泥の深さ
王女アンは馬車の座席に深く身を沈め、打ちひしがれていた。
盗賊たちの捕縛後、駆けつけた護衛の増援――その中には、王女専属の執事でありながら王国最強と謳われる剣聖セバスの姿もあった。
王都へ急ぐ馬車の揺れの中で、アンは窓の外から視線を戻し、静かに口を開いた。
「セバス……あの方は、私に『助けなければよかった』と言いました」
セバスは御者のように背筋を伸ばし、主の言葉に耳を傾ける。怒りも、憐れみも含まない。
ただ、長い経験に裏打ちされた深い瞳で主を見つめ、静かに返した。
「……そうですか」
「私は……お礼をさせてほしいと申し出たのです。なのに、『税金でお礼?』と……そう言って、私を馬鹿にしたのです」
アンは肩を落とし、うなだれた。
「私はこれまで、身分を笠に着るような真似は一度もしていません。誰に対しても平等に、同じ目線で語りかけてきたつもりです。なのに……なぜ、あんなにも冷淡だったのでしょう。」
アンの問いにセバスは、穏やかでありながらも射抜くような声で静かに問いかける。
「アン様。では、あの方々の『目線』がどこにあるか、お分かりになりますかな?」
その言葉に、アンは息を呑んだ。
「……目線、ですか?」
「あの方々は、アン様が見る景色とは全く別の場所を見ておられます。アン様が『平等な目線』と呼ぶものが、あの方々には、空から地上を眺める鳥の視点のように映ったのかもしれません。……泥の中を這いずり、絶望の淵を覗いてきた者にとって、貴族の『慈悲』とは、時に最も残酷な傲慢にもなり得るのです」
セバスの指摘は、アンがこれまで守ってきた「優しさ」の根底を容赦なく突き崩した。
返す言葉は見つからない。
馬車の中には、車輪が石畳を叩く音だけが響き、二度と埋められない深い溝のような静寂が重く立ち込めていた。
王都への道は、先ほどよりもずっと長く、険しいものに感じられた。
重く沈んだ空気が支配する馬車の中で、セバスは静かに目を閉じ、先ほど現場へと向かう道中ですれ違った二人の少年を思い出していた。
当時、王女襲撃の一報を受けて急行していた際、街道を歩く二人とすれ違ったのだ。
(あの時の少年たち……)
セバスの脳裏に、鮮明な記憶が蘇る。
大剣を背負った少年。
その歩法、呼吸、幼いながらにも鍛え上げられた体つき。
セバスの剣聖としての直感が、即座に警鐘を鳴らしていた。
『あれは、ただの子供ではない』
見たところ10歳ぐらいだろうか。
剣士にとって修行の始まりに過ぎないはずだが、あの少年にはすでに「完成」の兆しがあった。
そう遠くない未来には、剣聖である自分自身をも凌駕し得る……そんな恐ろしいほどの器を感じていた。
そして、もう一人の少年。
(あの、目だ)
すれ違った瞬間に感じた、底の見えない深い闇。
それは十歳の子供が抱えるにはあまりに深く、重いものだった。
おそらくあの子だろう。
王女様に助言をしてくれたのは。
深く考え込んでいるセバスを横目に、アンは深く息を吐き、これまでの自分の考えがどれほど薄っぺらなものだったかを悟った。
彼女の瞳には、先ほどまでの迷いとは違う、強い決意が宿っている。
「セバス。私は……もっとこの国のことを知らなければいけません」
彼女はまっすぐとセバスを見つめた。
「城壁の中で聞かされる報告書ではなく、本当の現実を。週に一度、……いえ、月に一度でもいい。民一人一人と対話をして、この国が今、何を必要としているのかを知りたいのです」
アンの言葉に、セバスの厳格な表情がふっと緩む。彼は初めて、慈愛に満ちた柔らかな微笑を浮かべた。
「……賢明なご決断です、アン様」
セバスは、まるで孫を見守る祖父のような温かい眼差しで主君を見つめる。
「王女様の仰る『目線を合わせる』という言葉の、本当の意味を学ぶときが来たようですね。城壁の高さではなく、泥の深さを知ることでしか、この国の真の姿は見えてこないのですから」
馬車は、王都の巨大な門を静かに潜り抜けた。




