各々の疑惑
ヒロは何事もなかったようにギルドの扉を開けた。
夕方のロビーは、依頼を終えた冒険者たちで賑わっている。
報告を待つ者。
酒を飲みながら仲間を待つ者。
今日も変わらない、王都の日常だった。
その中で、一つだけ見慣れない光景があった。
ギルドマスターが、受付カウンターにもたれ掛かるように腕を組んで立っている。
(……珍しい。)
普段なら滅多に部屋から出てこない人物だ。
ヒロの姿を認めると、ギルドマスターはほんの一瞬だけ表情を緩めた。
安堵したようにも見えた。
だが何も言わない。
そのまま静かに踵を返し、部屋へ戻っていく。
(……何だろう。)
(前にも、こんなことがあったような。)
少しだけ首を傾げる。
もっとも、話をしたこともない相手だ。
(気のせいか。)
そう結論づけると、ヒロはいつものようにリリアの窓口へ向かった。
「ただいま、リリアさん。」
「……おかえりなさい、ヒロさん。」
穏やかな声が返ってくる。
ヒロは依頼書を差し出した。
「街灯は壊れていませんでした。」
「予備点検も終えています。」
リリアは依頼書へ目を通し、静かに受領印を押した。
「確認しました。」
「依頼達成です。」
報酬の革袋を差し出す。
「こちらになります。」
「ありがとうございます。」
ヒロは革袋を受け取り、小さく頭を下げた。
「それじゃ。」
「また明日。」
軽く手を挙げ、その場を離れようとした。
その瞬間だった。
「――ヒロくん!」
鋭い声がロビーへ響いた。
ヒロは驚いて振り返る。
リリアは青ざめた顔で、ヒロの右腕を見つめていた。
「その腕……!」
ヒロも視線を落とす。
右袖が赤黒く染まっている。
「ああ……。」
思い出した。
男を蹴り飛ばした、あの瞬間。
腕を何かが掠めた感触があった。
(あの時か。)
(痛みもなかったから忘れてた。)
傷口はもう塞がり始めている。
流れた血だけが袖を赤く染めていた。
ヒロは困ったように笑う。
「作業中に切ってしまったみたいです。」
「大した傷じゃ――」
「医務室へ行きます!」
リリアは言葉を遮るようにカウンターから飛び出した。
「え?」
「今すぐです。」
有無を言わせない口調だった。
ヒロは反論する間もなく腕を掴まれ、そのまま医務室へ連れて行かれる。
ロビーは、一瞬で静まり返った。
「あのリリアが……。」
「受付飛び出したぞ。」
「初めて見た。」
冒険者たちが目を丸くする。
しかしリリアは、そんな視線などまるで気にしていなかった。
彼女の目には、血で染まったヒロの袖しか映っていなかった。
◇
◇
◇
医務室は、ギルドの喧騒が嘘のように静かだった。
リリアは救急箱を開くと、慣れた手つきで消毒液と包帯を取り出す。
「腕を見せてください。」
「はい。」
ヒロは素直に右腕を差し出した。
リリアは血で固まった袖を慎重にめくる。
傷は浅い。
すでに塞がり始めていた。
それでも安心はしない。
消毒液を布へ含ませる。
「少し沁みます。」
「大丈夫です。」
布が傷口へ触れる。
ヒロは表情一つ変えなかった。
リリアは丁寧に血を拭き取っていく。
傷口。
周囲の皮膚。
裂け方。
一つひとつ確認しながら、慎重に処置を進める。
やがて包帯を巻き終えると、小さく息を吐いた。
「これで大丈夫です。」
「ありがとうございます。」
ヒロは包帯を眺める。
(綺麗だ。)
無駄がない。
均等な力加減。
仕事が丁寧だった。
自然と視線はリリアへ向く。
眼鏡の奥の青い瞳。
長い黒髪。
仕事へ集中している時だけ少し寄る眉。
(……綺麗だな。)
そんなことを考えていると、ふと思い出した。
(そういえば。)
(さっき。)
(『ヒロくん』って呼んだ。)
普段は「ヒロさん」。
それが思わず変わっていた。
本人は気付いているのだろうか。
ヒロがぼんやり考えている間に、リリアは包帯を軽く押さえた。
「……無茶はしないでください。」
その声は、受付嬢としてではなかった。
心の底から心配している声だった。
ヒロは少しだけ照れ臭そうに笑う。
「はい。」
「ありがとうございます、リリアさん。」
リリアは静かに頷く。
「……また明日。」
「はい。」
「また明日。」
ヒロが医務室の扉へ手を掛けた。
その瞬間。
「ヒロォォォ!!」
廊下いっぱいに響く大声。
次の瞬間、ガレスが勢いよく飛び込んできた。
「大丈夫か!?」
「腕切ったって聞いたぞ!」
「なんで黙ってた!」
「死ぬかと思ったじゃねぇか!」
一気にまくし立てる。
ヒロは苦笑した。
「いや。」
「死んでないから。」
「そういう問題じゃねぇ!」
ガレスは本気で怒っていた。
傷口より。
黙っていたことに。
その様子がおかしくて、ヒロは思わず吹き出す。
「ふっ……。」
笑ってしまう。
ガレスはますます不満そうな顔になる。
「なんで笑う!」
「心配したんだぞ!」
「ごめん。」
ヒロは素直に頭を下げた。
「次からは言うよ。」
「絶対だからな!」
「うん。」
二人のやり取りを見ていたリリアは、思わず口元へ手を当てる。
「……ふふ。」
小さな笑い声が漏れた。
ヒロと目が合う。
一瞬だけ見つめ合う。
そして、どちらからともなく微笑んだ。
ガレスだけが首を傾げる。
「……なんで二人とも笑ってんだよ。」
その言葉に、医務室はもう一度、小さな笑いに包まれた。
◇
◇
◇
ひと段落すると、三人は医務室をあとにした。
ギルドのロビーへ戻る頃には、夕方の喧騒も少し落ち着き始めていた。
「それじゃ。」
ヒロはリリアへ軽く頭を下げる。
「今日はありがとうございました。」
「……いえ。」
リリアは小さく微笑んだ。
「また明日。」
「はい。また明日。」
ヒロとガレスは並んでギルドを後にした。
◇
◇
◇
王都の石畳は夕焼け色に染まっていた。
二人はいつものように『木漏れ日の酒場』への道を歩く。
「なあ、ヒロ。」
「ん?」
「本当に痛くねぇのか?」
ガレスは包帯をちらりと見る。
「大丈夫。」
「浅い傷だから。」
「でも血だらけだったじゃねぇか。」
「気付かなかった。」
「気付けよ!」
ガレスは呆れたように頭を抱えた。
「お前、自分のことになると本当に適当だよな。」
ヒロは困ったように笑う。
「そうかもしれない。」
しばらく歩く。
その時だった。
「あ。」
ガレスが立ち止まる。
「どうした?」
「忘れもん!」
ガレスは勢いよく振り返る。
「ヒロ!」
「先帰っててくれ!」
「すぐ戻る!」
返事を待たず、全力でギルドへ走っていった。
ヒロはその背中を見送り、小さく首を傾げる。
「忘れ物……?」
少し考える。
思い当たるものはない。
「まあ、いいか。」
ヒロはそのまま酒場への道を歩き始めた。
◇
◇
◇
ガレスは勢いよくギルドへ飛び込んだ。
「はぁ……はぁ……。」
受付嬢たちが驚いて顔を上げる。
「ガレスさん?」
「忘れ物ですか?」
ガレスはそのままリリアの窓口へ向かう。
リリアも少し驚いたように目を瞬かせた。
「……どうしました?」
ガレスは真っ直ぐリリアを見る。
「ヒロが今日受けた依頼。」
「見せてくれ。」
あまりにも突然だった。
リリアはガレスの表情を見る。
冗談ではない。
いつもの豪快な笑顔もない。
真剣だった。
「……少々、お待ちください。」
書類棚から依頼書を取り出す。
「こちらです。」
ガレスは依頼書を受け取った。
文字は読めない。
それでも紙をじっと見つめる。
そして。
ゆっくりと鼻へ近づけた。
息を吸う。
もう一度。
ゆっくり。
受付嬢たちも。
近くの冒険者たちも。
誰も何をしているのか分からない。
長い沈黙。
やがて。
ガレスの眉がわずかに動いた。
「……。」
依頼書を静かにリリアへ返す。
「ありがとな。」
それだけ言って踵を返す。
「ガレスさん。」
リリアが思わず呼び止める。
ガレスは振り返らない。
歩きながら、小さく呟いた。
「……臭ぇな。」
その一言だけを残し、ギルドを後にした。
残されたリリアは依頼書を見つめる。
「臭い……?」
恐る恐る鼻へ近づける。
何も分からない。
紙とインクの匂いしかしなかった。
「……。」
リリアは依頼書を静かに棚へ戻す。
けれど胸の奥の違和感だけは、消えなかった。
ガレスがあんな顔をする時は、決まって何かが起きる。
理由は分からない。
それでも。
そんな予感だけが、静かに胸へ残り続けていた。
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