木漏れ日の酒場
夕暮れの王都は、陽だまり村とはまるで別世界だった。
大通りには人が溢れ、荷馬車が行き交い、あちこちから笑い声が聞こえる。
焼きたてのパン。
炙った肉。
香辛料の匂い。
空腹だった二人の足は、その香りに導かれるように動いていた。
やがて辿り着いたのは、一本裏路地にある小さな酒場。
『木漏れ日の酒場』
ヒロが重い扉を押し開ける。
途端に、酒と料理の熱気が流れ込んできた。
そして。
店内の視線が一斉に二人へ集まる。
「……なんだ?」
「ガキじゃねぇか。」
「迷子か?」
笑い声が上がる。
「ここは酒場だぞ。」
「母ちゃん探して来い。」
ガレスが眉を吊り上げ、大剣へ手を伸ばく。
だが。
ヒロがそっと腕を掴んだ。
首を横へ振る。
今は戦う時じゃない。
その時だった。
「――うるさいよ。」
低く響く女の声。
店の奥でグラスを拭いていた女将が、布巾を置く。
酒場が一瞬で静かになった。
女将は店の隅へ歩く。
酔いつぶれていた男を足で軽くどかし、散らかった皿をまとめる。
「ほら。」
椅子を引く。
「座んな。」
ぶっきらぼうだった。
それでも、不思議と温かい声だった。
二人は黙って腰を下ろす。
しばらくして。
パンと野菜のスープが運ばれてきた。
湯気が立っている。
ガレスは思わず器へ手を伸ばしかけ――止まった。
「……俺たち。」
「金、ない。」
酒場がまた静まる。
女将は豪快に笑った。
「誰が金取るって言ったい。」
「余りもんだ。」
「捨てるくらいなら食っちまいな。」
ガレスはヒロを見る。
ヒロは小さく頷いた。
「……いただきます。」
パンをちぎる。
スープへ浸す。
口へ運ぶ。
温かい。
ただ、それだけだった。
その一口で。
ヒロの手が止まった。
ぽたっ。
涙がスープへ落ちる。
一滴。
また一滴。
止まらない。
「……っ。」
声にならない。
肩だけが震えていた。
ガレスは気づく。
そして何も言わない。
代わりに、思い切り大きな声を出した。
「うめぇぇぇ!!」
酒場中へ響く声。
「なんだこのスープ!」
「女将さん!」
「おかわり!」
店中の笑いがガレスへ集まる。
誰もヒロを見ない。
ガレスはずっと騒ぎ続けた。
ヒロが泣き止むまで。
カウンターの向こうで、女将は黙って見ていた。
その隣で看板娘のセレナも、小さく息を呑む。
女将は何も言わない。
ただ、空になった器を持ち上げる。
「ほら。」
もう一杯。
湯気の立つスープを静かに置いた。
ヒロは涙を拭き、小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます。」
女将は照れくさそうに鼻を鳴らした。
「早く食いな。」
「冷めるよ。」
酒場には再び笑い声が戻る。
その夜。
陽だまり村を失ってから初めて。
ヒロは、人の温もりで涙を流した。
夜も更け、酒場の喧騒はすっかり消えていた。
残るのは、ランプの柔らかな灯りと、食器を片付ける小さな音だけ。
満腹になったヒロとガレスは、椅子にもたれたまま動けなくなっていた。
カウンターでは、女将と看板娘のセレナが黙々と片付けを続けている。
セレナは皿を拭きながら、何度も二人へ視線を向けていた。
(……何、この魔力。)
エルフである彼女は、人よりも遥かに魔力への感覚が鋭い。
だからこそ分かる。
赤髪の少年。
その魔力は荒れ狂う暴風だった。
十歳とは思えないほど膨大な魔力量。
荒々しく、今にも暴れ出しそうな力。
それなのに。
その中心には、不思議なほど優しい温もりがある。
誰かを守るためだけに燃える炎。
そんな魔力だった。
一方。
黒髪の少年。
こちらは、まるで正反対だった。
最初は魔力が少ないように見える。
だが違う。
あまりにも精密に制御されているのだ。
一切の無駄がない。
静かで、冷たく、深い。
まるで底の見えない深海。
その静けさの奥底で。
悲しみだけが、静かに揺れていた。
「……セレナ。」
女将の声で我に返る。
「何をそんなに見てるんだい。」
セレナは慌てて首を振った。
「いえ……。」
少し迷ってから、小さく呟く。
「この子たち……。」
「とても綺麗な魔力をしています。」
「でも……。」
言葉が続かない。
あまりにも傷つきすぎている。
そんな魔力を、セレナは初めて見た。
女将は二人をちらりと見て、小さく鼻を鳴らした。
「魔力なんて、あたしゃ分からないけどね。」
空になった皿を重ねながら続ける。
「見りゃ分かるさ。」
「腹ぁ空かせて。」
「ボロボロになって。」
それでも隣同士で飯を食ってる。」
「悪い子じゃない。」
それだけ言って、女将は皿を流しへ運んだ。
セレナは小さく笑う。
「……はい。」
◇
しばらくして。
女将は腰へ手を当て、二人を見下ろした。
「さて。」
「店じまいだ。」
ガレスが顔を上げる。
「あいよ!」
「で。」
女将は腕を組む。
「あんたら。」
「今夜、帰る場所はあるのかい。」
ガレスは胸を張った。
「ない!」
「野宿する!」
あまりにも堂々とした答えだった。
女将は大きくため息をつく。
「野良犬かい。」
「そんな格好で王都の路地裏に寝たら、朝まで生きちゃいないよ。」
そう言うと、親指で二階を指した。
「空き部屋がある。」
「今日はそこ使いな。」
言い終わる前に、セレナはもう二人分のシーツを抱えて階段を上っていた。
「あっ。」
ガレスが目を丸くする。
ヒロは静かに立ち上がる。
そして女将へ深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「明日から冒険者として働きます。」
「食事代も宿代も、必ずお返しします。」
「一日でも早く。」
真っ直ぐな言葉だった。
ガレスも勢いよく立ち上がる。
「俺も働く!」
「女将さん!」
「絶対、この店を大金持ちにしてやる!」
女将は一瞬きょとんとしたあと、豪快に笑った。
「馬鹿だねぇ。」
ごつごつした手で、二人の頭を軽く小突く。
「大金持ちなんざ興味ないよ。」
少しだけ真面目な顔になった。
「あんたら。」
「怪我せず、明日も帰ってきな。」
「それが、一番の支払いさ。」
ヒロは言葉を失った。
陽だまり村を出てから。
誰かに「帰ってきな」と言われたのは、初めてだった。
論理では説明できない何かが、胸の奥をじんわりと温めていく。
「……はい。」
小さく返事をする。
その声は、少しだけ震えていた。
女将は照れ隠しのように背中を向ける。
「ほら。」
「さっさと寝な。」
「明日から忙しくなるよ。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
そしてセレナの後を追い、二階への階段を上っていく。
その夜。
木漏れ日の酒場は、二人にとって初めて王都で「帰る場所」と呼べる場所になった。
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