第2話:冒険者
森を抜けた途端、視界を塞いでいた木々が途切れ、その先に広がる光景を前に思わず足が止まった。
「……どこ、ここぉ」
最初に目へ飛び込んできたのは、街だった。
それも小さな集落などではない。灰白色の石造りの建物が幾重にも連なり、赤や青の屋根が陽光を反射している。その間を縫うように幅広い石畳の大通りが延び、荷馬車と大勢の人々が絶え間なく行き交っていた。
露店から漂う焼き立てのパンや香辛料の匂い、客を呼び込む商人の声、石畳を叩く蹄の音。見渡す限り電柱も信号機もなく、自動車のエンジン音一つ聞こえない。それでも街は驚くほど活気に満ち、目の前には俺がこれまで見たことのない文明が確かに営まれていた。
だが、俺の足を止めた理由は街並みだけではない。行き交う人々に目を向ければ、セリナさんと同じ革鎧姿の者に混じって、肩近くまで届く長い耳を持つ女性や、立派な髭を蓄えた小柄な者まで、ごく当たり前の顔で大通りを歩いている。
思わず長耳の女性を目で追った。特殊な装具か何かとも考えたが、耳介の付着位置から軟骨の形状まで人間とは根本的に違う。何より、人混みから聞こえた大きな物音へ反応して耳が僅かに動き、薄い皮膚の下には血管まで透けて見えた。
作り物には見えない。
小柄な者たちも、単に身長が低いという話ではない。四肢の比率や肩幅、頭蓋骨のバランスまで、一つの種族として完成された骨格をしていた。
演技でも仮装でもない。商人は値段を競り、職人は汗を流し、子供は泣き、恋人同士は笑い合っている。誰一人として自分の姿へ違和感を抱いている様子はなく、それがこの場所では当たり前の日常として成立しているが、これだけで何かを断定するのは早い。
ただ、少なくとも俺が知る日本とは文化も常識も大きく異なる場所であることは間違いなさそうだ。どこか遠い国なのか、それとももっと根本的に異なる場所へ迷い込んでしまったのか。今ある情報だけでは、そこまで判断できない。
なら、最大限に警戒しながら周囲へ紛れる。この場での最適解は、おそらくそれだ。事情も分からないまま騒いで注目を集めるより、まずはこの場所の常識を知り、自分が置かれた状況を把握する方がいい。
そう考えながら周囲の人々を観察していると、不意に小柄なドワーフと目が合った。骨格や四肢の比率、歩行時の重心移動まで無意識に視線で追ってしまっていたらしい。
「……何見てやがる」
低い声と同時に肩を軽く小突かれ、我に返る。
「も、申し訳ありません」
慌てて頭を下げる俺の前へ、セリナさんがすっと割って入った。
「すみません。この方、街へ来たばかりなんです。決して悪気があって見ていたわけではありませんので」
ドワーフは「ふん」と鼻を鳴らすと、なおも怪訝そうな視線を残したまま歩き去っていく。
俺も慌てて頭を下げ、その背中を見送った。
「ご、ごめんなさい。つい見入ってしまって……」
「お気になさらないでください。でも、ドワーフの方々は誇り高くて短気な方も多いんです。知らずに怒らせてしまうと大変ですから」
そう言って笑ったセリナさんは、ふとジロウへ視線を落とした。
「……そういえば、ヤトさんはジロウちゃんのテイマーなんですか?」
突然の質問に思考が止まる。
「テイマー……ですか?」
「はい」
その単語自体は知っている。確か英語では調教師や動物を扱う者、そんな意味だったはずだ。
ジロウのような大型犬を連れているから、そう思われたのだろうか。それとも、この世界では一定以上の動物を従えている者を、まとめてそう呼ぶのかもしれない。
正直なところ、今の情報だけでは判断できない。だからといって、ここで「知りません」と首を傾げるのも得策ではなさそうだ。
俺は曖昧に頷き、とりあえず話を合わせることにした。
「えぇっと……そうですね」
頭を掻きながら愛想笑いを浮かべる。
知らない単語を知っているふりをしているのだから、我ながら随分と白々しい笑顔だったと思う。
それでもセリナさんは疑う様子もなく、安心したように表情を和らげた。
どうやら余計な詮索をされることはなさそうだ。内心ほっと胸を撫で下ろし、俺はそれ以上話を広げないことにした。
その後は互いに多くを語ることもなく街を歩き続ける。
セリナさんは時折、建物や通りを指差しながら街のことを教えてくれ、そのたび俺は相槌を打ちながら耳を傾けた。知らないことを無理に知ったかぶりするより、聞き役に徹した方が余計なボロを出さずに済む。
今は少しでも、この世界の常識を頭へ叩き込むことが先決だった。
森を抜けた街道の先には、視界を埋め尽くすほど巨大な城壁がそびえ立ち、その威容は日本の城とは比較にならない。数十メートルはあろうかという石壁が街全体を囲み、見上げるだけで首が痛くなるほどだった。
重厚な門を潜ると街の喧騒が一気に押し寄せてくる。
「早速で申し訳ありませんが、こちらへ。受付を済ませてから、ゆっくりお話を伺います」
朝から散歩へ出て、森の中を全力で走り回り、そのまま徒歩でここまで来た。
流石に足へ疲労が溜まり始めていたが、セリナさんには休む様子がない。案内されたのは広場に面したひときわ大きな建物だった。古びた看板には見たこともない文字が刻まれており、当然一文字も読めない。
扉を開くと、酒と汗、それに鉄の匂いが鼻を突く。武器を背負った男たちが酒を飲み、大声で笑い、羊皮紙へ群がって依頼を吟味している。どう見ても堅気の集まりではなかった。
俺はセリナさんに続いてホールを抜け、そのまま奥の面談室へ通される。ようやく椅子へ腰を下ろして長く息を吐くと、足元ではジロウだけが何事もなかったように丸くなり、すぐ寝息を立て始めていた。
……お前だけは、本当にいつも通りだな。
◇
部屋の扉が開かれ、一人の男が入ってきた。
右腕の袖が肩口から綺麗に縫い閉じられている。歳は五十を超えているだろうか。
無精髭を蓄え、隻腕であること以外にも、顔の左半分には古い火傷のような傷跡が刻まれている。その容貌は、平和な日本の日常ではまずお目にかかれない、歴戦の強者だけが持つ凄みを漂わせていた。
彼は俺の前に腰を下ろし、深く沈み込む椅子に体重を預ける。その隣には、先ほどまでの冷徹さを少しだけ緩めたセリナさんが座った。
「お待たせして申し訳ない。私はこのギルドで、主に冒険者の動向やトラブルの収拾を担当しているメナードだ。『キグナスの森』での件、セリナくんから詳細を聞かせてもらったよ。まずは君の素性と、なぜあんな場所にいたのか。そして、あのオークをどうやって……始末したのか、聞かせてくれないか」
その口調は穏やかだが、射抜くような視線には隠しきれない探究心が宿っていた。俺は一度息を整え、用意しておいた説明を慎重に口にする。
「――いつもの散歩コースの先で、倒れていたセリナさんと、すでに動かなくなっていたオークを見つけまして。放っておくわけにもいかず、とりあえず応急処置を施したんです。……ただ、オークの死骸については、申し訳ないですがこいつが飢えていたのか、その場で食べてしまいました。ですので、誰がどうやって倒したのか、俺には全く分かりません」
一気に言い切ると、メナードさんは組んでいた指を解き、机の上の書類を指先でトントンと叩いた。
「なるほど。つまり……偶然森に入ったらオークの死骸と生存者がいた。人助けをしてその間に魔獣が証拠を喰い尽くしたから、詳細は一切不明、と」
彼はそう言って、俺の顔をじっと見つめた。その視線には、最初から俺の話を半分程度しか信じていないという色が濃く滲んでいる。
俺は「はい」と短く答える。
この状況がどれほど不自然か、言葉を重ねれば重ねるほど墓穴を掘ることになるのは自明だった。
隣ではセリナさんが、俺の返り血に染まった腕と、オークの死後攣縮の様子を思い返しているのか、執拗なまでの疑念を隠そうともしない。
彼女たちの間で交わされる小声の密談が、俺の耳に届く。
「オークの討伐現場に関与しているのは明白です。ですが、単独でオークを屠れる冒険者やパーティーの滞在情報は皆無。かといって、彼自身が他人の手柄を強奪したり、逆に実績を隠蔽したりする動機も見当たりません。……報酬も名声も放棄するなんて、あまりに合理的ではない」
「同感だ。他人の実績を詐称する輩は掃いて捨てるほど見てきたが、わざわざ自身の功績を虚偽で塗り潰し、恩を売るような酔狂な真似、聞いたこともない」
二人の私語は、まるで尋問前の品定めのように俺の鼓膜を刺す。俺は努めて無表情を装い、飼い主の顔を立てるかのようにジロウの首筋を静かに撫で続けた。
ここで余計な弁明を重ねれば、かえって疑念を深めるだけだ。メナードさんは溜息混じりに俺へと向き直ると、重い口を開いた。
「事情は了解した。……君の言い分に腑に落ちない点は多々あるが、少なくともセリナくんを助けたのは事実だ。今回はその厚意を信じよう」
メナードさんは一度だけ言葉を切り、鋭い眼光を俺に向けたまま椅子から立ち上がる。
「ただ、次からは無許可の立ち入りは認めない。あそこは魔物が巣食う死地だ。本来なら専門の護衛を雇うべき場所になぜ君がいたのかは問わないが、その足で怪我人を背負って生還する力があるなら、そのまま埋もれさせるのはギルドの損失だ。……どうだ、この街で冒険者として登録してみる気はないか?」
「冒険者、ですか? ……その、登録にお金とか掛かったりは」
「まさか。金銭的な要求は一切無いよ。冒険者証は身分証代わりにもなるし、無理に依頼を受けずとも、とりあえず登録だけ済ませておくという者も大勢いる。君にとっても悪くない提案のはずだ」
メナードさんは鷹揚に笑った。俺は少しだけ迷った後、財布から免許証を取り出し、彼へと手渡した。
「ちなみになんですが、このカードは身分証として……成立しますか?」
メナードさんはそれを受け取ると、光にかざしたり指で触れたりして、怪訝そうな顔をした。
「これは……見たこともない素材だな。刻まれた文字も、どこの国のものか判別がつかない。申し訳ないが、この国では何一つとして身分証にはなり得ないよ。……君の出身は、相当に遠い場所のようだな」
予想していたことだが、やはり駄目か。続いてマイナンバーカードや保険証も出してみたが、すべて同じ反応だった。異世界で俺を証明する術は、皮肉にも俺自身の身体と、隣で鼻を鳴らしている唯一の家族しかいないらしい。
肩を落とす俺を慰めるように、ジロウが顔をペロペロと舐めてくる。嬉しいのは山々だが、さっきオークの死骸を喰らった口元からは、強烈な腐臭が漂ってくる。
「……ジロウ、気持ちは嬉しいんだが、今は少しだけ遠慮してくれ」
俺は嗚咽しながらジロウを制し、セリナさんに連れられて一階の受付カウンターへと向かった。
「それじゃあ、登録を始めましょう。まずはこの書類に名前と年齢を書いて……」
受付嬢にそう言われ、俺は固まった。
「文字は……書けますか?」
「いや、書けないです……」
この歳になって文字の読み書きができないという事実に、情けなさで胸が詰まる。
だが、意外にも受付嬢は動じる様子もなく、むしろ慣れた手つきでペンを構えた。どうやらこの世界では識字率はかなり低いらしく、珍しいことではないらしい。
俺の言葉を彼女が代筆し、最後に指定された場所に印を押す。それで形式上の手続きは終わった。
「これにて登録完了です。ヤト様は新人の鉄級として登録されます。……ただ、今回はメナード様、およびセリナ様からの極めて強力な推薦がありましたので、本来であれば必須となる一週間の基礎研修は免除されます」
彼女はそう言うと、俺に銀色のバッジを手渡した。
ランクは全部で八段階。鉄級から始まり、青銅、白銀、黄金、白金、秘銀、山銅、そして最高位の神鋼。
勿論、一番下の鉄級からのスタート。
渡されたタグを掌の上で転がす。
金属のようにも見えるが、触れた瞬間に微かな熱が返ってくる。名前、登録日、ランク、所属支部。説明によれば、その情報はギルド側の記録と常に照合され、偽造も改竄もほぼ不可能らしい。
正直、日本の身分証より遥かに優秀だ。
運転免許証も保険証もマイナンバーカードも、この世界ではただの珍しい札に過ぎない。だが、この小さなタグ一枚あれば宿へ泊まれ、依頼を受けられ、身元の証明までできる。
手続きも思っていた以上に整備されていた。受付、登録、代筆、記録、ランク管理。設備こそ現代には及ばない部分もあるが、制度そのものは驚くほど合理的で、役所の窓口と比べても大きく見劣りするようには思えない。
俺は無意識のうちに、電気も機械もない世界なら文明そのものも遅れているはずだ、と決めつけていたのかもしれない。
確かに電気もスマホもない。だが、その代わりに魔法を利用した技術や、それを前提とした制度が社会へ深く根付いている。文明の優劣ではなく、発展してきた方向が違うだけなのだ。
少なくとも、この街なら現代で暮らしてきた俺でも何とか生活していけそうな気がした。
俺はギルドタグをポケットへしまい込み、小さく息を吐いた。




