第14話:氷狼
冒険者にとって”二つ名”とは、単なる異名ではない。ギルドが公式にその実力を認めた者だけに与えられる絶対的な称号であり、一人前の証などという生易しいものではなかった。
ひとたび名が知れ渡れば、その二つ名だけで指名依頼は舞い込み、有力なパーティーや大商会、時には貴族から直接声が掛かることも珍しくない。
各国を往来する際の身分証明にも等しい信頼を得られ、その価値は一国の騎士爵を上回ることすらある。それほどまでに、二つ名とは冒険者社会において絶対的な信用と実績を意味する称号だった。
しかし、彼らが本当に求めているものは、その実利だけではない。
二つ名とは、幼い頃に酒場で耳にした英雄譚の主人公だけが授かる特別な名だった。
魔王軍の軍勢を退けた《英雄王》。
一人で城門を押し潰した《重帝》。
満月の夜に魔族の軍勢を殲滅した《銀月の魔女》。
山脈を両断したと語り継がれる《天裂剣》。
狼傑の頂点に君臨すると謳われた《冥狼》。
空を翔ける竜すら射落とした《蒼穹の覇翼》。
その名は歴史書へ刻まれ、吟遊詩人が歌い、子供たちの憧れとなる。二つ名を授かることは、自らの人生を伝説へ変え、この世界の歴史に名を刻むことと同義だった。
王都をはじめとする主要八都市のギルドには、今なお数多くの二つ名持ちが所属している。
その中でも特に異彩を放つ存在がいた。二つ名へ”狼”の文字を冠する者たち――通称《狼傑》。
その称号は、ただ強ければ与えられるものではない。狼のような鋭い洞察力、獲物を逃さぬ執念、群れを率いる統率力、そして孤高を貫く気高さ。
そのすべてを兼ね備えた者だけが、狼の名を背負うことを許される。狼傑は各地に点在し、それぞれ異なる異名を持ちながらも、冒険者たちにとっては別格中の別格として畏敬を集めていた。
「おい、あれって……」
「“氷狼”だ。本当にエストラへ来てたのか」
「噂じゃ王都でも指折りの実力者だぞ」
「近くで見るの初めて……」
「思っていたより若いな」
街を歩く一人の男へ、道行く者たちの視線が自然と集まる。
肩まで届く銀髪に、凍てつく湖面を思わせる淡い蒼の瞳。そして何より目を引くのは、その背へ無造作に羽織られた白銀の毛皮だった。誰もがその姿を見ただけで、二つ名持ちだと理解する。
男は人混みの中で立ち止まると、一人の若い女性へ穏やかに声を掛けた。
「すまない。この辺りで、俺とまったく同じ毛皮の外套を羽織った冒険者を見なかっただろうか」
「え……あ、その……」
突然話し掛けられた女性は頬を赤く染め、隣にいた友人たちも顔を見合わせながら小さく歓声を上げる。
「た、多分ですけど……配送依頼ばかり受けている変わった冒険者さんだと思います。大きな白い魔獣を連れているので、見ればすぐ分かるかと」
「そうか。ありがとう」
男は柔らかな笑みを浮かべて礼を告げると、そのまま人混みの奥へ歩き出した。
黄色い歓声はしばらく彼の背中を追い掛けていた。
だが、本人は一度も振り返らない。
白銀の毛皮を静かになびかせながら歩くその姿は、獲物の痕跡だけを追う一頭の狼そのものだった。
穏やかな笑みは既に消え失せ、氷のように冷え切った双眸だけが、街のどこかにいる”白い毛皮の冒険者”を探し続けていた。
◇
今回の配送は、今までで一番骨が折れた。
行き先は湿地帯の集落で、足を取られる沼地を何度も迂回しながら進まなければならず、その途中では巨大な蟹の魔物を見つけたジロウが目を輝かせ、涎を垂らしながら全力で追い掛け回す始末。
ようやく捕まえたそれを「せっかくだから」と俺も一緒に食べてみたものの、見事に腹を壊し、一日は宿屋のベッドと友達になる羽目になった。
結局、予定より大幅に遅れながらも十一件すべての配送を終え、心身ともに疲れ切った状態でギルドの扉を押し開ける。
その瞬間、視界の先に立つ一人の男が目に入った。
見覚えがある。
いや、見間違えるはずがない。
男の肩へ羽織られていたのは、俺が身に着けているものと寸分違わぬ白銀の毛皮の外套だった。
光を受けて淡く輝く毛並み。風に揺れる一本一本の長さまで酷似している。
ジロウの抜け毛だけを集め、時間を掛けて仕立ててもらった、世界に一つしか存在しないはずの外套。その隣には、俺とは正反対の白銀の髪を持つ青年が静かに立っていた。
「あ、ヤトさん!」
受付の奥からレイナさんが慌てた様子で駆け寄ってくる。
「こちら、“氷狼”の二つ名を持つ《フロスト・シュトーレン》様です。ヤトさんにご用がおありとのことで、先ほどからずっとお待ちになっていて……お知り合いですか?」
興奮と困惑が入り混じった声だった。ギルド内にいた冒険者たちも受付嬢たちも、何事かと一斉にこちらへ視線を向けている。しかし、男は周囲の反応など気にも留めず、何も言わないまま蒼く透き通る瞳で俺を見つめていた。
その視線が重なった瞬間、背骨へ氷柱を差し込まれたような悪寒が全身を駆け抜ける。
殺気を向けられたわけでも、威圧されたわけでもない。ただ目が合っただけ。それなのに足先から頭の先まで強張り、無意識のうちに呼吸が浅くなっていた。理由なんて分からない。それでも本能だけは、嫌というほど明確に告げている。
――この青年は、今まで会った誰よりも危険だ。
思わず半歩後ずさった俺とは対照的に、男はようやく柔らかな笑みを浮かべると、何事もなかったかのようにレイナさんへ視線を向けた。
「ありがとう、美しいお嬢さん」
「い、いえ……お気になさらず。でも、先にヤトさんの依頼受付を――」
最後まで言葉を聞くことなく、男は静かに歩き出した。
一歩。
また一歩。
足音はほとんど聞こえない。それでも距離だけは確実に縮まり、気づけば俺の目の前まで来ていた。
そして、逃げ道を塞ぐように肩へそっと手を置く。
その手は驚くほど冷たかった。
男は周囲へ聞こえないほど小さな声で、耳元へ囁く。
「……ここでは被害が出る。外へ行こう」
「被害が出る……?」
なんで?
頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。何か悪いことをした覚えはないし、二つ名持ちの冒険者に目を付けられる理由にも心当たりがない。理解が追いつかないままギルドを出ると、入口の脇で待っていたジロウが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「悪い悪い。待たせたな」
いつものように首元を撫でようとした、その時だった。
フロストさんは俺の横を静かに通り過ぎ、真っ直ぐジロウの前まで歩み寄る。
そして、その蒼い瞳でジロウを見据えた。
「……やはり、お前か。この被毛の主は」
ジロウは首を傾げるだけで警戒する様子はない。
「美しい双眸。極限まで押し殺された魔力。それほどの力を持ちながら、何故そこまで隠匿する? お前ほどの存在なら、この程度の抑制など不要なはずだ」
フロストさんは一歩だけ距離を詰める。
「……いや、違うな」
視線だけを俺へ向け、小さく息を吐いた。
「原因は、お前の主か」
何を言っているのか、まるで分からない。
ジロウは「遊んでくれるのか?」と言わんばかりに尻尾を振っているし、俺だけが会話から取り残されていた。
「ついてこい」
それだけ言い残し、フロストさんは街道の方へ歩き始める。
訳も分からないまま後を追うと、彼はエストラの城壁を抜け、人影のない草原まで来たところで足を止めた。
「この外套は、《リバテール》という工房から連絡を受け、俺のためだけに仕立ててもらったものだ。あそことは昔から付き合いがあってな。『ぜひ見てほしい素材がある』と、あれほど興奮した職人の声を聞いたのは初めてだった」
リバテール。
ジロウの毛を持ち込み、防具を仕立ててもらったあの工房だ。
フロストさんは肩へ掛けた白銀の外套を軽く撫でる。
「知っていると思うが、この外套は世界最高峰の防具と言って差し支えない。初めて羽織った瞬間、戦いの常識が変わった。高難易度の討伐依頼へ赴いても傷一つ付かず、爪も牙も刃も、この外套を貫けない。まだ身に着けて数日だが、もはや手放すことなど考えられん」
「……はい。存じ上げています」
実際、その性能は身をもって知っている。
フロストさんは静かに頷くと、俺ではなくジロウへ視線を戻した。
「そして、その素材となった被毛は、お前の魔獣から採れたものだ」
風が吹き、白銀の毛並みが揺れる。
「つまり、この魔獣は世界の理を根底から覆しかねない存在ということだ。これほどの被毛を持つ魔獣など、私は見たことがない」
蒼い双眸が細められる。
その視線は、獲物を見定める狼そのものだった。
「率直に言おう」
その一言だけで空気が張り詰める。
フロストさんは俺を一瞥したあと、ジロウだけを真っ直ぐ見据え、静かに告げた。
「その男では、お前の力を受け止めきれない」
フロストさんは静かに右手を差し出す。
「お前ほどの強さを持つ魔獣には、お前に相応しい主が必要だ」
蒼い瞳が真っ直ぐジロウを見据える。
「俺と共に来い」




