睡蓮の恋①
恋とはどんなものかしら。
そんなフレーズの歌を聞いたのは子供の頃だった。歳の離れた姉に連れられて行ったオペラ。幼い自分にはあまり理解できなかったけれど、そのフレーズだけは覚えている。
恋とはどんなものかしら。
甘いの?苦いの?酸っぱいの?
帰り道、そんな質問を姉に投げかけては困らせていた。
でも年を経て、そんなものは記憶の片隅に追いやられ。恋なんてまだまだ先の話だとばかり思っていたのだけど。
「はあ……。」
なんだか最近変だ。
ちらりと向けた視線の先で、戯れている男子たちの明るい笑い声を聞きながら溜息。ちりちりする胸の奥。
一体これはなんだろう。
「あかりちゃーん!あのね、……どうしたの?具合悪い?」
「桃子……。」
すっかりお馴染みになった明るい顔に、あかりはそっと微笑む。
桃子を見ると、胸の奥の痛みが少しだけ和らいだ。
「大丈夫よ。それよりどうかした?もうすぐチャイム鳴るわよ?」
「あ、そうだった!!あのね、放課後一緒に本屋にいかない?ずっと買ってる漫画が今日出るの〜!」
「いいわよ。」
「やったー!ありがとう!帰りに美味しいケーキの喫茶店に寄ろうね!」
「ええ、楽しみにしてるわ。」
うきうきと席に戻っていく桃子に目を細め、それからまた窓際に視線を向ける。
チャイムが鳴るのに慌てる雄星たちを見送る残夏の笑顔。
その笑顔からあかりは視線を逸らした。
ああ、困った。どうして頬が熱いのだろう。
放課後、立ち寄った本屋であかりは桃子からおすすめの漫画を教えてもらった。
少女漫画にありがちな、甘酸っぱい恋模様。ヒロインは夢見がちな高校生で、相手はそんな彼女を町の暴漢から救ってくれた男の子。ヒーローだ。
そんな物語を読んで眉を顰める。
ーーやっぱり……。
この間の外部演習。
あかりを守るためにぼろぼろになって立ち向かってくれた背中。
あれがきっとあかりのこの感情の根源だ。
あかりとは違う、前に向かって歩いていく残夏。
それに憧れてしまった。
ーーでも……。
これが本当に恋なのか、それとも感謝なのか。あかりは見極めなければ。
焦って今の心地よい関係性を壊すわけにはいかないから。
だけど胸が詰まるのはどうしたらいいのだろう。
こんなに苦しいのは本当に恋なのだろうか。
「……よく、分からないわ……。」
やたらとキラキラした青春劇。平和な日常なのに生まれるすれ違い。
この漫画ではあかりのこの胸の痛みの正体は見つからない。
まったく。
恋とはどんなものかしら。
◇◇◇
「あれ、あかりちゃん。今日は隊にいるんだね〜。」
週末。
12番隊の執務室でぼんやりと本を読んでいたあかりに声を掛けてきたのは、4番隊の楽だった。
長い亜麻色の髪と細身の体格。少し幼めの可愛らしい顔立ちは、男嫌いの氷室に嫌厭されないラインらしく、自由に出入りを許されている男性の一人である。
珍しいからか、またはその愛嬌によるものか。
楽は12番隊では人気で、女性隊員たちと恋バナに興じたり、相談に乗ったりとよく入り浸っている。
そのせいか、いつの間にか顔見知りになっていた。
「楽さん。」
「おお、覚えてたの?偉すぎ!いい子にはお菓子あげちゃう!」
にこにことチョコレートの箱を渡してくる楽にあかりは慌てて頭を下げた。
甘いものが苦手だからと、貰い物のお菓子なんかをよくくれるのだがそのどれもが高級品だ。
あかり一人にはもったいない。これは週明け学校に持って行ってみんなで食べよう。
そこまで考えて、あかりはハッと思いついた。
楽なら、どうだろう。いつも色んな人の相談に乗っているし、口も固い。
優しくて話しやすいから、あかりでも物怖じせずに会話が出来る。
手を振ってそのまま踵を返しそうな楽の袖をあかりは慌てて掴んだ。
「ら、楽さん……!少し、お時間頂けますか?」
「?いいよ〜!」
不思議そうな楽に隣に座ってもらい、周りを確認する。
良かった。今なら誰もいない。
あかりは小さく深呼吸すると、残夏の名前は出さずに最近の胸の痛みや、勝手に熱くなる頬のこと、それから少女漫画で見た恋とは違う気がする事を詰まりながら話した。
楽は終始揶揄わずに、あかりの話が終わるまで黙って聞いてくれた。
「……苦しいのに恋なのか、か……。」
「……漫画の女の子も、辛そうなんです。でもそれが私に当てはまるか分からなくて……相手が振り向いてくれないとか、すれ違いとかそんな辛さはないの。ただ、傷ついても守ってくれたのが嬉しいのに少し怖くて……もしかしたらいつかお別れが来ちゃうんじゃないかって、思うんです。」
こんな世界だから。
つい数ヶ月前まで一緒に笑っていた坂西ももういない。
学生でも残夏はぼろぼろになるまで戦った。
あかりの実力では探索は出来ても、戦力にはならない。それを思うと胸が痛くて辛い。
それなのに、残夏の背中に守られて嬉しいと思ってしまった事が苦しくて仕方がないのだ。
そんなあかりに楽は少し考えると、いつもの明るさを潜めて静かに言葉を落とした。
「そうだね。……その答えはきっと、あかりちゃんが見つけなきゃいけないと思う。」
「そう、ですよね……。」
楽の言う通りだ。
あかりは恥ずかしさに顔を俯ける。
こんな話、他人にしたところで答えをくれるわけが無い。それなのに忙しい楽を呼び止めてしまって。
しかし後悔し始めていたあかりの耳にくすりと楽の笑う声が響いた。
「でも、分かるよ。ボクは恋とかじゃないけど。」
「え?」
「高専の頃にね。……ボクたちの世界は喪失が多いから。大事な友だちが居なくなったら、もしくはそのせいで傷付いたら、なんて考えてた。だからあんまり背負いすぎず、踏み込み過ぎずってね。なのに、どんどん仲良くなっちゃうんだよ。
しかも友だちの中に一人、明らかに他人に依存、ってか執着してるやつがいてさ。相手が結構生き急いでたから、もし失ったらどうなるんだろうって。仲良くなる程に怖くて仕方なかった。」
それは少しだけ今のあかりに近い。
喪失の恐怖と、それでも近づきたいと願う想い。
「だからさ、ある日言ったの。友だちに。あんまり心を傾け過ぎると、失った時立ち上がれなくなりそうだよ、って。そうしたらそいつなんて言ったと思う?『良いんだよ』って。『その時は着いていくから良いんだよ』って笑ったんだよ。その時ボク、恋バナじゃんって笑っちゃった。」
「それは……。」
「ヤバいよね。でも、その時思った。ボクたちは色んな感情があって、考え方があって。それ以上に大事な何かがあって。……名前をつけるのが怖くなる感情だってある。喪失に掻き消されそうにもなる。それでも大切にしたい想いがきっとあるんだ。……だから、ゆっくり考えて。君がどんな答えを見つけても、それは間違ってないと思うから。」
楽は優しく笑うと、そろそろ行かなくちゃと立ち上がった。それにあかりは頭を下げる。
この感情がなんであれ、怖く思うことも嬉しく思うことも間違ってはいない。
きっと、そういうことだ。だからもう少し考えてみよう。
それにしても。
ーー失っても着いていく……。
それは、どれだけの想いなのだろう。
◇◇◇
その日、2番隊はどよめきに包まれた。
「彰良。……ごめん、ちょっといい?」
そんな言葉と共に2番隊の執務室の扉を開けたのは、14番隊隊長の亜月玲だ。
2番隊の副隊長である彰良とは幼馴染の間柄で、特に2番隊ではその事実がよく周知されている。
なぜなら玲は、いつも無表情や仏頂面で近づき難い彰良が唯一激しく感情を露わにする人間だからだ。
だから普段であれば隊長格の玲に敬意を持って接すれど、触らぬ神に祟りなしとばかりに意識を向けるものは殆どいない。
しかし今日だけは違っていた。
玲は執務室の中には入らず、扉を開けたまま困ったように眉を下げ彰良を見ている。
いつもの貼り付けたような軽薄な笑顔もなく、美しい水晶の瞳を覆う長いまつ毛が少しだけ震えていた。
そう、震えていたのが見えたのだ。
いつもなら眼鏡に覆われて見えない、玲の目元が。
それもそのはず、その日、玲は滅多なことでは人前で外さない眼鏡を外して繊細な花顔を周囲に晒していたのだった。
彰良は名前を呼ばれて振り返ると、玲の姿に一瞬だけ硬直した。本当に文字通り固まった。
しかしすぐに立ち直ると、大股で扉へと近づく。自分の顔が焦りと驚愕で歪むのを感じながら。
「おま、な……え?眼鏡は!?」
「それがさ……さっきまで外に出てたんだけど、明仁さんに会って。眼鏡取られちゃったんだよね。」
あっけらかんと玲が笑う。
明仁さん、とは彰良の父親だ。三島神社の神主で、実は元組織の人間だったりする。
まあ、その事実は彰良が高専を受験する時まで知らされなかったのだが。
それは置いておいて。
明仁は持ち前の高い霊力から全国各地を津々浦々と行脚しては、他の神社の神主たちの相談に乗ったり、問題を解決したりしている。
そんないつ戻ってくるかも分からない、フラフラしている父親が玲の眼鏡を取ったなんて。
ーー何やってんだあのクソ親父……!
彰良は怒りと呆れで表情が引き攣るのを抑えながら玲に向き直った。
先程のあっけらかんとした様子から、玲は眼鏡を取られたことには特に何も思っていないのだろう。
それなら他に何か用事があるはずだ。
「……眼鏡のことは後にして、なんか用事あるんだろ。」
冷静さを装いながら、彰良は玲を促すように言葉を紡いだ。
後ろで隊員たちが「あれ、14番隊の隊長?」「噂通り美人なんだ」「オレ今度お茶に誘ってみよっかな」などと囁きあっているのに苛立ちながら自分の身体で玲を隠す。
あいつら、今度の訓練で覚えていろよ。
特にお茶に誘うと言ったやつ。無事に済むと思うな。
そんな事を胸の中でごちていると、玲はまた少し眉を下げておずおずと口を開いた。
「それなんだけど……彰良、今日なるべく早く帰れない?明仁さんが今日帰ってくるって言ってたんだよ。それで一緒にご飯食べようって。俺ももう早退して帰って準備するからさ、彰良も定時くらいであがれないかなって。」
玲の言葉に、彰良は少しだけ驚く。
玲は昔、三島家で五年間だけ暮らしていた。その後、色々とあって今では一人暮らしをしている。
彰良としては今も変わらずあの家が玲の家であると思っているのだが、玲はあまり立ち寄らない。
来るとしたら体調が優れない時や年末くらいのものだ。
だというのに今回は玲からの提案。もちろん、明仁が誘ったことが根底にはあるのだろうが、玲が「帰る」と表現してくれたことが嬉しかった。
ーーたまには親父も役に立つ事するんだな……。
彰良は感慨深い気持ちで頷くと、玲にだけ見えるように小さく微笑んだ。
「分かった。俺もそんなに忙しくないから、今日はもう早退する。準備、一人じゃ大変だろ。手伝う。」
そう言えば、玲がふわりと笑みを浮かべた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
今回から、四週に渡って「睡蓮の恋」を更新していきます。
白百合、夢幻と戦闘回が続きましたので、日常と彰良と玲の原点にまつわるお話です。
楽しんで読んでいただけると嬉しいです。
次回更新は8/29土曜日です。
(19:30目安ですが、前後する時はXでお知らせします)
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よろしくお願いします。




