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愚者の夜明け③

 妹が居れば、それで良かった。

 どんなに腐った人生でも、それで。


 七瀬(ななせ)の人生の中で、最大の間違いは生まれ落ちた先だろう。

 酒浸りの父親と、碌に帰ってこない母親。

 家は常に荒(すさ)んでいて、テレビの大音量か、父親のいびき。そして父と母の罵声しか聞こえなかった。


 そんな人生にも転機はあった。

 妹が生まれたことだ。


 二つ歳下の妹。

 父母に代わって物心ついた時には七瀬が面倒を見てきた。


 あの劣悪な環境にあって、それでも笑顔を忘れない子だった。

 いくら殴られたって、蹴られたって。妹が笑ってくれるならそれで良かった。

 泣きながら手当てをしてくれる手が暖かかった。


 それだけで幸せだった。


 小学校に上がってすぐ、父親が死んだ。

 急性アルコール中毒で、吐いたものを喉に詰まらせたのだ。


 母親はあっさり七瀬たちを捨てた。

 身寄りのない施設の、冷たい檻の中が七瀬たちの棲家(すみか)になった。


 でもそこでは案外上手くやっていた。

 七瀬は自分より劣るであろう相手を虐(しいた)げる事で地位を保てることを知っていたから。

 その間は妹も無事でいられた。


 中学になった。

 少し後に入ってきた新人は、変なものが見えると噂のやつ。

 次のターゲットはこいつだ。


 何もしなくていい。

 ただ、無視するだけで七瀬は人の上に立つ気分を味わえたし、そいつも食ってかかってくる事はなかった。

 そしてほんの数年でそいつは出て行った。


 それからも毎日は変わらなかった。

 

 妹は相変わらず気立てが良くて、穏やかで。

 いつか、幸せになるんだって。


 だけどあの日、全部変わった。


 最近七瀬が虐げた歳上の奴ら。

 そいつらから届いた映像に、七瀬の目の前は真っ黒になった。

 

 最悪だった。

 乱れた衣服も、妹の泣き叫ぶ声も、男たちの笑い声も。


 全部七瀬のせいだ。

 妹のように誰かを救うのではなく、傷つけてきた自分の。


 後悔して、それでも走って、がむしゃらに駆けつけた七瀬の前にあったのは血溜まりだった。

 血溜まりだけだ。

 佳代(かよ)を加害した奴らはいなかった。


 そう、最初からいなかったんだ。


 例えそれが妹が食べたのだとしても、いなかったのだから、だから妹は誰も殺していない。


 だから。


「……佳代……。」


 冷たいコンクリートの床と、そこに広がる鉄の匂い。震える足で一歩踏み出せば、ぴちゃと湿った音がした。

 血溜まりの中で蹲(うずくま)っている影をそっと抱き締める。


 小さな可愛い妹。

 たった一人、この世で一人だけの。


「大丈夫……大丈夫だよ。」


 何が起きても大丈夫。

 必ず、守ってあげるから。



◇◇◇


 佳代は兎になった。

 好きだと言っていた動物に。


 可愛い妹。

 だけど日に日に弱っていく。


 ある日、佳代の毛が少しだけ塵(ちり)になった。


 それで気がついた。

 こんな生活、長くは続かないって。


 その日から佳代が生き残れる方法を探した。

 探して探して探して、それでも見つからなくて。


 絶望しかなかった時、あの人に会ったのだ。

 ヒミズと名乗る、美しい男に。


「助ける方法はありますよ。……貴方が、協力してくれるのなら。」


「な、なんでもやります!なんでも!だからーー!」


 血のように赤い瞳を細めて、男はうっそりと笑った。


 ヒミズの要求は、小鳥遊(たかなし)残夏(ざんか)に助けを求める事。

 そしてもし助けてもらえないのなら、小鳥遊残夏を妹に捧げればいい、と。


 たったそれだけ。

 それだけで佳代は助かる。


 ーーなのに……。


 どうしてこんな事になっているのだろう。



◇◇◇


 目の前で繰り広げられる漫画の中の世界のような戦いに、七瀬は小さく息を呑んだ。


 佳代だった兎は、今や兎なんて可愛らしいものではなくなっている。

 縫い付けられていた目はこぼれ落ちそうなほどに見開かれ、口が閉じれないほどの大きな牙を宿し、身体は関節が複数あるのかぐちゃぐちゃに折れ曲がっていた。


 そんな佳代は涎(よだれ)を垂らしながら鋭い爪を宿した手で、三人に襲いかかっている。

 それに顔を歪めながら立ち向かう彼らは、まるで正義の味方だ。


 ーー佳代が悪者みたいだ……。


 優しい子なのに。


「……七瀬!!」


「……たか、なし……。」


 名前を呼ばれて、のろのろと首を向ける。

 目の前にいる残夏は、さっきからずっと七瀬の手を握り締めたままだ。


 目と目が合った。

 それにほっと残夏は息を吐き出す。


 その息で七瀬の周りに広がっていた黒い靄(かすみ)が少しだけ薄れた気がした。


「聞いて。このままだと君も化物になってしまう。だから、落ち着いて。」


「……落ち着く……?」


 馬鹿みたいに真っ直ぐな言葉に笑いが漏れる。


 この二週間、共に過ごして分かった。

 残夏は底なしのお人好しだ。


 七瀬が苦手だったろうに毎日のように顔をだして、七瀬の気を紛らわせる為にいろんな話をしてくれた。


 穏やかで優しいやつだった。

 佳代と同じように。


「……なあ、小鳥遊。」


「どうしたの?」


「佳代は……佳代はもう、助からないの?」


 もし、残夏が佳代を救う方法を見つけられなければ佳代に食べさせろと貰った何か。

 本当は全部分かっていた。

 だってヒミズは、七瀬が誰かを虐げた時と同じ顔をしていたから。


 心底楽しい、という顔を。


 残夏は七瀬よりも辛そうに顔を歪めながら、それでもしっかりと頷いた。


「……ハグレモノって言うんだ。人が、強い負の感情に呑まれた時に生まれる異形。……討伐する事でしか救えない。」


「そうなんだ……。」


 そうなんだ。

 もう、佳代は助からないんだ。


 喉の奥から笑いが込み上がる。


 ずっと、最悪の人生だった。

 守りたかったものはひとつだけ。


 それすら、自分の手からこぼれ落ちる。


 だったら。


 ーー俺も、一緒に……。


 自分を包み込んでいく闇。それに手を伸ばす。


 冷たくて愛しい。

 幸せな気分だった。



◇◇◇


 目の前で七瀬の身体が黒い靄に包まれていく。

 残夏はその靄を懸命に手で払っていた。


 このままでは七瀬は堕ちる。

 どれだけ言葉を尽くしても、名前を呼んでも、七瀬の闇は晴らせない。


 残夏では晴らせないのだ。


 ーーまた、人が堕ちる。


 残夏の目の前で、坂西(さかにし)のように。


 それは嫌だ。

 嫌だ。

 嫌なんだ!


 ーー隊長……!


 あの人は、どうやってこの闇を抜け出したんだろう。

 いや、きっとあの人はまだ抜け出せていないんだ。 

 だから戦う。

 堕ちる事が出来ないから、立ち上がって戦う。

 人である為に。


 だったら、残夏は。


 一度だけ息を吐き出した。

 そして集中しながら自身の炎を展開する。


 ほんの少しでもいい。

 闇をほんの少しだけ、退(しりぞ)けられれば。


 その間に、七瀬を。


 残夏の炎が七瀬を守るように照らす。

 そのおかげか、黒い靄が少しだけ晴れて七瀬の顔が見えた。幸福そうな顔だ。


 瞬間的に眩暈(めまい)がするほどの怒りが残夏の中を駆け抜ける。


 なんだその顔。

 これだけ残夏たちに苦労をかけて、伸ばしている手すら見ずにただ夢に溺れていくなんて。


「……ふざけるな。」


 気がつけば声が漏れていた。

 それでも七瀬は反応しない。


 それに苛立って、残夏は七瀬の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

 どこか遠くを見ていた瞳が残夏を写す。


「……たかなし……?」


「ふざけるな!!!お前が言ったんだ!!助けたいって!!!だったらちゃんと見ろ!!お前の妹はあそこでずっと苦しんでいるだろう!!!」


 勝手に不幸に浸(ひた)って、自分の妹すら放って堕ちるなんて許さない。


 一人で幸せに揺蕩(たゆた)うなんて許さない。


 ずっとずっと苦しんでいる人がいるんだ。

 七瀬と同じくらい苦しんでいる人が。


 それなのに七瀬だけ堕ちて逃げるなんておかしい。


「ハグレモノはな、時間が止まるんだ!!あの子はずっと苦しいままだ!!!お前はそれでいいのか!?一人だけ幸せに救われていいのか!!?あんな風にしたのに逃げるな!!!」


「あ……俺、は……でも。でも、……一緒に……、一緒に、いれば……。」


「守れないだろ!!!あんな、あんな姿にして……!!!自己満で勝手なことするな!!!それで討伐するのはオレ達なんだぞ!!」


 ハグレモノに堕ちてどうする。

 時間を止めて、そこで繰り返すだけ。


 残夏は知らない。

 七瀬がどんな人生を歩んできたのか。

 彼の妹がどんな思いでハグレモノに堕ちたのか。


 だけど分かることがある。

 七瀬のそれは逃げだ。自分の感情に任せて、なんの責任も取らずに堕ちていく。


 生きろなんて言わない。

 死ぬのが間違いだなんて思わない。


 でも、それだけは許せない。

 自分で自分の時間を止めて揺蕩うことだけは。


「そんなに死にたいなら人として死ね!!」


 残夏の言葉に、七瀬が止まった。


 残夏を見つめる瞳に、少しずつ涙の膜が張っていく。それが溜まって、ぽたりと一滴滑り落ちた。


「……佳代は、苦しんでるのか?」


「苦しんでるように……オレには見えるよ。」


 七瀬の話の佳代は優しくて穏やかな子だった。

 苦境(くきょう)にあっても笑えるような。


 でも、今のハグレモノはそんな顔はしていない。

 苦しそうに声を上げて、ぼろぼろになって。


 あの子を救えるなんて残夏も思っていない。


 だけど、その苦しみを終わらせる事はできる。


「……俺は……?どうしたらいい……?佳代が、いない世界なんて……。」


「それは……分からない。」


 分からない。

 これから先、七瀬が感じることも、生きる意味も。


 残夏にだって分からないのだ。

 身の内の化物とこれからどうなっていくのかも。


 だけど。


「それを探すことが、生きることなんだって思う。」


 時間を進めて、取り敢えずご飯を食べて、眠って。

 そうやって進んでいくしかないのだ。


 どれだけ意味がなかったとしても、自分が納得できるように。


 七瀬の瞳から溢れた雫がいくつも落ちていく。

 靄が晴れて、七瀬は残夏の後ろに目を向けた。つられるように残夏も振り返る。


 そこには、討伐された佳代の頭が落ちていた。

 それがさらさらと塵に還っていく。


 七瀬はふらふらと立ち上がると、その頭を抱き締めた。

 嗚咽(おえつ)だけがあたりに響く。

 いつの間にか街灯が灯るほどに日が落ちていた。


 佳代の頭はすぐに崩れて、跡形もなく消えた。



◇◇◇


「……もういいだろ。そろそろ銃、下ろせ。」


 ビルの屋上。

 暗がりの中、ピクリとも動かない隣の幼馴染に彰良(あきら)は声を掛けた。


 その銃身が向いた先にいる子供たちはこちらの様子に気がつくことなく、言葉を交わし合っている。

 それに少しだけ安堵を覚えたのは、弟子への愛着か、それとも玲(れい)が手を下さずに済んだことへのものか。


 どちらにしろ、もういい。

 ハグレモノは討伐されて、人が一人救われた。


 彰良は未だに銃を下ろさない玲の手に、自分の手を重ねる。そのままゆっくりと下げれば、抵抗もないままに玲の腕は下りた。

 それでも手放さないグリップからも丁寧に指を解く。


 玲はただ、されるがままだった。


 結論から言おう。

 残夏たちの隠し事は、全て組織にバレていた。


 子供程度が隠し通せるわけがない。

 しかも残夏と凪(なぎ)には玲特製の監視装置が手渡されている。『切り裂きくん』という名のマスコットが。


 あの子たちはまだ知らなかっただろう。

 ハグレモノを匿(かくま)い、被害が出た場合、組織に関わるものは問答無用で処罰されることを。


 そうなっていれば残夏と凪は処分。

 雄星(ゆうせい)と司(つかさ)は破門だ。


 それだけでも胃が痛いというのに、今回の件は最悪だった。

 玲の過去を刺激する事例。そして裏で手を引くヒミズ。役満だ。


 玲の銃を取り上げて、彰良は適当に放り投げる。

 そうすれば、先程まで石像のように微動だにしなかった玲の手が微かに震え出した。


 今回、上層部からの指示は残夏たちを野放しにする事。

 もし問題を起こせばその場で処分。


 組織への裏切りの意思が無いことを見るため、だなんて尤もらしい理由だ。

 その討伐に玲を向かわせるのだから、玲への監視と圧力は相当だろう。


 上層部は、玲が怖いのだ。

 こいつ一人で組織を壊滅させることも可能だから。


 だから、忠誠を図る。

 こんな、最悪な方法で。


 彰良は玲の手を取って、自分の両手で包み込む。

 指先まで冷えた血を温めるように。


 そうすれば、玲がぽつりと呟いた。


「……ハグレモノなんて、早く全部消えちゃえばいいのに……。」


 笑顔が戻る。

 いつもと同じ、貼り付けた笑顔。


「そうしたらゆっくり眠れそうなのに……ね。」


「……そうだな。」


 ふふ、と軽く笑って玲は目を瞑る。

 手は未だに彰良が包んでいるのに任せたままだ。


「地獄だったら、ここより静かかな。」


「さあな。」


「ハグレモノがいないんだから、よく眠れるよね。」


「……。」


 強い風が下から吹く。

 冷たい風だ。芯から凍りつかせるような。


 彰良は息を吐き出すと、玲の手を包む両手に力を入れた。


「その時は着いていってやる。」


「うん。」


 そっと笑みが落ちる。

 手の震えは止まっていた。



◇◇◇


 朝の光に照らされて、淡い青空が広がる。

 残夏はその下で、思いっきり伸びをした。


 冷えた空気が寝不足の頭をクリアにする。

 どこか清々しい気持ちで残夏は息を吐き出した。


 昨日の七瀬事件は、誰にも知られぬままに幕を閉じた。

 雄星が結界を張っておいてくれたおかげで、知覚されることもハグレモノが逃げ出すこともなかった。


 そして七瀬は、あの後どうしようもないくらいに泣き崩れて動けなくなったから、寮に連れて帰った。

 もちろん、玲にはすぐに連絡して許可をもらっている。最近仲の良い知人が、どうにも取り乱した様子だから連れて帰って良いかと。


 流石にホテルなんかには外泊は出来ないので、そこが妥協点といったところだ。

 玲は二つ返事で許可をくれた。


 ぽつりぽつりと七瀬の話を聞いた。

 今までのこと、妹のこと、これからの事。


 残夏も話せる範囲で自分の事を話した。

 ここに来る前の人と、こんな風に話せるなんて思ってもみなかった。


 それは思ったよりもずっと温かい時間だった。


「じゃあ、そろそろオレは授業だから。」


「……ああ。ありがとう、小鳥遊。」


 組織の門の前で、七瀬に別れの挨拶をする。

 これから先、残夏と七瀬の道は交わる事はないだろう。


 それでも、こうして巡り合った事にはきっと意味があるはずだ。


 七瀬は少しだけ逡巡(しゅんじゅん)した後、そっと手を差し出してきた。

 驚いていれば、小さく微笑まれる。


 残夏はなんとも言えない面映(おもは)ゆさで、その手に自身の手を重ねた。


「これから先、きっと色々あると思う。……だけど、佳代のことも小鳥遊のことも忘れないよ。」


「……うん、オレも。」


 一度だけ目を合わせて、七瀬が踵(きびす)を返す。

 きっと、この先も沢山の理不尽が彼を襲うはずだ。


 それでも、どうか。


 残夏は祈るように手を握りしめると、14番隊の執務室へと足を向けた。

 早く行かなければ、朝の挨拶に遅れてしまう。


 新鮮な空気を掻き分けて、残夏は14番隊の執務室のドアを開けた。

 途端に広がる、穏やかな紅茶の香り。


 隊長机に座って資料を読んでいた玲が顔を上げる。


「おはよう、残夏。」


「おはようございます、隊長!」


 穏やかな朝の光が、窓から差し込んだ。


ここまで読んでいただきありがとうございました。

「愚者の夜明け」はいかがだったでしょうか。


残夏の夜が明ける話だったかな、と思います。

玲の夜も早く明けて欲しいですね。


次回は政治的なお話です。よかったら読んでもらえると嬉しいです!


次回更新は10/10土曜日です。

(19:30目安ですが、前後する時はXでお知らせします)


よろしければ感想や評価、リアクションなど頂けると励みになります。

よろしくお願いします。


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