第9話:換毛期と交渉
ある朝、目を覚ますと部屋の様子がおかしかった。
「……なにこれ」
床が見えない。正確には見えているのだが、一面を白銀色の何かが覆い尽くしている。
寝ぼけ眼のまま一つ摘まみ上げてみると、それは長く柔らかく、それでいて艶のある白銀の毛だった。視線を巡らせれば床だけではない。椅子も机もベッドも、俺の掛け布団まで同じ毛に覆われ、まるで部屋の中だけ雪でも降ったかのような光景になっている。
「ジロウ、お前……まさか」
「ワフ」
そういえば、日本にいた頃のジロウには換毛期らしい換毛期が一度もなかった。春になっても秋になっても抜け毛はほとんどなく、大型犬を飼っている知人から羨ましがられるほどだったのだが、どうやら異世界へ来て何かが変わったらしい。
「いやいや……これ掃除するだけで半日終わるぞ」
頭を抱えていると、ジロウは落ちていた自分の毛を鼻先と前足で器用にかき集め始めた。あっという間に小さな山を作ると、今度は俺が普段使っているフード付きのマントを鼻先で突き、それから白銀の毛へ視線を移す。
「……これを使えってことか?」
「ワフ」
どうやらそのつもりらしい。
ナイフの件といい、自分の身体から落ちた物を捨てるくらいなら有効活用しろとでも考えているのだろうか。
試しに一本摘まみ上げて両手で強く引っ張ってみたが、驚くほど頑丈で切れる気配がない。腰に佩いた黒い牙の刃を軽く当てても結果は同じで、毛は刃先を滑らせるだけだった。
「嘘だろ……毛だぞ?」
柔らかいのに切れず、軽いのに異常な強度を持っている。一本一本にも十分な太さがあり、この量を高密度で織り上げれば防具として使えるかもしれない。
それに最近は朝晩の冷え込みも厳しくなっている。防寒具として仕立ててもらうだけでも十分に価値はありそうだ。
「……行くか」
俺は集められるだけの毛を大きな袋へ詰め込み、ジロウと共に宿を出た。
向かった先は、エストラでも評判の仕立て屋『リバテール』。
鎧の下に着る防具から冒険者用の外套、旅装束まで扱う縫製専門の工房である。
「ようこそ、『リバテール』へ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
深々と頭を下げたのは、執事を思わせる身なりの壮年の男性だった。
「すみません。持ち込みの素材でも加工はお願いできますか?」
「もちろんでございます。まずは素材を拝見してもよろしいでしょうか」
「これなんですが……」
肩から袋を下ろしてカウンターへ載せる。男性は何気なく持ち上げようとして、その予想外の重量に僅かに眉を動かした。近くにいた職人と二人掛かりで作業台へ運び、袋の口を開いた瞬間、工房の空気が変わった。
「……これは」
壮年の男性が白銀の毛を一本摘まみ上げ、光へ透かす。
すぐに何人かの職人も集まってきたが、先ほどまで聞こえていた作業音はいつの間にか止まっていた。引っ張っても切れず、裁ち鋏を使っても刃が滑る。それどころか魔力を流した職人が目を見開き、別の者が繊維の状態を確かめるように何度も指先で撫でている。
大声で騒がずとも、その反応だけで普通の素材ではないことは十分に伝わってきた。
「お客様。この素材を……いったいどちらで?」
「……機密事項です」
一応、ジロウ本人から採れました、とは言えない。壮年の男性はそれ以上踏み込むことなく一礼し、改めて素材へ視線を戻した。
「承知いたしました。素材の出所を詮索するのは職人の仕事ではございません。ご希望の品をお聞かせいただけますか?」
「フード付きの外套と、口元を覆える長めのスカーフをお願いします。それと、余った分で何か役立つ物を作っていただけると助かります」
「かしこまりました。ただし、この素材ですと加工方法そのものを一から検討する必要がございますので、相応の費用を頂戴することになるかと」
「ですよねぇ……」
青銅級へ昇級して受けられる依頼の幅は広がったとはいえ、財布に余裕があるわけではない。
宿代も食費も必要だし、配送に使う道具も少しずつ揃えていかなければならない。
ここで全財産を使い切るわけにはいかず、どうしたものかと考えていると、男性は袋に残された大量の毛を見ながら一つの提案をしてきた。
「ご希望の品を製作しても、相当量の素材が余ると思われます。その余剰分を当店へお譲りいただけるのであれば、加工代と相殺させていただくことは可能でございます」
「余った分を、ですか」
「もちろん使用量はすべて記録し、残量もお客様にご確認いただきます。その上で余剰分のみを買い取らせていただく形でいかがでしょう」
なるほど。こちらとしては朝起きたら部屋中へ散らばっていた抜け毛だが、職人たちの反応を見る限り、俺が考えている以上の価値があるらしい。
……いや、待てよ。
ここまで目の色を変えるということは、本当に加工代との相殺だけで済ませていい素材なのだろうか。相場を知らない以上、向こうの提示した条件をそのまま受け入れるのも少し怖い。
それに、どうせなら今後の配送に必要な装備までまとめて揃えてしまいたい。
「そうですね……」
少し考える素振りを見せながら、白銀の毛が詰まった袋へ視線を落とす。
「この素材、手に入れるのに結構苦労した物なので……一度、他のお店でも見積もりをお願いしてから決めても構いませんか?」
「それはもちろんでございます。ただ――」
男性は一瞬だけ言葉を止めた。視線が白銀の毛へ落ち、ほんの僅かに表情が強張る。
「当店以上に、この素材の価値を理解し、最高の品へ仕立てられる工房はないと自負しております」
穏やかな口調ではあったが、そこだけは一歩も譲るつもりがないらしい。
「でもなぁ……」
わざと迷うように呟いてみる。
自分でも少々意地が悪いとは思うが、こちらはこの世界の素材相場など何も知らない。だったら、向こうがどこまで条件を出してくるのか探っておいて損はないだろう。
周囲の職人たちまで作業の手を止め、こちらのやり取りを気にしているあたり、少なくとも簡単に手放したくない素材なのは間違いなさそうだ。
やがて男性は俺の意図を察したのか、小さく息を吐いた。
「……何か、ご希望がおありなのでしょうか」
先ほどまでの職人としての顔ではない。完全に商談相手を見る目だった。
「でしたら、お願いがあります。余剰分の買い取り額から、追加の装備も作っていただけませんか?」
「と申しますと?」
「まず、魔獣用の駄鞍と手綱。それから配送用の鞍袋です。長距離を走っても荷崩れしにくくて、箱や樽みたいに形の違う荷物も固定できる物が欲しいです」
男性はすぐには返事をせず、素材の量と俺の要望を頭の中で照らし合わせるように白銀の毛を見つめる。少し吹っかけすぎたかとも思ったが、やがて返ってきたのは予想外の言葉だった。
「……承知いたしました。その程度でしたら、問題ございません」
その程度。
どうやら吹っかけたつもりだったのは俺だけらしい。
「お気付きかとは思いますが、それでも余剰分の価値には届かないでしょう。差額につきましては、完成後に改めて精算させていただきます」
「……分かりました。では、それでお願いします」
危なかった。何も知らずに加工代だけで相殺していたら、後から相場を知って頭を抱えていたかもしれない。
そこからは実際に使う場面を想定しながら細かな打ち合わせへ移った。
鞍袋は左右で取り外せる構造にし、荷物の量に応じて容量を変更できるようにする。瓶や薬品を運ぶ可能性も考えて内部には衝撃を和らげる仕切りを設け、雨天でも使えるよう防水処理もお願いした。
さらに俺自身が長時間ジロウへ跨ることを考え、腰へ固定できる小型の特注鞄や、内腿の擦れを防ぐための革製の股当ても追加で作ってもらうことになった。
最後に俺とジロウの採寸を済ませ、細かな仕様と完成予定日を確認する。思い付きで持ち込んだ大量の抜け毛が、外套だけでなく今後の配送に必要な装備一式へ化けるとは思ってもいなかったが、これだけ揃えば長距離の仕事も随分と楽になるはずだ。あとは職人たちへ任せるだけだろう。
「それでは、よろしくお願いします」
「はい。必ずご期待に沿う品へ仕立ててみせます」
深々と頭を下げる男性へこちらも一礼し、俺はジロウと共に『リバテール』を後にした。
完成する装備が今後の配送をどこまで変えてくれるのか、そんなことを考えながら、いつものようにエストラの街へ戻っていった。




