時計の針②
「残夏。」
残夏を呼ぶ声で、はっと意識が浮上した。
およそ何億光年と離れた星々の物語は、残夏を強く魅了したらしい。
慌てて顔を上げれば、カーテン越しの窓の外はすっかり陽が落ちていた。
「あ、あれ?いま何時……?」
「20時くらいかな。集中してたね。面白いのあった?」
こと、と音を立てて、玲が残夏の側にマグカップを置く。白い湯気が立ち昇り、緑茶の匂いがした。
残夏は礼を言って、そろそろとマグカップに口をつける。味は分からなかったが、温かさに心が落ち着いていく。
残夏はほっと息を吐き出した。
「残夏、お腹空かない?」
「え?あ、はい。」
残夏がマグカップを置いたタイミングで、玲が声を掛けてくる。
残夏は玲の問いかけに、こくりと頷いた。
嘘だ。
本当はお腹なんて空いていない。
しかし玲の気遣いを無碍にすることなんて出来なかった。
残夏の答えに、玲は笑うと少し待っててと言い残してキッチンの方に向かう。
黒いエプロンを着けた後ろ姿は新鮮で、残夏はなんとなく玲を見つめていた。
数分後。
残夏の前に出されたのは、形の良い三つの白おにぎりだった。
「……おにぎり?」
「うん。どうぞ。」
こういう時、白おにぎりを出すものなのだろうか。
もっと違う料理が出てくると思っていた。
残夏は首を傾げながら、玲のおにぎりに手を伸ばす。
綺麗な三角で、温かくて。
しかし口に含んでも、やはり味はしなかった。
「どう?」
「美味しいです。」
玲の質問に残夏は笑って答えた。
おにぎりは三つ。
全部食べられるだろうか。
少しだけ億劫だ。
どうせ後で吐き出すのに。
対して玲は、残夏の答えに柔らかく笑うと、そっと口を開いた。
「そう。味はしないかな。どうせ吐き出すのに食べるのは面倒ってところ?」
「え、」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
玲の声は優しくて、穏やかで。
しかし言葉を理解した瞬間、残夏の顔から血の気が引く。
「な、何を言ってーー、」
「悪夢を見る?毎日が過ぎていくことが気持ち悪い?時間が止まった感じがする?」
「っ、」
どうして。
なんで知っているのだろう。
残夏の感情を。
心を。
どうして。
喉の奥に言葉が詰まって出てこない。
ぽと、と残夏の手からおにぎりが落ちた。
しかし残夏に、視線を向ける余裕はない。
目の前で、玲がこちらをゆったりとした眼差しで見つめていた。
「現実感がなくて、たまに何が起きているのかも分からなくなって、心と身体が別々の場所にあるみたいだ。……違う?」
「どう……して……。」
「うん、そうだね。……どうしてだろうね。」
玲が笑う。
優しく、穏やかに。
玲の笑顔には、残夏を責めるような色は含まれていなかった。
残夏は止まっていた息を吐いて、呼吸を整える。
心臓が大きく鳴って、耳の中にこだまするようだ。
玲は何かを考えているようだった。目を伏せる顔に、まつ毛の影が揺れる。
そして、徐ろに顔を上げると残夏に視線を向けた。 アイスブルーの瞳が輝く。
「残夏。……お前が生きていて、良かった。」
「え?」
「怖かったんだ、あの時。お前と凪が避難して来なくて。指示を出さなきゃいけないから動けなくて、それでも霊力探知で探して生きてることに安堵して。……結局持ち場を離れて迎えに行っちゃった。」
玲が笑う。
心底良かった、と言うように。
「生きててくれてありがとう。今でも思う。お前や凪が死んでたらって。」
初めて聞く声だった。
「俺は、そう思うよ。」
静かに落ちた言葉に、残夏は目を瞬かせる。
そして。
玲の笑顔を直視出来ずに俯いた。
ーーそんな風に……。
思ってもらえるような人間じゃない。
生きてて良かったなんて。
誰も救えなかった。
残夏が生きることで、失われた命がある。
ーーそんな事を言われる価値なんて……。
残夏には、ない。
残夏は小さく息を吸って、吐いた。
今でも響く絶叫。
残夏を責め立てる声が、耳にこだまする。
「……オレは……。」
なにか言葉を吐こうとして、失敗した。
そんな残夏の頭に、温かいものが触れる。
くしゃくしゃと残夏の髪をかきまぜる手。
残夏は顔を上げないのに、玲は言葉を紡ぐ。
「ね、坂西くんはどんな子だったの?」
「え?」
「どんな子だった?教えて。」
玲の問いに、残夏は俯けていた頭を上げた。
どうしてそんな事を聞くんだろう。
あの事件以来、腫れ物を触るように、誰も坂西の話をしなかった。
誰も、坂西の名すら口にしなくて。
残夏は震える唇を噛み締めてから、声を絞り出した。
「……優しい、やつでした。穏やかで、ちょっと自信なさげで。それで……、」
ーーそれで……?
残夏は気がついた。
それ以上、坂西を語れないことに。
いつも少しだけ眉を下げて笑う顔しか知らない。
坂西がどんな思いで高専に来たのかすら。
ーーああ、そうか……。
知らない。
坂西を残夏は知らない。
これから、知っていくはずだった。
一緒に遊んで。
笑い合って。
好きなものや嫌いなものを知って。
でも、もう、叶わない。
ーー坂西……。
最期の時、彼は何を思ったんだろう。
ハグレモノに堕ちるくらいだ。
誰かを呪って怨んだんだろうか。
あの時、坂西の手を掴めなかった残夏を。
残夏は口を閉じる。
もう何も考えたくなかった。
というのに、玲はまたしても残夏に問うてくる。
「知らないの?友達だったんでしょ?
……それとも、」
玲はそこで言葉を切った。
真っ直ぐ、刃のような視線が残夏を貫く。
「ハグレモノに、堕ちるような子だった?」
音が、止まった。
同時に、残夏の中でなにかが弾ける。
目の前が赤く染まって、何も見えない。
闇雲に手を伸ばし、残夏は玲に掴みかかった。
「そんな訳ないだろ!!」
そんな訳がない。
「坂西は!優しくて、穏やかで、いつも誰かのこと気にしてて……!!」
そうだ。
坂西はそんなやつだった。
「遊びに誘っても、皆んなと一緒なら……っ、どこでもいいなんて、言うやつで!!」
残夏はその言葉がどうしても忘れられない。
残夏と同じだったから。
皆んながいれば良かった。
どんなところだって、皆んなさえ、いてくれれば。
なのに、それは、もう二度と。
「一緒に、色んなとこに行くはずだったんだ……!笑い合って、これからっ、色々、知るはずだった!」
知りたかった。
「……っ、知りたかった、のに……。」
もう坂西はどこにも居ない。
残夏のせいで。
残夏は玲から手を離した。
ただ虚しくて。
放っておいて欲しかった。
まるで残夏の罪を、白日の下に晒すようだ。
残夏は、力無く項垂れた。
眠りたくて、眠れもしない。
腹が満たされることも、疲れを感じることも。
だというのに、苦しさだけが喉を焼く。
「そう。」
玲の声は、ひどく穏やかだった。
羽根のように軽く、残夏に降り注ぐ。
「だったら、彼はお前に最後なんて言ったの?」
最後?
そんなの、決まってる。
残夏への恨み言だ。
「本当に?そんな子だった?ちゃんと思い出して、残夏。」
だって、そうだろう。
恨み言じゃないなら、絶叫だろうか。
「残夏。思い出して。」
「……。」
残夏はそっと目を閉じた。
玲の言葉に導かれるように、記憶の蓋が開く。
あの時、坂西は最後に。
なんと残夏に言っていただろう。
最後に会話したのはーー。
『小鳥遊くん!逃げるんだ!!僕が結界を展開しているから先に!』
『早く!!』
ーーあ……。
坂西の声が、頭に溢れる。
思い出した。
そうだ。
坂西は最後、残夏に逃げろと言ったんだ。
恐怖で震えながら。
残夏を逃すために立ち塞がってくれた。
「お前のこと恨んでた?お前のせいだと言っていた?」
違う。
そんな事を言うわけがない。
坂西は残夏を守ろうと、最後まで前を見据えていた。
ーーそうだ……。
助けてと懇願するのでも、お前のせいだと責めるのでもない。
最後の最後まで坂西は、残夏を、守ろうとしてくれていた。
「残夏。坂西くんはどんな子だった?」
「坂西はーー、」
優しくて穏やかで、少しだけ自信がなくて。だけど、誰かを守るために、必死になれる。
誰かを恨んだりするやつじゃない。
悪夢は、あれは、残夏が作り出した罪の意識でしかなかった。
「……さか、にしは……、」
視界が霞む。
込み上げてきた熱で喉が焼ける。
胸の奥が苦しくて、吐き出したい。
だけど、言葉にしないと。
「……坂西は……オレを、守ってくれる、ような……そんな、優しくて、強い、やつです……!」
溢れた涙で、言葉はぐちゃぐちゃだった。
聞けたものじゃなかったはずだ。
だけど玲が、そっかと言ってくれたから。
残夏は、ただ泣くことが出来た。
坂西を想って、泣くことが出来た。
◇◇◇
「ごめんね。ちょっと荒療治だった。」
玲が眉を下げる。
その表情に、残夏はおにぎりを手に持ちながら、慌てて首を振った。
「いいえ!……えっと、オレこそ……心配かけてすみませんでした。」
残夏の謝罪に、玲はそっと目を細めた。
泣き腫らした残夏が最初に感じたのは、空腹だった。
久しぶりの腹の音。
あまりの激しさに、残夏は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
そのまま冷めたおにぎりにかぶり付けば、味がして。美味しくて、また涙が溢れた。
残夏の皿にはおにぎりが並ぶ。
三個の形の良いおにぎり。
困ったことに、三回目の。
残夏の身体は三つでは、到底足りなかったらしい。
そんな残夏を玲はにこにこと見守る。
玲の前には皿もない。
残夏は三度目にして、ようやくその事に気がついた。
「隊長。」
残夏は、おにぎりをひとつ玲に差し出す。
玲は不思議そうに首を傾げていた。
「ん?」
「あ、あの……!オレばっかり食べてるので!」
残夏の言葉に、玲はぱちりと瞬く。
そして次の瞬間には、ぱっと笑顔を見せた。
「ふふ、気にしなくていいのに。うん、でもありがとう。」
玲はおにぎりをひと口齧ると、ゆっくりと咀嚼した。残夏のひと口とはまるで違う、小さなひと口だった。
残夏は玲の様子に、なんとなく口を開く。
「あの……聞いてもいいですか?」
「うん?いいよ?」
「えっと……隊長は食べ物に興味がないって……その、聞いたことがあって。美味しくないですか?」
残夏の言葉に、玲の目が丸くなる。
残夏はそこで、はっと口に手を当てた。失礼なことを聞いた自覚がある。
最近、言葉のすべてを偽っていたから。
急に溢れた残夏の言葉たちは、制御が効かない。
残夏は目を白黒させると、玲から視線を逸らした。
途端に気まずい空気が流れる。
しかしそれも、玲が噴き出したことで霧散した。
「え、え?」
「いやだって、ふふ……あーもう、可愛いなぁ。」
玲が笑う。
残夏の頭をくしゃくしゃにかきまぜて。
花が咲いたように綺麗な笑顔だった。
残夏は一瞬、玲に見惚れてしまう。
「美味しいよ。」
「え?」
「ご飯、美味しいよ。……昔は美味しくなかったんだけどね。今は、美味しい。」
玲はそっと目を伏せると、もうひと口おにぎりを齧った。
「癖になってるんだよね。だから、すぐに美味しいって忘れちゃうんだけど……でも、美味しいよ。」
忘れるとは、どういう事だろう。
そんな事があるのだろうか。
残夏は首を傾げながら、自分の分を食べ進めた。
そしてまた、口を開く。
「そういえば、どうしてさっきは分かったんですか?」
「うん?」
「オレの、気持ちとか……色々。」
怖いくらいぴたりと当たっていた。
まるで知っていたかのように。
もしかして玲は。
「お、お医者さんなんですか?」
「え?」
「え?……あ!」
残夏はまたしても自分の口に手を当てた。
なんだろう。
どうしてこうも、素っ頓狂な事ばかり口をつくのか。
残夏が恥ずかしさで俯くのに、玲はくすくすと軽い笑い声を上げた。小さく首を振る。
「流石にそこまではね。……ただ、知ってただけ。」
「勉強したんですか?」
「ううん。むしろ逆の立場かな……。」
「え?」
「ふふ、ご飯粒ついてるよ。」
玲の白い指が、残夏の頬に伸びてきた。
そのせいで残夏は質問ができない。
「……さっきも言ったけど、素人の荒療治だから。本当は専門機関にお任せする方が良いんだよ。ただ、知らない人に共感を示されるの、苦手な人もいるから……残夏もそうかなって、思ったんだ。」
玲が目を伏せた。
残夏も倣うように口を閉じる。
残夏は昔、母親に病院へ連れて行かれた事がある。
お化けが見えるという残夏を、母が危惧して連れて行ってくれた病院。
理解を示すのに、言外でそんなものは居ないと言われているようで。
残夏が心を閉ざして、結局長続きしなかった。
「……あの、オレ……多分、苦手だったと思います。病院。だから、ありがとうございました。」
例え問題があったとしても、残夏は玲と話せて良かった。
残夏の言葉に、玲は眉を下げて笑った。
◇◇◇
「さあ、そろそろお風呂にいきな。布団敷いとくから。」
食事が終わった後。
お茶を淹れてもらい、取り留めもなく話をしていれば、玲が時計を見た。
今夜は玲の家に泊めてくれるようで、浴室へと押し込まれる。
風呂場は広く、浴槽では足をゆっくり伸ばせた。
残夏を困らせたのは、バスアイテムの多さだ。外国語のものもあり、どれが何か分からない。
残夏が少しずつ試せば、よそ行きのいい匂いになってしまった。
用意されていたタオルはふかふかで。
残夏のベッドより、ふかふかで。
タオルもまた、残夏を微妙な気持ちにさせた。
そうして、夜が更けて。
「あの……少し、話をしていいですか?」
「ふふ。今日はおしゃべりだね、残夏。……いいけど、もう0時過ぎてるから少しだけね。その代わり、なんでもひとつだけ教えてあげる。」
「え、ほんとですか?」
「うん。」
玲の寝室。
敷いてもらった布団に包まりながら、残夏は考える。
玲の寝室はリビングよりも簡素だった。ベッドにサイドテーブルと観葉植物しかない。
そんな空間が落ち着かなくて話しかけたのだが、こんなチャンスが巡ってくるとは思わなかった。
何を聞こうか。
玲とヒミズのこと?
残夏の記憶を消したこと?
それともーー、
聞きたいことが沢山あった。
しかし、そのどれもが残夏に警鐘を鳴らす。
いま聞くべきではない、と。
残夏は警鐘に従い、多くのことを胸に沈めた。
そうして、ひとつ思いついたことを口にする。
「あの……呪いってなんですか?」
「呪い?」
「血が呪われてるって……。」
声が、静かに落ちた。
榊と対峙した玲が言っていたこと。
あの時の残夏は、正直それどころではなかったけれど。
でも「呪い」という言葉は、よく覚えている。
残夏の問いに、玲は少しだけ沈黙した。
そして、そっと声を潜める。
「……昔、呪ったんだ。」
「呪った?呪われたじゃなくて?」
「うん。……自分で、呪ったんだよ。全部炎に消えたら良いのにって。」
「え?」
「そうしたら、霊力まで燃えるようになっちゃった。……困ったね。」
玲の声は穏やかだった。
それなのに、どうしてか声が出せなかった。
空気が、微かに震えた。
玲が笑ったのだと思う。
残夏は耳をそばだてていた。
ひと言も聞き漏らしたくなかった。
「……残夏。ハグレモノはね、時間が止まるんだ。」
「時間ですか?」
「そう。ハグレモノになった時から、ご飯を食べることも、生きることも、この世界のルールから切り離されて、その瞬間から止まってしまうんだ。」
きっとそれは、残夏と同じだ。
ここに来て、泣くまでの残夏と。
何も進まなくて、気持ち悪い。
苦しくて堪らない。
「でも、生きていれば時間は進む。辛くても苦しくてもお腹は空くし、悲しかったら涙が出る。」
子守唄のように、玲の声が響く。
「忘れないで、残夏。辛い時もご飯を食べて、悲しかったら泣いて。嬉しい時は笑うんだよ。」
祈るような声だった。
まるで残夏に願いを込めるようだった。
「さあ、そろそろ寝ようか。……おやすみ、残夏。」
玲の言葉に残夏は目を瞑る。
残夏の時は動いている。これから先も動き続ける。
それを、忘れないように。
目を閉じれば、泥のような眠気が押し寄せた。
抗わずに意識を手放す。
悪夢は見なかった。
◇◇◇
「おはよう!」
「おー、元気になったな!」
次の日。
久しぶりに登校した残夏を、雄星たちが迎え入れてくれた。
皆んな心配してくれていたのだろう。
そして何よりも、
「残夏くん、ご飯美味しいね。」
凪が嬉しそうに笑う、その顔に残夏は心底安心した。
凪にあんな顔をさせるのはもう嫌だ。
「そろそろ夏休みの計画を立てねばな……。」
「視聴覚室を借りて皆んなで映画を見ませんか?いいのがあるんです!」
「楽しそうね。」
笑い声に、残夏も笑う。
きっと、辛いのは一緒だった。それでも、誰もが前を向いて生きている。
それしか出来ないのだから。
「いいね。オレも見たい映画があるんだ。」
忘れないよ、坂西。だけど残夏は進む。
これから先も、ずっと。
空が高い。
残夏は眩さに、目を細めて青空を見上げた。
もうすぐ、ここに来て二回目の夏だ。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
エピソード15は完了です。
約3週間に渡って、お付き合いいただきありがとうございました。
次週からは、水曜日の更新を短編に戻しますので、覗いていただけたら嬉しいです。
次回更新は5/23土曜日です。
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