第13話:初めての治療
この世界では『奴隷』が合法的に認められている国や街、自治領が存在する。
ただし、所有を許されているのは――獣人だけだった。
人間やエルフ、ドワーフといった歩行種を奴隷とすることは重罪にあたり、売買も所有も厳しく禁じられている。一方で、獣に近い種族と見なされる獣人だけは例外とされ、労働力や商品として取引されることが法で認められていた。
頭では知っていた。
ギルドで説明も受けていた。
それでも、実際に目の前で命の優先順位として突き付けられると、まるで別の話だった。
フィリアさんも、騎士団の医官たちも間違ってはいない。
彼らにとって優先すべきは人間の命であり、獣人はその後だ。
この世界では、それが疑う余地のない常識なのだ。
「邪魔をしないでくださる?」
冷たい一言に、返す言葉を失う。
横を見ると、レオンハルトさんもセリナさんも何も言わなかった。
止めもしない。
庇いもしない。
俺の言動そのものが、この世界では理解できないものなのだろう。
俺は静かに獣人の女性の前へ膝をついた。
近付いた瞬間、彼女の耳が寝て、瞳孔が細い縦長から大きく開く。猫科動物は威嚇や極度の恐怖を感じると、周囲の情報を少しでも多く取り込もうとして瞳孔を拡大させることがある。呼吸は浅く速く、肩や頸部の筋肉まで緊張し切っていた。
当たり前だ。
どんな扱いを受けてきたのか、俺には想像すらできない。
「突然すみません。私はヤト、冒険者です。いきなりこんなことを言われても怖いと思いますが、あなたを傷付けるつもりはなく、ただ、その傷はこのまま放っておけば本当に命に関わります。どうか私を信じて、治療させてもらえませんか?」
俺はその場へ両膝をつき、深く頭を下げた。
周囲の空気が変わる。
騎士たちが怪訝そうに眉をひそめ、医官は呆れたように息を吐く。『金獅子の盾』の面々も黙ったまま俺を見つめていた。
「ふぅっ……ふぅっ……」
女性は荒い呼吸を繰り返しながら俺を見つめていた。脇腹を押さえていた指先は血と膿で汚れ、小刻みに震え続けている。
「……痛い」
掠れた声だった。その一言を漏らすと、脇腹を庇っていた手からゆっくりと力が抜ける。警戒を解いたというより、もう抵抗するだけの体力が残っていなかった。
俺は周囲で治癒魔法を受けている負傷者たちへ目を向けた。
傷口はどれも綺麗に閉じ、出血も止まっている。だが、そこで違和感を覚えた。化膿した創も、泥が入り込んだ裂創も、異物を取り除かないまま無理やり塞いでしまっているように見える。
このままでは細菌や壊死組織まで体内へ閉じ込めることになり、感染を悪化させかねない。
「お湯を貸してください」
騎士から鍋を受け取ると、俺はジロウの駄鞍へ括り付けた救急袋を開いた。
包帯、ピンセット、丈夫な糸。そして奥から小さな革袋を取り出す。中へ入っているのは灰紫色に乾燥した葉――薬草図鑑で薬効を覚え、道中で見掛けた際に念のため採取しておいた《ソムニフェラ》だ。
図鑑によれば、強い鎮静作用を持ち、煎じて服用すると意識を混濁させ、痛覚を鈍らせるという。
もちろん現代医療で使われる麻酔薬とは別物だ。麻酔は神経伝達や脳が痛みを認識する仕組みそのものへ作用し、安全に処置を行える状態を作る。
一方、この薬草は痛みを消すのではなく、不安と苦痛を和らげる程度の効力しかない。それでも、生身のまま傷口を切開するよりは遥かにましだった。
「少し苦いですが、飲んでください。完全には痛みを消せませんが、少しは楽になるはずです」
女性は弱々しく頷き、震える唇で薬湯を少しずつ飲み込んでいく。数分もすると荒かった呼吸は幾分落ち着き、全身へ入っていた力も僅かに抜け始めたのを確認して、俺は静かに息を吐いた。
「少しだけ我慢してください」
まず傷口を軽く圧迫する。黄白色の膿がじわりと滲み、やがて粘度の高い悪臭を放つ排膿が溢れ出した。
まだ残っている。周囲を慎重に圧迫すると、奥へ溜まっていた膿が次々と押し出され、そのたび女性の身体が小さく震え、苦しそうな吐息が漏れた。
続いて漆黒のナイフで血流を失った壊死組織だけを最小限切除する。温水を何度も掛けながら、ピンセットで砂や木片、布の繊維を一つひとつ丁寧に取り除いていく。
洗浄した湯は瞬く間に赤黒く濁り、新しい湯へ何度も替えながら処置を続けた。
「っ……あぁぁっ!」
悲鳴が洞窟へ響く。
薬草で痛みは鈍っている。それでも、生きた組織へ触れられて痛くないはずがない。
それでも女性が暴れなかったのは、ジロウが肩へそっと前足を添え、押さえ付けるのではなく「大丈夫だ」と伝えるように静かに寄り添っていたからだった。
ようやく洗浄を終えた頃には、傷口から膿はほとんど出なくなっていた。
「……傷を閉じないのですか?」
フィリアさんが背後から怪訝そうに尋ねてくる。
「感染した傷をすぐ縫合すると、菌や膿を体内へ閉じ込めることになります。内部で感染が進めば組織はさらに壊死し、最悪の場合は血液へ細菌が入り込み全身へ広がる。まず感染を抑えることが最優先です。傷を閉じるのは、その後になります」
俺は清潔な布で余分な水分だけを拭き取り、包帯を軽く巻いた。これで膿と壊死した組織はある程度取り除けた。だが、治療が終わったわけではない。感染の再発を防ぐためにも、最後に傷口そのものを塞ぐ必要がある。
ここから先は、俺の知識や手持ちの道具だけではどうにもならない。この世界にしかない力を借りるしかなかった。
「誰か……誰でもいい。この方へ治癒魔法をお願いします」
洞窟が静まり返る。
誰も動かない。
医療の知識だけでは感染源を取り除くところまでしかできない。ここから先は組織の再生が必要だ。傷口を開放したままでは肉芽組織の形成には時間が掛かり、その間に再び感染する危険性も高い。
だからこそ、この世界にしかない力が必要だった。
「……私が、やります」
沈黙を破ったのはリリアさんだった。
彼女は俺の隣へ静かに膝をつくと、女性の傷口へ両手を重ねる。淡い光が患部を優しく包み込み、露出していた筋肉や皮膚はゆっくりと再生を始めた。
包帯へ滲んでいた血は止まり、荒く乱れていた呼吸も少しずつ落ち着いていく。やがて苦痛に歪んでいた表情から力が抜けると、それまで治療の様子を眺めていた者たちは、瀕死の獣人女性が助かったと分かった途端、興味を失って次々と視線を外していった。
対照的に、同族たちは一斉に女性のもとへ駆け寄った。
涙を流しながらその手を握る者、何度も名前を呼ぶ者、堪えきれず嗚咽を漏らす者。周囲の人間たちが既に関心すら示さない中、洞窟には彼女の無事を喜ぶすすり泣きだけが静かに広がり、ようやく「助かった」という実感が仲間たちの間に行き渡っていった。
「……一つ、聞いてもいいかな」
振り返ると、レオンハルトさんが真っ直ぐ俺を見つめていた。
「何故、彼女を救ったんだい?」
「瀕死だったからです」
それ以上でも、それ以下でもない。
「他にも負傷者はいた。それなのに、何故わざわざ獣人である彼女を最優先した?」
俺は言葉に詰まる。
答えがないわけじゃない。
ただ、この人たちへ伝わる答えを持っていなかった。
俺にとって人間も獣人も変わらない。目の前に患者がいて、その中で最も命の危険が高い者から救う。それは獣医として働いていた頃から身体へ染み付いた、ごく当たり前の判断基準だった。
けれど、その「当たり前」は、この世界では当たり前ではないらしい。
「……話しても、多分、分かり合えないと思います」
そう答えて軽く頭を下げる。
「本日は救助にご尽力いただき、本当にありがとうございました」
レオンハルトさんは何か言い掛けたまま口を閉じた。フィリアさんは最後まで俺へ視線を向けることはなく、リリアさんだけが複雑そうな表情で獣人の女性と俺を見比べている。
多分、この人たちと一緒に依頼を受けることはもうない。
考え方が違うとか、善悪が違うとか、そんな大げさな話じゃない。
命へ優先順位を付ける基準が、根本から違っていただけだった。




