愚者の夜明け②
「小鳥遊!今日も来てくれたんだな!」
「うん。……七瀬くん。」
笑顔で出迎えてくる七瀬に愛想笑いを返しながら、残夏は足下から這い寄るような寒気に冷や汗を流していた。
七瀬から相談を受けて今日で一週間。
進展はない。
どころか日毎に強くなってくる瘴気に、最早このまま放置する事も出来なくなっていた。
ーー瘴気は人の精神を蝕む……。
七瀬の瞳に宿る狂気じみた光が暗い翳を落としている。
それなのに、兎のハグレモノに触れる手つきはどこまでも優しいのだ。
普通、もっと取り乱したり恐れを感じるものじゃないのだろうか。
「佳代。小鳥遊が来てくれたぞ!……もうすぐだ。もうすぐ、治るからな。治ったら兄ちゃんがなんでも好きなもの買ってやるよ。あ、もちろん、小鳥遊にもお礼しないとな!なんでもするよ。本当に、なんでも。」
「……。」
目の下に隈を作って、明らかに窶れているのに、それでも七瀬の笑顔は柔らかい。
それに罪悪感がもたげて、居心地が悪かった。
残夏は少し目を逸らしながら、そっと口を開く。
「……それ、なんだけど……もし、治らなかったらーー、」
「そんな訳ないだろ?治るよな?治るって、治してくれるって約束しただろ?」
「七瀬くん……。」
そんな約束はした覚えがない。
調べてみると言っただけだ。
それなのに七瀬は残夏の肩を強く掴むと、目を光らせながら詰め寄ってきた。
「助けてくれよ!!なんでもするから!!死んでもいい!お前に殴られても、罵られてもいいんだ!!」
「な、七瀬、」
「治せるって言えよ!!!なんで……なんでなんでなんで!!なんで佳代だけ!!?いつもいつもいつも、貧乏くじ引くのは俺たちばかりだ……!!っ、なんで……!!」
「……っ、七瀬くん!」
残夏の声が狭い倉庫に響く。
それに七瀬がはっと息を呑んで、肩を掴んでいた手を離した。
そのまま自分を抱え込むように小さくなって震え出す。
「……ご、ごめん……ごめん、小鳥遊……。」
「七瀬くん……。」
「ごめん、謝る……謝るから、お願いだ。……無理なんて、言わないでくれ……。」
七瀬に兎が近づいた。
そっと寄り添う姿は、ハグレモノとして討伐出来るようなものでもない。
だけど。
残夏はどうしようもない感情を慰めるように息を吸うと、努めて明るい声を出した。
「七瀬くん。……約束は出来ないけど、今調べてるから。」
「……うん。」
残夏の言葉に七瀬はようやく落ち着いたようで息を吐き出す。
残夏はその隣に座りながら、流れていく雲を眺めるように空を見上げた。
気まずい。
何を話せばいいのかも、慰めも出てこない。
それでも唯一の知り合いである残夏は、毎日のように倉庫へと来ていた。
今日はまだ日が高くて良かった。
暗いと余計気が滅入るのだ。
ーー皆んなにも心配かけるしな……。
いつも付き添いを申し出てくれる三人に申し訳なくて一人で来ているが、今日は早く帰ろう。
皆んなは調べ物を率先してくれている。その中で心配までかけたくない。
ただでさえこんな、大人にも相談できない事態になっているのだ。
そこまで考えて、ふと残夏の頭に疑問が浮かんだ。
七瀬は誰かに相談したんだろうか。
そもそもどうして、残夏が組織にいる事を知っていたんだろう。
施設の人間が話題にしたのだろうか。
「ああ、教えてくれた人がいたんだ。小鳥遊が、そういう所に居るって。もしかしたら相談に乗ってくれるかもしれないって。」
「え……?施設の人じゃないの?」
「違うよ。でも、すごくいい人なんだ。……悪い、小鳥遊には内緒にって言われてるんだ。」
「ううん。大丈夫……。」
七瀬の顔が穏やかに歪む。
残夏に心当たりのない、残夏を知る人。
ーーどうしてだろう……。
すごく、胸騒ぎがする。
◇◇◇
「残夏。最近、帰りが遅いみたいだね。……何かあった?」
数日後、14番隊の執務室で残夏を呼び止めたのは、昨日出張から帰ってきたばかりの玲だった。
相変わらずガラスに阻まれて見えない瞳に、じっと見つめられて足が地面に縫い付けられる心地がする。
視界のすみで凪が心配そうにこちらを見つめていた。
「い、いえ。あの……実は、施設にいた頃の知人とこの間ばったり会って……。」
「そう。積もる話があるんだね。ならいいんだ。でも、」
そこで一瞬、空気が停滞する。
照明に眼鏡が反射した。
「危ないことはしちゃダメだよ。」
「……はい。」
全てを見透かされているようで残夏は首を竦める。
玲は何も言ってこない。
だけどなんだか、怖かった。
玲が、ではなく、自分の判断が間違っているような気がして。
◇◇◇
ーー胸がモヤモヤする……。
資料室の中、山積みにした過去のハグレモノの記録を前に残夏は溜息を吐き出した。
玲に釘を刺された、その週末。
七瀬にお願いされてから既に二週間は経過している。
その間、七瀬はどんどん窶れていき、瘴気も濃くなってきていた。
あれではいくら被害が無いとはいえ組織にバレるのも時間の問題だ。
そして何より。
ーー見つからない……。
ハグレモノを『治す』方法なんてどこにもなかった。
あの日、坂西が堕ちた日に玲が言っていた事は正しかったのだ。
記録を見る限り、例えどれだけ無害そうに見えてもハグレモノは総じて討伐対象でしか無い。
助けた、保護した、なんて記録はどこにも無いのだ。
ましてや、人間に戻るなんて。
ーーだけどそんな事……。
今の七瀬に伝えたら、どうなるか分からない。彼は明らかに常軌を逸している。
もし、ハグレモノに堕ちたら。
そんな危うい緊迫感に残夏の心はすり減っていた。
「残夏くん。ちょっと、休憩した方がいいよ。」
「凪。」
「ぼく、美味しいお菓子買ってきたんだ。一緒に食べようよ。部屋で。」
柔らかい笑顔に、ぽっと明かりが灯ったような心地になる。
探しに来てくれたのか、いつの間にか凪が資料室に来ていた。
心配してくれているのだろう。
少しだけ眉が下がっているのに、ようやく息が出来るような気がする。
凪たちだってずっと調べてくれたり、この一週間は残夏の代わりに七瀬の所に行ってくれているのに。
残夏は少し遠くなった疲れに笑って立ち上がった。
取り敢えず、読みかけの資料だけ借りて今日は部屋でゆっくりしよう。
「うん、ありがとう。凪。」
「えへへ。司くんと雄星くんも誘おうね!」
ぎゅっと抱きついてきた体温が心地よくて、残夏はそっと息を吐き出した。
その日の夜。
残夏は借りてきた資料を捲りながら、先程までの暖かい時間に思いを馳せていた。
今日は久しぶりに楽しかった。凪の部屋でお菓子を食べて、皆んなでゲームをして。
七瀬の様子を見に行ってくれていた司や雄星からも、取り敢えず問題ないという事も聞けた。
明後日からまた学校もあるし、何も解決していないけれど少しだけ肩の荷が降りたような軽さだ。
そしてそんな軽い心で残夏は決めた。
この件は、大人に相談しようと。
もう既に残夏の手には負えなくなっている。
七瀬のことは気にかかる。
だけどこちらも限界だった。
ーーだから、この資料だけ……。
これだけ確認したら、もう止めよう。
そもそも七瀬は友人ではない。
全ての責任を負う必要は残夏にはないはずだ。
例え罪悪感があったとしても。
パラパラと紙が擦れる音が響く。
あと少し。後もうちょっとで読み終わり。
これで全てから解放される。
そう逸る気持ちでページをめくっていた、その時。
「……あれ?」
残夏の手は、ある一ページで止まった。
そこに書かれていたハグレモノは、少女の姿をしていた。
艶やかな黒髪と、雪のように白い肌。
赤い唇。
薄紅の瞳を覆う長い睫毛。
その背に生えた蝶の羽は、光沢を灯した紅色。
そんな、えも言われぬ様な美しいハグレモノだった。
しかし残夏の目を引いたのは、そのハグレモノの美しさではない。
その容姿が見たことのある人にそっくりだったからだ。
この世で残夏が最も美しいと思う人。
誰よりも尊敬して、信じたい人。
そう。
そこに居たのは、玲にそっくりなハグレモノだった。
「……亜月、世那……。」
どくん、と心臓が音を立てる。
資料に書かれた名前。
『亜月』なんて姓、そうありふれた物ではない。
「……六年前に、消滅済……。消滅要因は……他ハグレモノからの傷害。他ハグレモノは不穏な動きを見せている上位種……ヒミズ、か、ら……、」
脳が揺さぶられるようで痛い。
声が響く。
自分の声じゃなく、これは。
『……ヒミズはね、玲の妹を殺したんだ。』
『ヒミズは、玲を堕としてみたいんだよ。獲物としてだけでなく、玩具として欲しいんだ。高潔な魂。それが堕ちたらどうなるのか。どんな味なのか……知りたいんだ。』
困ったように眉を下げる楽を見た。
忌々しそうに顔を歪める彰良を見た。
そう、そうだ。
そうだった。
「あ……、」
思い、出した。
玲が封じた残夏の記憶。
ヒミズと玲の因縁。
そして、玲の魂と寿命のことを。
◇◇◇
楽は言った。
玲の妹を殺したのはヒミズだと。
彰良は言った。
ヒミズは玲の魂を堕落させたいのだと。
ヒミズは言った。
玲の絶望が見たいと。
そして、玲は。
玲は、残夏にこう言ったのだ。
お前に俺の過去を背負ってもらう必要はない、と。
◇◇◇
「七瀬くん。今日は、調査結果を伝えにきたんだ。」
晴れた空の下、残夏は小さな倉庫の前に佇む七瀬に真っ直ぐ向き合っていた。
少し後ろには凪、雄星、司もいる。
ここに来るまで何度も四人で話し合った。
だから、大丈夫。
残夏は少し深く息を吸うと、しっかりと言葉にして吐き出した。
「ハグレモノは、救えない。一度堕ちたものは元には戻らないんだ。」
七瀬の瞳が見開かれる。
紫の唇とこけた頬。だけど目だけはギラついていて強く光って見えた。
「……なに、言って……助けて、くれるって言っただろ?治るって!!!」
「言ってない。……調べるって言ったんだ。でも、調べてもダメだった。そんな前例なかった。」
「無かったからって分からないだろう!!?佳代が初めての例になるかもしれないじゃないか!!小鳥遊!!小鳥遊、なあ!!頼むよ!!お前だけが頼りなんだ!!」
「無理だ。……ごめん。」
少しだけ喉が詰まる。
それでも残夏は全てを言葉にした。
手が震えて、胸が重い。
痛むんじゃない、重いのだ。
これから、やる事全てが。
七瀬はそんな残夏に、憔悴しきって歪な表情を浮かべていたが、少しすると顔を俯けた。
そしてそのまま倉庫の中へと消えていく。
数分後、戻ってきた七瀬の顔には表情というものが無かった。
ただ腕の中のハグレモノを撫でる手だけが愛おしそうに動く。
「……そうだと思った。どうせ、助けてくれないって。」
「七瀬くん……。」
「あれだろ?当てつけだろ?……そうだよな。そりゃそうだ。他人を……ましてや加害者を救うやつなんていない。」
「違うよ。本当にハグレモノは……、」
「ハグレモノじゃない!!!佳代だ!!!俺の、俺の妹なんだよ!!!」
絶叫が耳を劈いた。
痛いくらいの慟哭に合わせるように、ハグレモノの瘴気が濃くなっていく。
皮膚が粟立って足元から崩れるような感覚。
それでも残夏は歯を食いしばると七瀬に向き合った。
「助けるんだ!!俺が、妹を!!!佳代を!守る!!!」
「七瀬!!落ち着け!その子は、もうーー、」
「うるさい!!!お前なんか信じない!……大丈夫、大丈夫だよ。佳代。これが終わったらまた兄ちゃんが守ってやるから。だから、大丈夫。あの人が言ったんだ。もし助けてくれなくても大丈夫って。だからーー、」
七瀬がハグレモノを地面に置く。
そして、そっと何かを食べさせた、瞬間。
辺りを激しい瘴気が包み、ハグレモノの身体がぼこぼこと波打って変化し始めた。
その場に響く金属音のような鳴き声。
骨が砕け、繋がり、肥大化して形を変えていく痛みを訴えるように。
残夏たちですら耳を塞ぎたくなるような。
しかしその中で七瀬だけが恍惚の表情を浮かべて、自身の『妹』を見つめていた。
「……佳代。大丈夫、お前は元に戻れる。小鳥遊を食べれば、全部元通りだ……。」
「七瀬!!」
ふらりとその場に崩れ落ちた七瀬に残夏は駆け寄る。
背後ではハグレモノの鋭い爪と、凪たちが鍔迫り合う音が響いていた。
◇◇◇
こうなる事は、最初から想定していた。
残夏は、七瀬の後ろに何が居るかを正確に理解していたからだ。
それについて、話を巻き戻そう。
残夏が記憶を思い出した日、残夏の中に広がったのは絶望や憤りではなく羞恥だった。
耐え難いくらいの恥ずかしさに、暫く顔を上げられなかったくらいだ。
なぜかって?
そんなの決まっている。
過去の残夏の軽率な好奇心や思い込みによる暴走に思い至ったからだ。
今ならどうして玲が残夏の記憶を封じたのか分かる。
知られたくない過去を好奇心だけで調べて、しかもそれを自身が戦う理由とした。
謂わばヒーローを気取っていたのだ。
強くなれば守れると本気で思っていた。
それを玲がどう思うかも理解せずに。
あの人は優しい。
残夏のお節介を汲んで、記憶の処理だけで許してくれた。
もし、残夏が同じ立場だったら近付くのも嫌になっていただろうに。
そしてそれと同時に理解もした。
ヒミズの狙いを。
彼は、玲に歪んだ感情を持っている。
あいつの行動原理は玲を絶望させ、傷つける事。
それなのに残夏を狙っていたのは、きっと残夏の中にいる悪意の塊を解放するためだ。
それで沢山の人を犠牲にして、もっと玲を傷つける。
それだけの為に残夏を欲している。
であれば、今回の件はヒミズが裏にいると考えるのが妥当だろう。
だっておかしいじゃないか。
残夏の事を七瀬に教えて相談を勧めるなんて。
組織の人間だったら、ハグレモノを前にそんな事はしない。
どれだけ嫌いな南宮でもハグレモノを見逃すなんてしないはずだ。
だから、今回の件はヒミズが裏で手を引いている。
その場合、残夏を壊したいはずだ。
坂西の時のように残夏が助けたいと、自分の中の悪意に手を伸ばす瞬間を。
だったら狙いはきっと、堕ちた妹じゃない。
狙っているのは、七瀬の方。
ヒミズは彼を残夏の目の前で堕としたいのだ。
「七瀬!落ち着いて!!感情に呑まれるな!!」
「うるさい!うるさいうるさい!!」
頭を抱え込んで耳を塞ぐ七瀬に必死に呼びかける。
その身体からは、妹のものではない瘴気がじわりと滲み出していた。
ここに来る前、凪たちとは何度も打ち合わせをした。
ハグレモノが活性化したら、三人が引き受けてくれること、残夏は七瀬を堕とさないように声をかけ続けること。
本当は、大人に相談すべきだった。
だけど玲の過去を知って、あの人の過去を想起させる様なこの事件は報告出来ないと思った。
それでいいと、三人も言ってくれた。
だから、残夏たちはここに来たのだ。
これ以上の被害を出さない為に。
ーー絶対七瀬は助ける……!
七瀬の事なんて知らない。
友達ですらない。
それでも手が届く所にいる。
きっと残夏はあの人の過去なんて背負えない。
玲の言う通り潰れるだけだ。
だけど、目の前の七瀬だけは。
吹き荒ぶような瘴気の中、残夏は七瀬の手を掴んだ。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
エピソード6に出てきてから、音沙汰なかった世那を出せて良かったです。
残夏は七瀬を救えるのか、楽しみに読んでいただけると嬉しいです。
次回更新は10/3土曜日です。
(19:30目安ですが、前後する時はXでお知らせします)
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