第3話:犬、なのか?
翌朝。
宿屋『白樺亭』の安っぽいカーテンの隙間から差し込む朝日に目を覚ます。
二階建ての木造建築で、白い漆喰の外壁に年季の入った梁が走る。豪華さこそないものの、掃除は隅々まで行き届き、主人夫婦も気さくで居心地は悪くない。
昨晩、セリナさんがオーク討伐の報酬を譲ってくれたおかげで、当面の生活費は確保できた。
とはいえ、働き口がない現実は変わらない。帰る方法も分からない以上、しばらくはこの『エストラ』を拠点に生活していくしかなさそうだった。
宿を出ると、朝の街は既に活気に満ちていた。
鎧姿の冒険者、荷車を引く商人、工具を抱えた職人、制服姿で談笑する学生らしき若者まで、様々な人々が同じ通りを行き交っている。『始まりの街』と呼ばれるだけあって、人の流れが途切れる気配はない。
無意識にポケットのスマホへ触れる。
画面は真っ黒なまま、圏外表示すら消えていた。充電が切れたのか、それとも壊れたのかは分からない。背面の林檎マークに十五万円近く払ったというのに、充電もできなければ結局は少し高価な板切れでしかなかった。
どちらにせよ、日本との繋がりは完全に断たれている。
バイト先は無断欠勤扱いになっているだろう。普通なら青ざめる状況だが、帰る術すら分からない今、それを気にしたところで何も変わらない。俺は小さく息を吐くと、ゆっくり街の中心へ向かって歩き始めた。
すると、周囲が一斉にざわついた。
「ちょっ、暴れないで!」
前方では、一人の女性が肩へ止まった鳥を必死になだめている。
分類学的にはフクロウに近いようにも見えるが、羽毛の質感も眼球の構造も、俺の知るどの鳥類とも一致しない。
その鳥はジロウの姿を認めた瞬間、全身の羽毛を逆立てたかと思えば、次の瞬間には羽を身体へぴたりと畳み、震えながら女性の肩へしがみついた。
そういえば、ギルドでそんな説明を受けた。
この世界では、魔力を宿して生まれた野生生物を総じて『魔物』と呼ぶ。種族ごとに性質は異なるが、多くは縄張り意識が強く、人や家畜を襲う危険な存在として討伐対象になっているらしい。
一方、人と契約を交わした個体は『魔獣』として扱われる。街中へ正体不明の大型動物を連れ歩くことは認められておらず、ジロウも魔獣として登録し、俺自身も契約者である魔獣使として届け出を済ませていた。
だが、目の前の光景を見る限り、同じ「魔獣」という括りだけで片付けていい存在とは思えない。あの鳥が見せたのは、強い相手を警戒する程度の反応じゃない。
まるで、食物連鎖の頂点と目が合ってしまった小動物のような、本能そのものが訴える恐怖だった。
◇
「このパン、一つください」
露店で焼き立てのパンを受け取り、銅貨を三枚渡す。
昨日のうちに、この世界の貨幣価値だけは頭へ叩き込んでおいた。銅貨百枚で銀貨一枚、銀貨十枚で金貨一枚。さらにその上には白金貨があるらしい。
昨晩受け取った銀貨八枚は、数字だけ見ればそれなりに思えるが、宿代だけで一泊銀貨一枚。食費や日用品、物価の違いまで考えれば、楽観視できる額ではなかった。
日本のような生活保護も、福祉制度も、勤務医時代に当たり前のように存在していた福利厚生もない。
あの国は先進国の中でも相当に完成された仕組みの上に成り立っていたのだと、今さら痛感する。恐らくこの世界では、働けない者から順に見捨てられる。働かなければ生きていけない。それだけは日本も“異世界”も同じらしい。
俺はパンを頬張りながら、重い足取りでギルドへ向かった。重厚な扉を押し開いた瞬間、昨日と同じ視線が突き刺さる。
「……あいつ、何しに来たんだ?」
「知らねぇよ。見ろ、丸腰だぞ」
「丸腰でギルドに? 随分と肝が据わってんな」
「いや……隣の白いのも何だ。見たことねぇぞ」
「目ぇ合わせんな。面倒事かもしれねぇ」
露骨な値踏み、好奇心、警戒。決して歓迎されている空気ではない。俺は愛想笑いを浮かべながら何度も頭を下げ、その視線から逃げるようにクエストボードの前へ向かった。
掲示板を埋め尽くす羊皮紙は、ランクごとに細かく整理されている。
俺が身を置く鉄級のボードの前は、野心に満ちた若者たちでごった返していた。彼らは昇級を狙い、次々と討伐や護衛の依頼を剥ぎ取っていく。
「ゴブリンの巣穴駆除、報酬は銀貨三枚だ!」
「俺たちで受けるぞ。数は多いが鉄級なら十分だろ」
「護衛依頼も残ってる。街道沿いなら魔物も少ねぇ」
そんな熱気から距離を置き、俺は掲示板の端に貼られた地味な依頼へ目を向けた。
平和な国で、フリーターとしてのほほんと暮らしていた丸腰の俺に命のやり取りなどできるはずもなく、討伐依頼など論外。清掃は安全だが稼ぎが少なすぎるし、採取はこの世界の植物の毒性や価値を知らない俺には危険すぎる。
消去法でいくと、荷物持ちか配送が最適だった。極端な戦闘能力は求められず、かといって食いつなぐには十分な報酬が見込める。
問題があるとすれば、道中で魔物や盗賊に出くわした場合だが――俺は足元へ視線を落とした。
ジロウが小さく鳴く。
「……なぁジロウ」
昔からずっと一緒にいた愛犬のはずなのに、そのあまりの巨体に改めて視線が吸い寄せられる。
「お前、こっち来てから更にデカくなってないか?」
「ワフ?」
キグナスの森でオークと対峙したあたりから、明らかに骨格が太く、筋肉の盛り上がりも増している。
あのオークの死骸を喰らった影響なのか、今のジロウは肩高だけで百五十センチに届きそうだ。体長に至っては軽く二メートルを超えているだろう。
この巨体を軽々と動かし、セリナさんを背負って疾走した脚力と持久力。そして、オークを瞬殺した謎の潜在能力。
俺はしばらく考え込んだあと、できるだけ真剣な顔で尋ねた。
「なあ……もし俺が乗ったら、怒る?」
ジロウは一瞬だけ目を細めた。
その顔は、どう見ても「今さら何を言ってるんだ」と言っていた。
◇
一度ギルドを後にした俺達は、エストラの喧騒を抜け、人目につかない荒野へと足を運んだ。
ジロウは尻尾をブンブンと振り、今までに見たことがないほど上機嫌だ。まるで、ようやく俺を乗せて全力疾走ができると、待ちわびていたかのように。
「の、乗るぞ」
俺が声をかけると、ジロウは自ら足を折り畳み、乗りやすいように背中を低く差し出した。
その大きな背中に跨ると、視界が一気に高くなる。温かく、獣特有の頼もしい安定感。これなら行ける、そう確信して手綱を引くような動作をした直後だった。
凄まじい衝撃と共に、視界が裏返った。頭から地面に叩きつけられ、砂埃を上げて転がる。何が起きたのか理解する間もなく、呆れ顔のジロウが首根っこを優しく、しかし強引に咥えて引き起こしてくれた。
いやいや、何だよ今の加速。一瞬でモフモフした背中が見えなくなるほどの速度だったぞ。
「ここは……どうだ? 大丈夫か、痛くないか?」
昔から抜け毛が少なく、換毛期とも無縁だったジロウの首周りの毛を掴む。
日本にいれば、愛犬に跨り毛を掴むなんて炎上どころか動物愛護団体に糾弾されかねない所業だ。
だが、地面に放り出された俺を、ジロウは鼻先でつつき、何度も「もう一度乗れ」と催促してくる。首の毛を掴め、と。お前程度に掴まれて抜けるほど、俺の毛は軟弱じゃないんだよ、と言わんばかりの威圧感すら漂っていた。
ジロウの眼差しに気圧され、俺は今度は上体を低くし、しっかりと首元の毛を握り込んだ。俺の準備が整ったことを確認すると、ジロウは今度はゆっくりと走り始める。
加速。
徐々に増していく風の抵抗が、頬を切り裂くような鋭さへと変わっていく。地面の凹凸すら感じさせない滑らかな走りで、感覚的には時速八十キロには達していただろう。だが、それでもジロウは退屈そうに欠伸をしている。今の走りでさえ、本気には程遠いのか。
既にエストラから遠く離れた場所まで来ていた。俺は耳元で風の唸りを聞きながら、ジロウの耳を軽く撫でる。
「なぁ、今の走りで本気じゃないんだろ? 俺を乗せた状態で、お前はどこまで速くなれるんだ? 限界まで試してみるか?」
そう耳打ちすると、ジロウの口元がわずかに持ち上り、ニヤリと笑ったような気がした。
その瞬間、足元の荒野が弾丸のような速さで後ろへ飛んでいく。まともに目さえ開けていられない速度だが、ジロウの背中は驚くほど揺れず、衝撃を一切感じない。
犬と狼の走り方には決定的な違いがある。
犬は背骨を上下に大きく波打たせて走るため振動が伝わりやすいが、狼は背骨を水平に保ち、四肢のバネと効率的な骨格構造で地面の衝撃を完全に吸収する。
今のジロウの走りは、まさに理想そのものの狼だった。
もし本当に狼だとしても、この巨体と速度は到底説明がつかない。それでも、風を切って駆けるジロウは心の底から楽しそうで、細かいことを考えるのが馬鹿らしくなってくる。
気づけば、随分と遠くまで来ていた。
それでも不思議と不安はない。進む道を決めるのは昔からいつもジロウで、俺はその背中についていくだけ。
つい昨日まで日本で繰り返していた散歩と何も変わらない。世界が一変しても、好き勝手に走り回るこいつだけは昔のままだ。そのことが妙に嬉しくて、俺は小さく笑みをこぼした。
やがてジロウが緩やかに速度を落とし、停止する。俺はふらつく足取りで背から飛び降りると、固まった腰を伸ばし、大きく伸びをした。「ふう、やっぱり地に着いた足は最高だな」と独り言ちながら、心地よい風に吹かれていた、その時だ。
気配が消えた。
数秒前まで隣にいたはずの巨大な獣の熱が、嘘のように消え失せている。俺が首を傾げて「ジロウ?」と声を上げようとした、まさにその瞬間。
背後で、ずしりとした地響きが鳴った。
振り返った先には、ジロウが何事もなかったかのようにすましていた。ただ、その口元には先ほどまでいなかったはずの、立派な角を持つ鹿の魔物が、まるで当然の戦利品であるかのように無造作に咥えられている。
ジロウは獲物を足元に置くと、迷いなく貪り始めた。
血の匂いが荒野に充満する。一通り腹を満たしたジロウは、口元を赤く染めたまま、鹿の中でも最も栄養価が高く、かつ軟らかいとされる心臓付近の肉を、俺の足元へと丁寧に転がしてきた。
な、生でですか?




