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第15話:白狼氷原

 返事をしたのは、俺ではなかった。


「……ペッ」


 ジロウが露骨に顔をしかめ、フロストさんの足元へ唾を吐き捨てる。そのまま「くだらない」とでも言いたげに舌を出すと、くるりと俺の方を向き、何事もなかったように頭を擦り付けてきた。撫でろ、と言わんばかりに尻尾まで振っている。


「はは……」


 顔を引き攣らせながら頭を撫でてやると、ジロウは気持ち良さそうに目を細めた。


「ふっ……やはり、そう簡単にはいかないか」


 フロストさんは怒るどころか、小さく笑みを浮かべる。


「テイマーと魔獣の絆というものは、想像以上に厄介らしい」


 その瞬間だった。


 空気が変わる。


 肌を刺すどころではない。肺へ吸い込むだけで凍り付きそうな冷気が一帯を包み込み、吐いた息が白く染まる。ジロウも甘えるのをやめ、ゆっくりと俺の前へ立った。唸ることも牙を剥くこともない。ただ黄金色の瞳だけが、静かにフロストさんを見据えている。


「知らないようだから教えてやろう。この外套へ魔力を流し込むと、素材に宿る力が目覚める」


 そう言って白銀の外套へ手を添えた瞬間、パキッ、と乾いた音が響いた。


 足元から氷が走る。


 草木を覆い、土を凍らせ、白い世界が瞬く間に広がっていく。


「――白銀よ、我が牙となり、侵す者すべてを凍てつかせろ」


 冷気は外套を中心に半球状の障壁となって広がり、吹き荒れる氷雪が周囲を拒絶する。魔法というより、一帯そのものを極寒へ塗り替える現象だった。


「そして、さらに魔力を注ぎ込めば――」


 外套の被毛が逆立つように揺れ、一筋一筋から溢れ出した冷気が空中で収束していく。


 やがて、それは一頭の狼となった。


 四肢を備え、尾を揺らし、白銀の毛並みまで再現された巨大な氷狼。生き物ではない。純粋な魔力だけで構築された存在だというのに、その双眸には獣そのものの威圧感が宿っていた。


「見ただろう。この外套は、どんな魔導杖や魔道具より優れた触媒となる。魔力効率、出力、制御精度、そのすべてを飛躍的に高める」


 フロストさんは氷狼へ視線を向ける。


「分かるか? お前が無自覚に傍らへ置いているその魔獣は、この外套の素材になった程度で、これほどの力を引き出してしまう存在だ。本体が持つ力は……こんなものでは済まない」


 パチン、と指が鳴る。


 次の瞬間、氷狼が一直線に駆け出した。


 巨大な顎を開き、俺たちを飲み込まんと飛び掛かってくる。


「っ!」


 反射的に外套で全身を包み込み、衝撃へ備えた。


 ――しかし。


 何も起こらない。


 凄まじい魔力の奔流を受けたはずなのに、衝撃はおろか冷気すら肌へ届かなかった。恐る恐る外套から顔を出すと、目の前の氷狼は跡形もなく消え去っている。


 俺たちだけが、何事もなかったように立っていた。


 一方、その周囲は惨状だった。


 半径数十メートルにわたる草原は完全に氷結し、草木は白く凍り付き、地面には幾重もの氷柱が突き出している。まるで真冬の氷河を切り取ってきたような光景だった。


 それでも俺とジロウの周囲だけは、見えない壁に守られていたかのように、一片の霜すら付いていなかった。


「……お前が俺と同じ外套を羽織っている限り、決着はつかないだろう」


 フロストさんは凍てついた大地へ視線を落とし、静かに続けた。


「この外套を破壊できるのは、恐らく本来の持ち主だけだ」


 俺は思わず自分の肩へ掛かった白銀の外套を見下ろえる。


 これほどの魔法を真正面から受け止めながら、傷一つ付いていない。


 それどころか、冷気さえ一切通さなかった。世界最高峰の防具だとは聞いていたが、実際に目の当たりにすると、その言葉すら軽く思えてしまう。


 そして同時に、ジロウの体毛はただ丈夫な素材ではなく、魔力を流すことでここまで異常な力を引き出すのかと、全身が震えた。


「ヤト、と言ったな」


 フロストさんの蒼い瞳が、真っ直ぐ俺を射抜く。


「肝に銘じておけ。その魔獣は、世界を容易く壊せる存在だ」


 その声には一切の誇張がなかった。


「俺など、あれにとっては虫を踏み潰す程度の相手に過ぎない。だからこそ、不用意に素材を世へ流すな。たとえ抜け落ちた体毛一本でも、その価値を理解した者の手へ渡れば、国の均衡は崩れる」


 一拍置き、低く告げる。


「悪用されれば――滅ぶのは一国では済まない。この大陸そのものが終わる」


 そう言い残すと、フロストさんの身体は吹雪のような冷気へ溶け込み始めた。風が巻き起こり、白い霧が視界を覆う。次の瞬間には、その姿は跡形もなく消えていた。


 俺はしばらく、その場から動けなかった。


 今になって分かる。


 フロストさんは最初から俺たちを倒すつもりなどなかったのだ。だからジロウも敵意を剥き出しにすることなく、ただ静かに様子を窺っていただけなのだろう。


 だが、残された光景だけは現実だった。


 見渡す限りの草原は厚い氷に覆われ、木々は白銀の彫像へ姿を変え、吹き抜ける風さえ肌を裂くほど冷たい。この季節では本来あり得ない永久凍土が、その日、一人の冒険者の魔法によって生まれてしまった。


 そして後に、この一帯は人々からこう呼ばれるようになる。


 ――《白狼氷原》と。

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