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48.消えた時計、消えない疑念

 翌朝。いつも通りの時間に起きて服を着替えようとした私は、あることに気がついて焦っていた。


「えっ? あれっ?」


 先生から支給された、大切な懐中時計がどこにもない。まるで落っこちるみたいに血の気が引いていった。


 大急ぎで昨日着ていた洋服のポケット、カバン、買い物袋を裏返し、机やクローゼットの引き出しをすべて検めたけど、どこにもない。


 念のためにもう一度カバンを確かめていると、コンコンとノックの音が響く。「はい」と返事をすると、ドアの向こうから先生の声がした。


「朝食の用意ができたが。何か問題でも起こったか?」


「すみません、大丈夫です! すぐに降ります」


 階段を転がるように降り、身支度もそこそこにダイニングに飛び込む。テーブルの上にはすでにいつも通りの朝食が並んでいた。先生はテーブルについており、慌てて駆け込んだ私を目を丸くして見ていた。


 平静を装いつつ朝食を食べ、そのまま仕事……先日の計算のやり直しを始めたけど、なかなか手が進まない。私の頭の中は数字や数式ではなく、なくした時計のことでいっぱいで、今にもやらかしてしまいそうだった。


「先日の件は気にしなくていい。ままあることだ。すぐに必要なものでもないから、落ち着いてやってくれれば。別に明日までかかってもいい」


「わ、わかりました」


 挙動不審が明らかだったのか、先生が優しく声を掛けてくれる。ああ、ごめんなさい。今の懸念はそれではなくて……けれど、今は優しい先生でも、時計をなくしてしまったことを知ったらどんな顔になるだろう。想像すると、だんだん胸の奥が冷たくなってきた。


「昼食までには戻れると思うが、もし間に合わなければ先に食事を始めておいてくれ」


「かしこまりましたよ」


「いってらっしゃいませ」


 そんなこんなで午前十時。しんしんと雪が降る中、先生が依頼のためにひとりで外出した。マルタさんは二階に上がって掃除を始め、私は静かな仕事部屋に一人残された。いったん計算の手を止めて、昨日の行動をつぶさに振り返る。


 朝に家を出て、商店街へ。そこでブランさんと落ち合って、ふたりで商店街を歩いて、街やお店を紹介しながら買い物をした。ブランさんは横で見ているだけだったけど、私は薬局で化粧水と石けんを、文具屋さんでインクと便箋を買った。それから二人で食堂で昼食……それから……。


 うん。先生からもらったものとは言っていないけれど、ブランさんの目の前で何度か時計を取り出している。だから、彼に話を聞いてみる意味はあると思う。


――俺のところに来ないか?


 そう言った時の、私を見つめる眼差し……獲物を見つけたヘビのようなギラついた金色がまぶたの裏によみがえった。さらには私に触れたときの手つきを、唇の感触まで鮮明に思い出して、怖くなって震えがきてしまう。


 ……大丈夫。少し話を聞くだけだから。そう自分に言い聞かせながら、引き出しを開いて手紙鳥用の便箋を出した。正直、あまり会いたくないと思いながら、文章を綴っていく。


 ◆


 翌日の午前中。ようやく計算のやり直しを先生に提出した私は、先生が全てに目を通して頷くのを確認してから言った。


「先生、もし買い出しなどあれば行ってきますけれど。あの、今日はお天気もいいですし」


 そんなことを言ったのはもちろん、新しい仕事を言いつけられる前に、外に出る口実が欲しかったからだ。先生は私の突然の申し出にきょとんとしていたけれど、机の上や周りに目を走らせ、それから引き出しを上から順に開けて中を見てから言った。


「……ん? ああ。そう言われてみれば色々あるな。リストを用意しておく。出かけるのは昼食の後で構わないので」


 普段の食べ物や日用品は行商さんが家まで持ってきてくれるけれど、文具や事務用品などは私が商店街の文具屋さんまで買い出しに行くことになっている。色々と切れかけているのを把握していたので、こう言えば家を出られると確信していた。


「はい! 行ってまいります」


 そして昼食後、先生は買い物メモと、お金の入った布袋を私に差し出した。私はそれらを受け取って、コートを羽織って急ぎ足で家を出た。


 少し歩いたところで足を止め、カバンからブランさんから昨日の夜に届いた手紙鳥を取り出して広げ、あらためて中を見る。


『それなら心当たりがある。伝えたいから明日どこかで会えないかな。暇してるからいつでもいいよ』と返事をもらっていた。


 家を出られた旨を書いた手紙鳥を飛ばしてみると、すぐに返信があった。『じゃあ書店の前で待ってる』その通りにブランさんは、また違うコートを着て書店の前に立っていた。


「やあ、俺のとこに来てくれる気になった?」


 やっぱりブランさんは絵になる。私に声をかけられて人好きのする笑顔で微笑んだけれど、私の心は相変わらずざわめき続けている。


「すみません。そういうわけじゃなくて……あの、手紙に書きましたけど……」


「わかってるよ。時計のことだろ?」


 ブランさんはまたあの完璧な笑顔になった。背中をぞくぞくさせながら、私は言葉を繋げた。


「ええ。心当たりがあるっておっしゃってたので……」


「そう。君がそんなこと言うから昨日、仕事のついでにあちこち探して回ったんだ。そしたら、あっちの方でなんかそれっぽいのを……」


「えっ!? ほんとですか?」


 私が声を裏返すと、ブランさんはゆったりと頷いた。


「ああ。せっかくだから一緒に見に行こう」


 差し伸べられた手を断って、私はブランさんの後ろについて裏通りに入って行った。


 そこは、一応『通り』と名はついているけれど両腕を突っ張れそうなほど細い路地だった。踏まれて溶けた雪がところどころ凍っているので、滑らないように気をつけて歩く。


 並んでいる扉は、商店の裏口や倉庫のもののようだ。小綺麗で賑やかな表通りとは対照的に湿って淀んだ空気が満ちていた。昼間なのに薄暗くて私たち以外に人通りはなく、 目の前の大きな背中に感じる不安をさらに煽られる。


「ここ」


 しばらく進んだところでブランさんは足を止めた。目の前にあるのは古い木造の小屋で、木の扉がわずかに開いていた。


「は、はい……?」


 一応返事はしたものの、そもそもなんで時計の手がかりがこんなところにあるんだろう。昨日どころか、これまで一度も立ち入ったことのない場所だ。


 まあ、誰かが時計を盗ってここに捨てたってところだろうけれど……うーん。見つけたなら、拾って持ってきてくれれば良くない? なんでわざわざ私をここに連れてきたのだろう。


「……入らないの?」


 いつの間にか私の後ろに回っていたブランさんが、折り重なる疑問で動けなくなっている私の背中を押すように言う。


「ああ、えっと、はい」


 思い切ってノブに手を掛け、扉を開ける。ぎい、と不気味な音と共に、長年かけて染み付いたようなカビとほこりの臭いがあふれてきた。


 咳き込みそうになったので鼻と口を覆いながら、おそるおそる足を踏み入れる。どうやら今は使われていない倉庫らしく、中には数個の空箱が置いてあるだけ。後ろを振り返ると、ブランさんが半開きのままの扉を塞ぐように立っていて、袋小路に追い詰められたような気分になる。


『光って』


 そんな不安を追い払うように、私は懐から魔石ペンライトを取り出して点灯させた。ちなみに点灯の呪文はあの日以来、先生からの助言を受けて変更している。


 それはさておき、か細い光を頼りに積み上がった空箱の裏を見てみたけれど、落ちていたのは丸まった紙屑くらいで他には何もない。


 いや、ほんと何だってこんなところに……というのが私の立ち振る舞いに出ていたのだろう。ブランさんがここでようやく口を開いた。


「ごめん。やっぱり俺の勘違いだったかも」


 そう言った声はあくまで朗らかだけど、やっぱりなんとも嫌な感じがした。私は床を探るために曲げていた腰をここぞとばかりに伸ばし、後ろを振り返る。しかし、ブランさんの顔は逆光のせいで見えない。私は咳をふたつしてから言った。


「……ですか。ご心配おかけしてすみませんでした。じゃあ、私は今から巡査さんのところに行きますので、今日はこれで……」


 勘違いだったというのなら、一刻も早くこんなところから……ブランさんのそばから離れたかった。


 一応、巡査さんに落とし物として届いていないかを確認してから、頼まれた買い物をして帰って、先生に時計をなくしたことを正直に話そう。


 この後の行動をそこまで決めたけど、ブランさんは私の行く手を塞ぐように立ったまま頑として動こうとしない。まるで私を閉じ込めるためにそうしているような気がして、心臓がやたら早く動く。


 あの……と声を上げようとしたその時、扉の向こうから誰かの声がした。


「ん……? もしかして誰か中にいるのか? ここは危ねえから立ち入り禁止だぞ?」


 年嵩の少ししゃがれた男性の声だ。近づいてくる足音を遮るように、乱暴に扉が閉まった。


「えっ!?」


 急に真っ暗になってびっくりした私は、持っていたライトの先をついブランさんの顔に向けてしまった。


――青白い光に、邪悪に歪んだ笑顔が浮かぶ。


 えっ?


 その表情に疑問を感じる暇もないほど一瞬で、左手を掴まれてねじり上げられた。


「痛い!!」


 叫んだ直後、みぞおちに殴られたような強い衝撃を受け、


 目の前が真っ白になった。

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