第1話:ジロウさん?
俺の人生は、世間から見れば順風満帆だったのだと思う。
高校時代までは医師を志し、人の命を救う仕事への憧れから、日本最難関と称される東京大学理科二類へ合格した。だが、その進路を変えたのは、幼い頃から一緒に育ってきた白い犬――ジロウだった。
ある日、何の前触れもなくジロウが倒れた。呼び掛けても反応は鈍く、水も餌も口にしない。
近所の動物病院を何軒も回り、血液検査から画像検査まで受けさせたが、原因は最後まで分からなかった。それから二日後、ジロウは何事もなかったように起き上がり、腹が減ったと言わんばかりに餌を平らげた。
結局、原因は不明のままだった。
無事だったことへの安堵より、何もできずに結果を待つしかなかった自分の無力さが胸に残った。
次に同じことが起きた時、ただ誰かの判断を待つだけの人間にはなりたくない。自分の手で原因を探し、自分の手で救えるようになりたい。そう考えた俺は進路を獣医学へ定め、獣医師免許を取得した。
卒業後は安定を求めて農協へ就職し、産業動物の命と向き合う仕事にやりがいを感じていた。しかし、牛や豚といった大動物を診る日々を重ねるほど、より幅広い症例や治療に触れたいという思いが燻り続け、俺はやがて民間の小動物臨床へ転じた。
そこで待っていたのは、聖職という言葉からは程遠い、泥を啜るような労働環境だった。
診察時間が終わっても業務は途切れない。
入院動物の看病、翌日の手術準備、山のように積み上がったカルテの作成。不安に駆られた飼い主への電話説明が深夜まで続き、ようやく帰宅しても、枕元に置いた携帯電話が緊急対応の呼び出しを告げる。
重篤な急患が入れば、貴重な休日であろうと泥のように眠る身体を叩き起こし、病院へ駆け付けるのが当たり前だった。
それでも、肉体の疲弊だけなら耐えられたのかもしれない。俺を本当に蝕んだのは、コンパッション・ファティーグ――共感疲労だった。
どれだけ手を尽くしても救えない命がある。その最期に立ち会い、飼い主の剥き出しの悲嘆や、行き場を失った怒りを受け止め続ける。
心を麻痺させなければ到底立っていられない現場で、いつしか俺の精神は潤滑油を失った歯車のように軋み始めていた。
そして心身ともに限界を迎えたある夜、色を失った視界の隅で、俺の意識は唐突に――けれど必然のように途切れた。街灯も疎らな深夜の路地裏で。
次に目を覚ました時、俺は病院のベッドにいた。助けてくれたのは、ジロウだった。
忙しさを理由に、散歩へさえ満足に連れて行けない日が続いていた。
飼い主失格と罵られても否定できないほど、その賢さと我慢強さに甘えていた。
それでもジロウは倒れた俺を路地裏で見つけ、服を咥えて人目のある場所まで引きずり、通行人が気付くまで傍を離れなかったらしい。
救うために選んだ仕事で、自分の命を失いかけた。そして、その俺を救い上げてくれたのは、守るつもりでいた一匹の犬だった。
それを機に、俺は獣医を辞めた。以降は細々とアルバイトを掛け持ちしながら暮らすようになり、金銭的な余裕こそなくなったが、ジロウと過ごす時間は増えた。
派手さも将来への保証もない。それでも、愛犬と過ごす毎日は穏やかで、俺はその生活に満足していた。
なのに。
「グオオオオオオオオオォォォォッ!!」
鼓膜を揺さぶる濁った咆哮が森の静寂を切り裂く。俺がこれまで診てきたどんな動物とも似ていない。
ただ本能的な敵意と殺意だけを凝縮したような咆哮に、全身の毛穴が総毛立った。
木々の隙間から姿を現したのは、錆び付いた大剣を握る二メートルを超える緑色の巨体だった。赤黒く充血した眼球が獲物を選別するようにゆっくりと俺たちを舐め回し、その視線だけで身体の芯まで凍り付いていく。
「ジロウ。その人を病院へ届けたら……俺の部屋にあるハードディスクを、何があっても物理的に破壊してくれ。中身を見られたら社会的にも死んでしまう」
死ぬのは肉体だけにしてくれ。
こんな時でも世間体を気にしてしまうような性癖を今だけは恨む。だが、意識は自然と目の前の化け物へ向いていた。
二足歩行。異常な筋量を持つ肩と腕、前方へ寄った眼球、捕食者特有の鋭い犬歯。骨格そのものは哺乳類に近いが、豚のような鼻梁と大型肉食獣を思わせる顎の発達が不気味な違和感を生んでいた。
獣医としての癖なのか、恐怖より先に身体の構造を観察してしまう。
皮膚は真皮そのものが厚く、並の刃物では通らないだろう。だが、眼球や鼻腔、口腔のような粘膜まで硬いとは考えにくい。頸部も短いとはいえ、総頸動脈や気管の位置まで根本的に変わるとは思えなかった。
……いや、駄目だ。
近付く前に、あの大剣で叩き潰される。
肉食なら喉元を狙う。雑食なら四肢を潰して動けなくしてから喰らうかもしれない。どちらにせよ、俺が囮になれば数十秒くらいは時間を稼げる――そんな覚悟を決めかけた時だった。
不意に、すぐ隣から心臓を鷲掴みにされるような気配が膨れ上がった。
これまでにも何度か感じたことがある。
俺へ危害を加えようとする何かが現れた時だけ、普段の穏やかさが嘘のように消え失せる、ジロウの威圧感だった。金と銀の双眸がゆっくりと細められ、白銀の巨体から滲み出す殺気に呼応するように、辺りから鳥や虫の声まで消えていく。
その瞬間になって初めて、あの化け物も悟ったのだと思う。
濁った赤い瞳が大きく見開かれ、握っていた刃物が僅かに震える。目の前にいるのは獲物ではない。自分より遥か上にいる捕食者であり、既に狩る側と狩られる側は入れ替わっていた。
ジロウの前脚が地面を踏み抜いた。
そう認識した時には、轟音と共に土砂が後方へ弾け飛び、白銀の残像だけが視界を横切っていた。反射的に目で追った先でジロウは既に化け物の背後へ着地しており、何が起きたのか理解できないまま立ち尽くす巨体から、遅れて首がずるりと滑り落ちる。
直後、切断面から噴水のような血飛沫が空高く噴き上がった。
巨体だけが一歩、二歩と惰性で前へ進み、やがて地鳴りのような轟音とともに地面へ倒れ伏す。
ドズン、と森全体を揺らす重低音が響き渡り、鼻を刺す鉄錆の臭いと、生温かい死臭が一気に押し寄せた。
獣医時代、数え切れないほど死と向き合ってきた俺には分かる。
あれは、生き物の命が尽きた瞬間の匂いだ。
ゆっくりと土煙が晴れていく。その向こうから、公園で投げたボールでも拾ってきたかのような軽い足取りで、化け物の頭部を咥えたジロウが歩いてきた。
「えっと……ジロウさん?」
思わず一歩引く。
「その咥えてるキモいもの、絶対ボールじゃないよね?」
俺の突っ込みなんて耳に入っていないのか、ジロウは俺の足元にその「獲物」を無造作に置いた。
ビクビクとまだ筋肉が蠕動する化け物の胴体から、ドス黒い血液が水溜まりのように広がっていく。どうやら、俺が股間を湿らせながら死を覚悟している間に、全てが終わっていたらしい。
◇
俺は恐る恐る、足元に転がるその「頭部」を観察し、習性で指先を伸ばした。検死の要領で下顎骨の咬合を確認し、頬骨弓の張り出しを触診する。
ゴリラやチンパンジーといった既存の霊長類の骨格構造とは根本から違う。
頭蓋骨は異常に肥大し、眼窩上隆起が発達しすぎている。皮下組織は緑色の色素沈着を起こしているが、剥離した切断面からは人間に近い筋肉組織と脂肪層が覗いていた。
牙は鋭く、突き出した口吻部に対して、舌だけは不気味なほど人間に似た筋肉組織で構成されている。
内臓の配置も哺乳類というよりは人間を歪に引き伸ばしたような構造だ。この生物の生物学的な整合性は、既存の分類学では説明がつかない。
俺が困惑に沈んでいる隣で、ジロウは戦利品を品定めするように、あろうことかその内臓を旨そうに喰らい始めた。
「おい、ジロウ……お前、狂犬病どころか未知のウイルスを媒介するかもしれないんだぞ。腹を壊しても知らないからな」
皮肉をぶつけても、ジロウは咀嚼の手を止めない。その時だった。
「うそ……どうしてこの森にオークが……?」
背後から透き通るような、それでいて震える女性の声が響いた。振り返ると、先ほどまで意識を失っていたはずの彼女が、肩の痛みに顔を歪めながらも、鋭い眼光で死骸を睨みつけていた。
「オーク……? どこかで聞いたような……」
どこかのアニメか、いや、薄い本で読んだか。
俺が記憶の底を探ろうとしたその瞬間、女性の視線が俺の姿を捉えた。彼女は一瞬で表情を凍りつかせ、血走った眼で俺を認めると、懐から使い古されたナイフを素早く抜き放ち、その切っ先を突きつけてきた。
「あなた、何でここにっ。動かないで!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 敵意はありません! 寝ているあなたには一切触れてもいません! 私はただの通りすがり、いえ、散歩中に倒れているあなたを見つけただけで……!」
必死に早口で言い訳を並べ立てるが、俺の両手は化け物の返り血でどす黒く染まっている。この惨状で「敵意はありません」と説得するのは難易度が高過ぎる。これでは、通り魔と間違われて通報されても文句は言えない。
「ブッキング? いや、ギルドからこの索敵任務の通達は来ていない筈。単独行動……それとも、誰かに誘導された?」
女性は警戒を解ききれない様子で、小刀の切っ先を下げながらも、何やら難しい顔で独り言をこぼしている。
その横では、骨までボリボリと粉砕して平らげたジロウが、満足げに口元を舐めていた。お前、いつものカリカリのドッグフードじゃ全然足りてなかったのか? そんな場違いな疑問を抱きつつも、俺は彼女から目を離すことができない。
女性はゆっくりと立ち上がると、傍らに転がっていたペットボトルと、彼女の片口の応急処置として巻いたタオルを視線でなぞった。
その瞬間、彼女の瞳から殺気が消えた。ナイフは依然として握られたままだが、俺の血で汚れた手と、その丁寧な手当ての跡を見て、敵意がないと判断したようだ。
「……あなたが、これらで手当を?」
「え? あ、はい。余計なことだとは思ったんですが、出血が酷かったので」
「いえ……ありがとうございます。命を助けていただきました。先程は取り乱し、声を荒げて申し訳ありませんでした」
彼女はペコリと頭を下げた。
どこか現実味のない光景に困惑していると、彼女は残された化け物の頭部をじっと観察し、何かを決意したように膝をついた。
手慣れた手つきで口内に小刀を差し込み、人間でいう犬歯に相当する、長く鋭利な牙を根元から力任せに引き抜く。
「あの、どうしてその歯を抜くんですか?」
彼女は、まるで「何を当たり前のことを」と言いたげな、呆れに近い視線を俺に向けた。
「はい? ……そんなの、討伐の証になるからです。依頼完了の証明をしなければ、報奨金は受け取れませんから」
そんなことを言われても、そもそも『討伐』って何だ? 不審な目で見られているのはこちらの方だが、どう考えても今の状況で一番不審なのは、化け物の牙を収集している目の前の彼女である。
「とにかく、近くのギルドまでついてきてもらいます。こんな危険な場所に、丸腰のあなたが何故いたのか……そこでじっくりと事情を聞かせていただきますからね」
ギルド、オーク、討伐。口から出る単語のすべてが、俺の知る日常の文脈を粉々に砕いていく。
いよいよ現実離れしてきた展開だが、今は彼女の指示に従うのが賢明だろう。
それに、ジロウが警戒していないのが何よりの証拠だ。この子は、昔から俺に悪意を持って近づく人間には牙を剥くほど過保護で、その直感は一度も外れたことがない。
そのジロウが鼻先を寄せて彼女の匂いを嗅ぎ、納得したように喉を鳴らしている。
「賢い子ですね。お名前は?」
「ジロウです。犬種は分かりません」
「ジロウちゃん、よろしくね。申し遅れました。私はセリナ・レーヴァン……しがない冒険者です。今は、その、諸事情で身分を明かすような立場にはなくて」
セリナさんは少しだけ視線を逸らし、何かを隠すように語尾を濁した。その立ち居振る舞いには、隠しきれない気品と、拭い去れない重苦しさが同居している。
「……自分は夜刀 太郎といいます。今はしがないフリーターですが」
ファーストネームから名乗るべきか? それとも苗字からか? 名乗り慣れない自己紹介に変な間ができてしまったが、セリナさんは特に気にする様子もなく頷いた。




