第18話:レヴォル・グレイン
エストラを統治しているのは王族だ。しかし、その城壁を一歩出れば景色は一変する。
広大な農地や街道、山林のほとんどは有力貴族たちの領地であり、この南東一帯を治めているのがグランヴェル公爵家だった。
その公爵領北西部の山岳地帯で、約一週間前、突如として巨大な洞窟が出現した。
内部へ足を踏み入れた冒険者たちが魔物と未知の鉱石を発見したことで、それが新たなダンジョンであると判明したらしい。
なぜダンジョンが生まれるのか、その仕組みはいまだ誰にも分かっていない。
有力なのは、古代に封印された遺跡や地下都市が長い年月を経て封印を失い、再び地上へ姿を現すという説だ。もちろん、それを裏付ける証拠は何一つ見つかっておらず、結局のところ誰も真実は知らない。
エストラから約百キロ。
街道を外れ、山肌を削るように造られた仮設道を進んだ先には、高さ五メートルほどの木柵と即席の見張り台が築かれ、多数の騎士たちが周囲を警戒していた。
新たに発見されたダンジョンとは思えないほど厳重な警備体制に思わず感心していると、槍を構えた騎士が俺たちの前へ立ちはだかる。
「待て、止まれ。ここから先は立ち入りを制限している」
「ギルドから派遣されたヤトと申します」
そう名乗りながら胸元のギルドタグを掲げる。
騎士はそれを無言で受け取ると、腰へ提げた魔道具へ軽くかざした。
淡い光を確認すると奥にいた騎士たちのもとへ向かい、小声で何やら言葉を交わす。しばらくして戻ってきた男は、先ほどよりも露骨な警戒を滲ませながら口を開いた。
「……何の用だ?」
「ダンジョン初期調査のために来ました。他にもギルドから新人冒険者が派遣されているはずですが」
「知らん。とにかく、ここから先は立ち入り禁止だ」
「いやいや、ギルドの正式な要請ですよ? それにグランヴェル公爵閣下が提示した条件も満たしています」
「だから知らんと言っている」
完全に取り付く島がない。
支部長の話では、俺たち四人とは別に新人冒険者も何人か先遣隊として送り込まれているはずだ。それなのに「知らない」で済ませられるはずがない。俺がさらに言葉を重ねようとした、その時だった。
背後から、ゆっくりと足音が響く。
それは決して大きな音ではない。
だが、一歩、また一歩と近付くたびに、さっきまで俺へ怒鳴り散らしていた騎士たちの顔色が変わっていく。剣へ掛けていた手が離れ、喉がひくりと鳴る。まるで死刑執行人が歩いてきたかのように、誰もが本能的にその足音から目を逸らせなくなっていた。
「…………」
誰も喋らない。
さっきまで喧しく響いていた罵声が嘘のように消え、辺りを支配するのは一定のリズムで近付いてくる足音だけ。
やがて、その足音が俺たちのすぐ後ろで止まる。
「……どけ」
低く掠れた声だった。
怒鳴るでもなく、威圧するでもない。ただ淡々と吐き捨てられたその一言だけで、騎士たちの肩がびくりと震える。
「邪魔なんだよ、カス共」
誰一人として逆らえなかった。
口答えをする者も、剣へ手を伸ばす者もいない。ただ見えない何かに押し潰されるように、一歩、また一歩と後ずさり、自然と道が開いていく。
従ったのではない。頭で考えるより先に、生物としての本能が「逆らえば死ぬ」と叫んでいたのだ。
「……レヴォル・グレイン」
騎士の一人が青ざめた顔でその名を絞り出す。
俺も振り返った。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
血を乾かして黒を混ぜたような赤黒い長髪は鼻先まで伸び、その隙間から覗く双眸だけが、獲物を見定める猛獣のような光を宿している。
整った顔立ちなのは分かる。だが、その印象をすべて塗り潰すほど強烈なのが、額から左頬へ走る稲妻状の古傷だった。無造作に羽織った黒い外套は幾度となく裂け、乾き切って黒ずんだ血痕が幾重にも染み付いている。
それでも本人は気にする素振りすらなく、まるで散歩でもしているかのような気怠さで歩みを進めてくる。
一歩。
また一歩。
歩幅は変わらない。呼吸も乱れていない。それなのに近付くたび空気は重く沈み込み、騎士たちの額には脂汗が滲み、喉が鳴る音だけがやけに大きく耳へ届く。
誰も剣を抜こうとしないのではない。抜けないのだ。この男を前にすれば、武器を構えるという当たり前の行為すら許されない。
まるで人の群れへ、一頭の竜が何気なく紛れ込んできたような、理屈では説明できない圧倒的な格の違いだけが、そこにはあった。
レヴォルさんは騎士たちなど視界にも入っていないと言わんばかりに、そのど真ん中を悠然と歩き抜ける。
誰かの肩が触れそうな距離を通っても、誰一人身動き一つできない。そのまま俺の隣で足を止めると、ジロウを一瞥した。黄金と白銀の瞳と、血のように赤黒い双眸が一瞬だけ交差する。
その鋭い目が僅かに細められた気がしたが、それもほんの刹那のことだった。俺の肩を軽く叩き、面倒くさそうに顎をしゃくる。
「……さっさと行くぞ」
呆気に取られながらも、俺はレヴォルさんの後を追う。近くで見ると、その体には想像以上の傷が刻まれていた。
目を引くのは額から左頬へ走る古傷だが、それ以外にも首筋や腕、指先に至るまで無数の傷痕が残っている。どれも一度や二度の戦いで負ったものではない。
体そのものが、これまで潜り抜けてきた死線の数を物語っていた。
「あの、レヴォルさん。ヤトと言います。おかげで通ることができました」
「レヴォルでいい」
振り返ることもなく返ってきた声は相変わらずぶっきらぼうだが、不思議と棘は感じない。あんな登場をされたら、誰だって近寄り難い危険人物だと思う。けれど実際に接してみると、必要以上に言葉を飾らないだけで、案外まともな人なのかもしれない。
「他のお二人はどうしたんですか?」
「エルシアは公爵の屋敷を探ってる」
さらりと物騒なことを口にしたかと思えば、レヴォルは続ける。
「アルドリックは辞退した。あいつは騎士でもあるからな。今回は冒険者じゃなく、騎士としての立場を優先したらしい」
なるほど、と素直に納得する。
アルドリックさん本人とはまだ会っていないが、騎士団へ所属している以上、公爵家と真っ向から対立しかねない任務へ参加するわけにはいかなかったのだろう。立場が違えば、守るべきものも違う。
「ということは……今からダンジョンへ潜るのは、レヴォルだけなんですか?」
「何言ってんだ?」
レヴォルが不意に足を止める。俺もつられて立ち止まると、ゆっくりとこちらを振り返った。
その瞬間だった。
思わず息を呑む。
さっきまでの無気力そうな表情が嘘のように消え、口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
その笑顔は不思議なほど人を惹きつけた。
同性の俺ですら一瞬見惚れてしまうほど自然で、眩しくて、思わず「格好いい」と認めてしまうような笑み。普段の荒々しい雰囲気との落差も相まって、その破壊力は反則と言っていい。
「お前も潜るんだよ、ヤト」
その一言で、俺の思考は真っ白になった。
◇
ダンジョンの入り口前には、岩肌を切り開いて造られた広場が広がっていた。
そこには想像を遥かに超える数の騎士たちが集まり、掘り出されたばかりと思われる鉱石や古びた武具、壺や装飾品といった遺物が無造作に積み上げられている。
荷馬車へ積み込む者、鑑定らしき作業を進める者もいたが、その一方で酒瓶を片手に騒ぎ立てる者や、傷の手当を受けながら豪快に笑う者までおり、戦場というより戦勝祝いの宴に近い異様な空気が漂っていた。
「いやぁ、背後から首を刎ねた時は興奮したぜ。あいつら、最後まで俺たちを信じ切ってやがったからな」
「やっぱ冒険者なんて馬鹿しかならねぇんだよ。あの女なんか、毒入りの水を何の疑いもなく飲み干しやがった。お陰で犯しやすかったわ」
「田舎者を魔物の餌にしたら失禁しやがってよ。あの情けねぇ顔、思い出すだけで笑える」
耳を疑った。
酔い潰れた騎士たちは武勇伝でも語るような調子で、人を殺し、裏切り、弄んだ話を笑いながら口にしている。その内容が冗談ではないことは、血の付いた武器や転がる装備品が何より雄弁に物語っていた。
視線を巡らせた先、一際大きな歓声が上がる輪の中心では、二人の青年が素手で殴り合っていた。
鎧も武器も取り上げられ、顔は腫れ上がり、鼻血を流しながら、それでも互いへ拳を振るい続けている。涙で視界もまともに利いていないはずなのに、倒れることだけは許されないらしい。
「ほら、さっさと殺せ!」
「何やってんだ! このままじゃどっちも殺すぞ! 賭けてんだから死ぬ気で殴れ!」
「腰抜け同士の馴れ合いか? だったら二人まとめて魔物の餌だ!」
飛び交う罵声に、二人の肩がびくりと震える。
間違いない。あれは支部長が言っていた先遣隊の新人冒険者だ。期待と希望を胸に、このダンジョンへ送り込まれたはずの冒険者たち。その末路が、見世物として互いに殺し合いを強要されることだというのか。
その時、不意にジロウの全身の毛が静かに逆立った。
唸ることも牙を剥くこともない。ただ黄金と白銀の双眸だけが細められ、その視線は俺ではなく隣へ向けられている。
釣られるように目を向けると、レヴォルから溢れ出した殺気が、まるで実体を持った濁流のように広場全体へ広がり始めていた。酒に酔って騒いでいた騎士たちは、まだその異変に気付いていない。
いや、気付けていなかった。自分たちのすぐ背後まで、死神が音もなく歩み寄っていることに。




