47.揺れる心〈勧誘〉
論文は明日必要だということで、今日中にやり直しをするように言われた。もう失敗はできないのでひたすら手元に集中し、いつもより慎重に書き写していった。
出来上がる頃には夜半を過ぎていて、先生は明日の朝が早いというのに、リビングで出来上がりを待ってくれていた。新たに清書したものを提出し、青い瞳が文字を追って忙しなく左右に振れるのを固唾を飲んで見守った。
「うん。今度は大丈夫だ。ご苦労さま」
「申し訳ありませんでした……」
「仕方がない。再計算は明後日以降に取りかかってくれればいい。今日はもう休むように」
先生は手早く紙を綴じると立ち上がった。
「わかりました。失礼します……」
「おやすみ」
先生の声色はあくまで柔らかったけど、なんとも感情が読みにくい顔をしていた。私は深々と頭を下げると、急いで自室へと引っ込んだ。
結局、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。まだ暗い台所に立つ先生は明らかに眠そうな顔をしていて、私も黙ったまま朝食作りを手伝い、黙ったまま食べた。
「では、行ってくるので」
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
先生は明らかに疲れた顔のまま、大荷物を持ってホウキにまたがった。アストリウスへと出勤されるために、まだ明けていない空を駅へ向かって飛んでいった。
私は自室に戻り、ソファーに丸まって少しだけ眠る。そして、外がすっかり明るくなった頃、目を覚ました。
「八時……」
懐中時計で時間を確かめてから起き上がると、服を外出着に替えた。顔を整えて、青い石の耳飾りと、ブレスレットをつける。それから睡眠が足りていない青白い顔を、頬紅でなんとかごまかす。
戸締りをして、家を出る。よく晴れてはいるけれど、風がひたすら冷たい日だった。夜の間にまた雪が降ったので、足跡や轍が消えて真っ白になってしまった道をサクサクと音を立てながら歩く。
ブランさんと会うのを本当に楽しみにしていたはずなのに、心は沈んだままで足も重かった。ようやく中心街に着いたのは、待ち合わせの時間ギリギリになってからだった。
◆
「静かな街と聞いていたけど、そんなこともないな。店も、人も思ったより多くて驚いた」
ブランさんはそう声を弾ませた。今日も燃えるように真っ赤な髪を綺麗に整えて、一昨日会ったときとは違うロングコートに身を包んでいた。これもまた高級そうな一着で、流行はよく知らない私の目にもとてもおしゃれなデザインに見えた。
素敵、という言葉が度々聞こえてくる。誇張でも何でもなく、街ゆく誰もがブランさんに注目していた。
まるで絵画から抜け出てきたような美丈夫は、そこにいるだけで人の目を引く。ブランさんはとにかく華やかな雰囲気の男性で、質実剛健を地で行く先生とは真逆の人だ。町の人からの賛辞をさらりと聞き流しているあたり、普段から褒められ慣れているのだろう。
一方で私は、仕事の時にも着られるように買った地味な紺のコートを着ていた。イヤリングやブレスレットではどうにもごまかしきれないほど地味だ。
ブランさんは別に何にも言わないけれど、並んでいてもたぶん全然釣り合ってない。
「エルシェ?」
ブランさんが、歩きながらもぼんやりしている私を不思議そうな顔で見ていた。気後れしてるなんて言えるはずもなく、私は笑顔を作る。
「ええ。もちろん王都や学術都市と比べれば小さい町ですが、私にとってはとても居心地がいいですね」
「なるほど、気候は違うけど、故郷と似てるからかな? ミラヴォーもいい街だったね。機会があればまた行きたいな」
ブランさんは仕事で国中を回っているのだそうだ。何の仕事かは詳しく教えられないとのことだけれど。
街をぶらぶらして、自分の買い物をさせてもらってから食堂に入った。いつも先生が私のために魚料理を頼んでくれる馴染みのお店だけど、来店するのは初めてだった。
「いらっしゃーい。空いてる席にどうぞ」
家庭的な雰囲気にほっとしつつ、窓際の席に座る。ブランさんはお昼時で賑わう店内と、メニューを物珍しそうに眺めていた。
私は食事をしながら、これまでのことをつらつらと話した。魔法学校では馬鹿にされてたなんて話はできないから、楽しかったこと、友達のこと、研究のことを話した。
ブランさんは自分の話はひとつもせず、私の話を時折窓の外を見ながら神妙な顔で聞いているだけだった。退屈なのが丸わかりで、場を持たせようと必死になる。
食事を終え、店の外に出るころにはすっかり疲れ切っていた。懐中時計で時間を確認すると、お昼の一時を過ぎたところだった。
まだ早いけど解散しようかと考えた私の手を、ブランさんが強く引っ張った。そして、そのまま建物の影に連れ込まれてしまう。
「あ、あの、どうされましたか?」
「なんかさ、あんまり元気ないよね。俺と一緒はつまらない?」
思いもよらぬ指摘に、私は首を横に振る。つまらなさそうにしていたのは、どちらかと言うとブランさんの方なのに。
「えっと、もしかしたら仕事で失敗しちゃったのを引きずってる……かも? ごめんなさい。せっかくのお出かけなのに」
「そんなに落ち込まなきゃいけないほど、大きなミスだったの?」
「それなりに……先生にご迷惑をかけてしまいましたし」
ブランさんの顔から笑顔がすとんと抜け落ちた。
「エルシェ、俺のところに来ないか?」
「え? 遊びにってことですか?」
私の名を呼ぶ声が急に低くなったのに驚くと、ブランさんはこちらに身を乗り出しながら続ける。
「ううん。君を雇いたいんだ。給金は今の倍額……いや、三倍出すからさ」
ブランさんは指を三本立てて笑った。どこにも瑕のない宝玉のような綺麗な笑顔だった。だけど、何かが引っ掛かる。
「それはさすがに分不相応です……そもそも私はまだ見習いですから、先生の元は離れられません」
「別に問題ない。俺にも師匠になれる資格はあるから、いつでも君を迎えられる」
ブランさんは戸惑う私に見せつけるように、懐から金のメダルを出した。それは、一等魔法師の証だ。
メダルにつけられた純白のリボンは、貴族子息御用達の『白き宝冠』サングランディエの卒業生のものである。つまり、ブランさんは間違いなく貴族の生まれということだ。
身なりがいい理由を知って納得していると、ブランさんが甘い声で私の名前を呼ぶ。
「エルシェ」
「な、何でしょうか」
金色の瞳が、まるで射的で狙いを定めるときのようにすうっと細くなる。
「なあ。こんなところにずっと留まってる『先生』とやらより、俺と一緒に国中を回るほうが楽しいと思わないか?」
冷たい声色で迫られて、心臓がどくりと打った。何か嫌な予感がして、私は必死で言葉を紡ぐ。
「わ、私はお荷物にしかならないと思います。魔力が足りなくてホウキに乗れませんし、得意な魔法だって、少し特殊で……」
「謙遜を。たとえ野ねずみだろうと、君なら大歓迎だよ」
ブランさんの完璧な笑顔に、私は微かなひっかかりを覚えた。なんだか卵の殻を噛んでしまったときのような、変な感じがする。
「いや、私は……」
「だって、俺と会ったのがきっかけで魔法使いになったんだろう? 俺のとこに来るのが筋ってもんじゃない?」
ブランさんはだらりと下がっていただけだった私の手を取った。
そして、何の躊躇もなく手の甲に口づける。初めて受け止める他人の柔らかな唇の感触に、背中がざわめき立って、顔が熱くなってくる。
「ちょ、ちょっと……」
「君はとても綺麗だな。特に目が綺麗だ。ずっと見つめていたい」
甘ったるい囁きに、胸の鼓動がどんどん速くなってくる。
「あはは。冗談がお上手ですね……」
なになになに!? なんとか視線を躱そうとしても、ブランさんは真剣な顔をしてどんどん迫ってくる。
まるで毒ヘビに睨まれているような、恐怖に似た気持ちが這い上がってきた。金色の瞳がギラギラと光っている。それは幼い日に見た木漏れ日のような優しさのある光とは違う、まるで刃のような強い光。
「俺は本気だよ。君が欲しいんだ。俺なら君にそんな悲しい顔をさせないよ」
そう言われて腰に手を回された瞬間、全身がぞっと冷たくなった。嫌だ。怖い。
「すみません、離してください」
私の抵抗は届かず、振り上げかけた左手首を捕まれた。そのとき袖口からのぞいたブレスレットを睨むように見たブランさんは、こう吐き捨てた。
「青は嫌いだ」
「えっ?」
「君には似合わないよ」
ブレスレットと手首の間に、ブランさんの人差し指が滑り込んできて、そのまま外側へと向かって強く力を掛けた。手首に引っ張られた鎖が食い込んで痛い。
「ごめんなさい!!」
自分でも驚くくらい大きな声で叫ぶと、ブランさんは力をかけるのをやめて手を離し、私を黙ったままじっと見る。
その金の瞳の中に、真っ黒い影が漂っている気がした。
「も、門限がありますので……ごめんなさい」
じりじりと後退りつつ、やっとの思いでそう言い訳をしたが、もちろん口から出まかせだ。無表情で立つブランさんに軽く頭を下げ、きびすを返した。
こわい。何あれ。
私は無我夢中で帰途についた。とにかく速く家に帰りたかった。鼓動が妙に早いのはもちろんときめいているからではない。胸騒ぎと呼ばれるものだった。




