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プロローグ:散歩

異世界で、もふもふとのんびり暮らす日常を描きたくて書き始めた作品です。


愛犬……? と主人公の異世界での生活を、ゆっくり楽しんでいただければ嬉しいです。


よろしくお願いいたします。

 犬を散歩させているのか、それとも巨大な重機に引きずり回されているのか。


 俺の愛犬――“次狼(ジロウ)”を見ていると、時々その境界線がひどく曖昧になる。


 白銀の毛並みに、金と銀のオッドアイ。その神々しい姿に、通りすがりの人は「綺麗な犬ですね」と足を止める。だが、動物を見慣れた俺には、どうしてもそうは見えなかった。


 まず、骨格が違う。


 発達しすぎた咬筋は獲物の骨を噛み砕くために最適化され、肩から前肢へ続く筋肉は大型犬というより野生の捕食者そのものだった。


 走るたび地面を抉る鉤爪、異様なまでに滑らかに動く肩甲骨、そして全身を繋ぐ腱の一本一本に至るまで、一般的なイヌ科とは構造そのものが噛み合わない。


 仮に狼だと言われても納得はできない。この体格、この筋量、この成長速度では、狼という説明すら成立しないからだ。


 その違和感を決定的なものにしたのは、地方紙にも掲載されたとある事故だった。


 散歩の途中、横断歩道を渡っていた俺へ、信号を無視したトラックが突っ込んできた。気付いた時には目の前まで迫っていて、避ける暇なんてなかった。だが、衝撃を覚悟した次の瞬間、俺とトラックの間へ白銀の巨体が飛び込んだ。


 耳をつんざくような衝突音と共に、フロントグリルが大きく陥没した。


 それだけでは済まない。バンパーは歪み、車体前部から部品が散乱し、急停止したトラックの周囲には白煙まで立ち込めていた。俺は何が起きたのか理解できないまま、真っ先にジロウへ駆け寄った。


「ジロウ!」


 ところが、当のジロウは何事もなかったように立っていた。血も出ていなければ、足を庇う様子すらない。それどころか俺の身体を鼻先で何度も確認し、怪我がないと分かると安心したように尻尾を振った。


 トラックと正面から衝突して、壊れたのはトラックの方。さすがの俺も、その日ばかりは認めざるを得なかった。


 こいつ、本当に犬なのか?


 そう疑い始めれば、思い当たることはいくらでもあった。近所の野良犬は気配を感じただけで悲鳴のような声を上げ、一目散に逃げ出す。


 あれだけ立派な毛並みをしているのに換毛期らしい換毛期もなく、おまけに遠吠えをした際には、近くへ停めてあった車のフロントガラスへひびが入り、周囲はちょっとした騒ぎになった。


 トラックとの一件だけが異常だったわけではない。振り返ってみれば、こいつは昔から何もかもが普通の犬とは少しずつズレていたのだ。


 そんな少し変わった白い犬と出会ったのは、まだ幼かった頃。


 兄弟のいない俺を気遣った両親が、保護施設から迎えてくれた一匹だった。俺の名前が太郎なので、「この子は次狼ね」。狼のように強く、逞しく育ってほしい――そんな願いを込めて母が笑いながら名付け、父も「いい名前だ」と嬉しそうに頷いていた。


 その両親は、俺が幼い頃に他界した。だからなのか、今ではジロウの方が親代わりを自負している節がある。何かと俺の世話を焼き、体調を崩して寝込めば毛布を運び、水まで持ってこようとする始末だ。


 どちらが飼い主なのか分からなくなるのは、日課の散歩でも同じだった。


 特注のリードを握っているのは俺だが、進む道を決めるのはいつも向こう。方向音痴の俺がどれだけ入り組んだ道へ迷い込んでも、最後には必ず家まで連れて帰ってくれるため、最近では道順を覚える努力すら放棄している。


 そんな散歩の最中、不意にリードが強く張った。


 長年一緒に暮らしてきたからこそ、その引き方の違いはすぐに分かる。遊びでも、気になる匂いを見つけた時でもない。何かを急かす時だけ見せる、明確な意思を持った引き方だった。


「ちょ、おい」


 問い掛けるより早く、白銀の巨体が駆け出した。まともに踏ん張れば腕ごと持っていかれる。俺は転ばないよう必死に足を動かしながら、その背中を追うしかなかった。


 住宅街を抜け、人通りが途絶え、舗装された道路まで終わっていく。さすがにおかしいと思った頃には、目の前の景色は完全な山道へ変わっていた。


 そして辿り着いたのは、町で最も近づいてはいけないとされる場所――鬼哭山きぐなすやまへ続く立ち入り禁止区域だった。


 普段なら、子供が境界へ少し近付いただけでも威嚇して追い返すほど、この山を警戒している。それなのに今日に限っては立ち止まるどころか、境界を越え、そのまま迷いなく鬼哭山の奥へ踏み込んでいった。


「どうしたんだよ」


 問い掛けても返事はない。


 ジロウは一度も立ち止まらなかった。肺は焼けるように熱く、足は鉛のように重い。最後は走ることすらできず、ほとんど地面を引きずられるようについていく。


 気付けば、鬱蒼とした森の奥深くまで入り込んでいた。


 頭上では見たこともない鳥の鳴き声が響き、木々の隙間から差し込む陽光さえ薄暗い。肩で荒く息をしながら顔を上げると、ジロウは一本の大木の前でようやく足を止め、鼻先を根元へ寄せると、小さく喉を鳴らした。


「クゥン」


 その声は、まるで「ここを見ろ」と訴えているようだった。


 恐る恐る近付き、大木の根元を覗き込んだ、その瞬間。


「うぅ……あ……っ」


 か細い呻き声が耳へ届く。


 日課の散歩へ来ただけなのに、愛犬が金髪美女を見つけてしまった件について。


 猫が鼠や小鳥を捕まえてくる話は聞いたことがある。だが、犬が瀕死の美女を見つけるなど前代未聞だ。


 呆然と立ち尽くす俺を、ジロウは金と銀のオッドアイでじっと見つめていた。


 その視線はどこか冷たく、まるで「見惚れてないで、さっさと助けろ。この童貞」とでも言いたげな、心底呆れ返ったジト目。


 倒れていたのは、革鎧を身に纏った若い女性だった。泥と血で全身は汚れ、肩口から流れた血が地面を赤黒く染めている。どう見ても、この現代日本には存在しない格好だ。


「だ、大丈夫ですか?」


 恐る恐る歩み寄る。


 このご時世、介抱とはいえ意識のない女性へ無断で触れることには躊躇いがあった。


 善意で人を助けても思わぬトラブルへ発展したという話は何度も耳にしてきたし、何より下手に身体を動かせば頸椎や骨盤など、見えない損傷を悪化させる危険もある。


 だが、その迷いは女性の容態を目にした瞬間、頭の隅へ追いやられた。


 唇からは血の気が失われ、呼吸は浅く速い。肩口から流れ続ける血液は衣服を大きく染め、猶予がないことは一目で分かった。


 俺は頸部を不用意に動かさないよう注意しながら頸動脈へ指を添え、脈拍と呼吸を確認する。意識は混濁しているものの反応はある。続いて傷口を素早く観察し、清潔なタオルを傷へ強く押し当てて圧迫止血を始めた。


 しばらくそのまま圧迫を続けていると、女性の口元がかすかに震えた。


「……に、げて……まだ……近くに……」


 え? いま、何て言った。


 耳を疑うような掠れ声が森の静寂へ溶けるように消えていく。瞳は閉じられたままだったが、その表情からは何かに激しく怯えていることだけは伝わってきた。


 立ち入り禁止の山で重傷を負った女性が、誰かに追われるよう怯えている。尋常な状況ではない。俺は慌てて救助を呼ぼうとスマホを取り出した。


 しかし、画面へ表示されたのは『圏外』の二文字。


 こんな山奥で電波を拾えるはずもない。わずかな望みに賭けた行動は一瞬で打ち砕かれ、俺は静かにスマホをポケットへしまうと、女性を背負って山を下りるしかないと覚悟を決めた。


 まずは出血を悪化させないよう身体を起こさなければならない。傷口を圧迫したまま女性の肩へ腕を回し、どう運ぶべきか考えていた、その時だった。


 グルルルルッ――。


 すぐ隣から、勝手にジャーキーを食べた時以上の低い唸り声が響いた。


 思わず手を止めて顔を上げる。ジロウはいつの間にか俺と女性を庇うように前へ立ち、全身の毛を僅かに逆立てながら、金と銀の双眸を木々の奥へ据えていた。


 視線の先で枝葉が激しく揺れる。


 ズシン、ズシン、と腹の底まで響くような重い足音が近付いてくる。それも一歩ごとに、確実にこちらへ向かっていた。


「……何だ?」


 女性が口にした“まだ近くにいる”という言葉が脳裏を過ぎる。


 やがて木々を押し退けるように姿を現したのは、二メートルを優に超える緑色の巨体だった。歪な牙を剥き出しにした顔は、沼の泥を塗り固めたような醜悪な皮膚に覆われ、不潔な獣臭と腐敗臭が入り混じった悪臭が鼻を突く。


 筋骨隆々とした腕には錆び付いた刃物が無造作に握られ、豚のような鼻を鳴らしながら濁った赤い双眸が俺たちを品定めするようにゆっくりと動いた。


 その姿は、生理的嫌悪という感情そのものへ肉を与えたような、おぞましい化け物だった。


 パパ、ママ。息子はあと数分で、そちらへ旅立つことになりそうです。


 せめてジロウと、この女性だけは助かってほしい。股間がじわりと湿っていくのを感じながら、俺は目の前へ迫る死を前に、一歩も動くことができなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


これから主人公とジロウの異世界での生活が始まります。

もふもふとの日常を楽しみつつ、少しずつ広がっていく物語を一緒に楽しんでいただければ嬉しいです。


面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。


続きもよろしくお願いいたします。

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