第19話:分岐点
不意に、小さな声が聞こえた。
それは魔法の詠唱というより、誰かへ手向ける懺悔の言葉のように静かだった。
「刻め――《斬撃》」
次の瞬間、世界が赤く染まる。
ヒュン、と鋭い風切り音が鳴った。
酒瓶を掲げて笑っていた騎士の右腕が肩口から宙を舞う。悲鳴を上げる間もなく二つ、三つと斬撃が走り、足首を失って崩れ落ちる者、鼻や耳を抉り飛ばされる者、首筋を浅く断たれて血飛沫を噴き上げる者が次々と地面へ転がっていく。
ヒュン、ヒュン、と乾いた音が響くたび、血肉と肉片が舞い、先ほどまで酒宴のような喧騒に包まれていた広場は、一瞬で阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
「ぎゃあああぁっ!」
「腕が! 俺の腕がぁぁ!」
「た、助け――ぐあぁぁっ!」
誰も反撃できない。
いや、反撃するという発想すら消え失せていた。
前髪の隙間から覗くレヴォルの双眸には怒りすらなかった。ただ汚泥でも眺めるような、底冷えするほど冷たい視線だけが騎士たちへ注がれている。
その一歩ごとに血溜まりは広がり、腰を抜かした騎士たちは剣を握ることすらできず、震えることしか許されなかった。
「き、貴様っ! な、何をしているか分かっているのか!? 我々はグランヴェル公爵閣下麾下の騎士団であるぞ!」
「あぁ」
レヴォルは興味なさそうに答える。
「だから何?」
その一言に、騎士の顔から血の気が引いた。
「お前らが殺したように、俺も殺してるだけだろ」
足元へ落ちていた泥まみれのギルドタグを拾い上げる。レヴォルは血と泥を親指で静かに拭い、刻まれた名前を消え入りそうな声で読み上げた。
その手が、ゆっくりと握り締められる。
瞬間だった。
広場を覆う殺気が、一段と濃くなる。肌を刺す圧力に呼吸が詰まり、肺が凍り付くような錯覚を覚えた。地面へ転がった騎士たちは声を上げることすらできず、ただ震えながらレヴォルを見上げている。
……まずい。
この人、本気だ。
ここにいる全員を、一人残らず殺すつもりだ。
「ジロウ、じゃれつけ!」
俺の声と同時に、白銀の巨体が弾かれたように飛び出した。レヴォルへ一直線に飛び掛かると、そのまま押し倒す勢いで覆い被さり、巨大な前脚で両腕を押さえ込みながら頬を容赦なく舐め回す。
「おい、てめ――何を……っ! やめろ! 離れろ、この馬鹿犬!」
どれほど凄まじい冒険者でも、相手がジロウでは話が違う。腕を封じられ、顔を背けても次々と舐められ、ついには押さえ込まれたまま身動きすら取れなくなる。
広場を支配していた殺気は見る見るうちに霧散し、俺はその隙を逃さず騎士たちの前へ歩み出た。
「この件は、ギルドを通じて王国へ正式に報告させていただきます」
「――報告など、させると思うか?」
張り詰めた空気を裂くように、若い男の声が響いた。
視線を向けると、二人の騎士を従えた一人の青年がゆっくりと歩み寄ってくる。腰まで届く金髪を一つに束ね、白銀の装飾が施された鎧には一切の傷がない。
先ほどまで騒いでいた騎士たちとは纏う空気そのものが違う。一歩踏み出すたびに周囲の騎士たちが自然と道を開ける様子を見る限り、かなり高い地位にいる人物なのだろう。
「下賤な冒険者風情が。我らグランヴェル家が代々治めてきた領地へ土足で踏み込み、あまつさえ我らの財を掠め取ろうとは……盗人猛々しい」
男は鼻で笑うように口角を歪めた。その目には俺たちを人として見ている様子すらなく、道端の石ころでも眺めるような冷たさしかない。
「……あなたは?」
「貴様などに名乗る名はない。あの世で後悔するがいい。この地へ入り込んだことをな」
その言葉が終わると同時に、左右へ控えていた二人の騎士が一斉に地面を蹴った。
速い。
俺の目では踏み込んだ瞬間すら捉えられず、視界から姿が消えたようにしか見えない。だが、その勝負はあまりにも一方的だった。
次の瞬間には、片方の騎士がジロウの太い尻尾に胴を絡め取られ、万力のような力で容赦なく締め上げられていた。いつ、どう動いたのかさえ分からない。ただ一つ確かなのは、相手が剣を振るうよりも早く、ジロウの方が先に勝負を終わらせていたという事実だけだった。
「がっ……ぁ……っ!」
骨が軋む嫌な音と共に、男の口から鮮血が噴き出す。もう一人は背後へ回り込もうとした瞬間、ジロウの前足に背中から押さえ付けられ、そのまま地面へ叩き伏せられた。
鈍い衝撃音が響き、鎧越しでも分かるほど胸郭が大きく沈み込む。肋骨か、それとも肩甲骨か。何かが砕けたことだけは嫌でも伝わってきた。
「獣如きに何をやっている!」
青年が怒声を張り上げる。しかし、その頃にはジロウはすでに二人から離れ、何事もなかったかのように俺の傍らへ戻っていた。
尻尾で締め上げられていた騎士は、最後には用済みと言わんばかりに軽々と放り投げられ、地面を何度も跳ねながら土煙を巻き上げ、そのまま遥か彼方まで吹き飛んでいく。
もう一人も前足で押さえ付けられたまま無造作に蹴り上げられ、その身体はまるでサッカーボールのように宙を舞った。鎧は空中で耐えきれず砕け散り、金属片を撒き散らしながら地面へと落下していく。
誰一人、その動きを目で追えた者はいない。
気付けば目の前に現れ、気付けば敵は制圧され、気付けば視界の外まで吹き飛ばされている。速いという言葉では到底足りず、そこにあったのは純粋な生物としての格の違いだった。
レヴォルの殺気が精神を圧し折り、「勝てない」と理解させる恐怖なら、ジロウはそれよりも遥かに根源的な存在だった。
天敵を前にした獣が思考より先に逃走を選ぶように、本能そのものが「逆らえば死ぬ」と叫び続ける。
理屈でも経験でもない、生き物として刻み込まれた絶対的な恐怖。圧倒的な力を目の当たりにした騎士たちは剣を握ることすら忘れ、顔面を青ざめさせながら、後ずさることしかできなかった。
「ひっ……!」
「化け物だ!」
誰かが叫ぶ。
その一声を合図にしたように騎士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。
恐らく先ほど組み伏せられた二人も、騎士団の中では相当な実力者だったはずだ。その二人が何もできず制圧された光景は、彼らの戦意を根こそぎ奪うには十分過ぎた。
それでも、金髪の青年だけは一歩も退かなかった。静かに腰へ手を伸ばし、細身の剣をゆっくりと引き抜く。
「……舐めるなよ。冒険者風情が」
鞘から姿を現した銀色のレイピアは、抜き放たれた瞬間から白い冷気を纏っていた。刀身の周囲では空気そのものが凍り付き、零れ落ちる冷気が白い霧となって地面を這う。その幻想的な光景に、思わず息を呑む。
……魔道具か?
いや、違う。
剣そのものが生きているような、禍々しい存在感を放っている。
日本ではゲームや漫画の中でしか見たことがないような代物が、今まさに目の前にある。その異質さに、こんな状況だというのに厨二心が猛烈に刺激されてしまう自分がいた。
「……なんか、格好いいですね、あれ」
思わず指を差して呟くと、レヴォルは小さくため息をついた。
「……あれは魔剣だ。油断すると死ぬぞ」
「魔剣?」
短い忠告だった。
その声音には、先ほどまでの余裕がない。レヴォルほどの男が、武器一つにここまで警戒を示す。それだけで、あれが生半可な代物ではないことは十分に伝わってきた。
俺は反射的にフードを深く被り直し、白銀の外套で全身を覆うと、首元のスカーフを鼻先まで引き上げて口元を隠した。
氷狼との一件で、この外套が常識外れの防護性能を持つことは身をもって知っている。だが、本当に警戒すべきなのは皮膚ではない。極端に冷え切った空気を一気に吸い込めば、気道や肺胞が低温障害を起こし、呼吸困難や肺水腫を招く危険がある。
だからこそ、まず守るべきは呼吸器だ。
靴も、ズボンの上から装着した脚当ても、身に着けている装備はほぼすべてジロウの素材から作られている。どこまで通用するかは未知数だが、今できる備えはすべて済ませた。
次の瞬間、青年は魔剣を勢いよく地面へ突き立てた。
刹那、刀身から溢れ出した冷気が爆発するように四方へ奔り、大地を瞬く間に白く染め上げながら一帯の温度を根こそぎ奪っていく。
……ていうか。
また氷属性かよ。
もういいって。




