるで、サービス開始初日にチュートリアルだけ終わらせた無課金プレイヤーが、いきなり高難度ダンジョンへ放り込まれたような格好である。
「……見事に何も持ってませんね」
そりゃ武器を持つ習慣など日本ではまずないし、当たり前だが、防具に至っては人生で一度も装備したことがない。
「本来でしたら、最低限の革鎧や短剣はご用意いただくことをおすすめしております。配送依頼は討伐ほど危険ではありませんが、街道には魔物や盗賊が現れることもありますので……」
やはり、そう甘くはないか。
とはいえ、昨晩の宿代や食費を差し引けば、手元の資金は決して潤沢ではない。
今ある銀貨は、生活の基盤を作るための大切な資金だ。ここで防具一式を揃えれば、あっという間に底をついてしまうだろう。
そんな俺の表情から財布事情を察したのか、受付嬢は「あっ」と小さく声を漏らした。
「申し訳ありません。配慮が足りませんでした」
慌ててカウンターの下を探り、一枚の小さな案内札を差し出してくる。
「もしご予算が厳しいようでしたら、こちらはいかがでしょうか」
そこには簡単な地図と店名が書かれていた。
「冒険者を引退された方や、ご家族が寄付してくださった武具を無償で譲渡しているお店です。新品ではありませんが、初心者の方でしたら十分お使いいただけます」
「無料で、ですか?」
「はい。『これから冒険者になる方の助けになれば』という善意で続けられている活動なんです。数には限りがありますが、運が良ければ革鎧や盾なども残っていますよ」
思わずジロウを見る。
俺の愛犬は話を聞いていたのかいないのか、大きな欠伸を一つすると、「早く行こう」と言わんばかりに尻尾をゆっくり揺らした。
どうやら、まずはその店へ寄ることになりそうだ。




