44.風邪を引く〈3〉
仕事部屋で資料の整理をしていると、ときおり先生が咳をするのが聞こえてくる。薬を飲んだおかげで朝よりは回数は減っているけれど、それでも辛そうに思う。
マルタさんが洗濯物を乾かすために暖炉に火を入れたり、とにかく忙しそうにしている。
「こんな大雨が降るなんて珍しいなあ」
懐中時計を開くと、時間は午後二時を少し過ぎたところだった。昼過ぎから降り始めた雨は、あっという間にざあざあ降りになった。空気はまるで故郷の雨期を思わせるように重く湿っていて、まだ昼だというのに黄昏時と勘違いしてしまうほどに薄暗い。ここまでの悪天候は、シュネハイムに来てから初めてだった。
仕事に一段落つけた私は、台所に行って二人分のお茶を入れた。マルタさんが夕飯を作り終えたところを見計らって、入れたばかりのお茶をお出しした。
「マルタさん、どうぞ」
「あら、すみません。ありがとうございます」
向かい合わせになったカップから、ふわふわと湯気がたちのぼっている。棚から私のビスケット缶を出して蓋を開け、マルタさんに勧めた。マルタさんはニコニコ笑いながら一枚摘んで、一口齧る。
「エルシェさん。お仕事、お疲れ様でした」
「先生がお休みなので、今日は自分の研究のメモをまとめただけなんですよね。仕事というほどでは」
マルタさんがイタズラっぽく笑った。
「わがまま坊ちゃんのお世話もあったでしょう?」
「いやー、先生は素直に言うことを聞いてくださいましたよ」
先生は朝と同じく、私に見せつけるようにして昼食もよく食べて、ちゃんとお薬も飲んだ。弟みたいにしか見えなくて、思い出したらおかしくてたまらない。
「それは良かった。坊ちゃんがおとなしくお世話されているなんて久しぶりです」
「と、おっしゃいますと?」
マルタさんがカップを傾けながらおかしそうに笑っている。私が首を傾げたら、すぐに続きが語られた。
「近頃は風邪を召されると、魔法でも何でも使って自分でやる、うつるから近寄るな……と、家に来ないようにきつく言われていたんです。けれど、そんな時こそ無理をさせるわけにはいきませんから、構わずお手伝いに来るんですけどね」
その光景は目に見えるようだ。マルタさんとは気心知れている仲だから、きっと私と接するときより、少し強めに感情を出して、渋々と受け入れるんだろう。
「ああ、それ私も言われました。けど、私に任せろ! いいから休め! って言っちゃいました」
「あらあ。それじゃどっちがお師匠さんなのかわからないわ」
「自分で全部やりたいのはわかったが、君は大人しく寝ていなさい。あとは私がやるので……って感じです」
先生の口調を真似して言うとマルタさんが大笑いして、私も釣られて笑う。雨の音は相変わらず強いけれど、なんだか楽しい気分だ。
「あーあ。おかしいわ。そうよね。こういう時はいくら年下でも女が強くなるんですよ。夫婦とは違うでしょうけど」
「そっか、フリッツさんは年上ですもんね」
マルタさんとフリッツさんは十五歳離れている。
「ええ。けれど、もう長く一緒だから歳の差は感じないわ。なによりあの人は、私のことを年下の女だからと見くびったりしませんからね」
「本当におふたりは素敵なご夫婦だなって。憧れちゃいます」
「ありがとうございます。一緒にいられる時間が人より短いので、大切に生きなければね」
「そっかあ……そういう問題もあるんだなあ」
「さいわい主人は歳の割に頑丈ですから、もうしばらくは一緒にいられるでしょうけれど」
「マルタさんがとびっきり大切にしてますしね」
「ええ。かと言って、甘やかすだけではないですけどね」
顔を見合わせて笑う。雨音に混じって、また咳の音が聞こえてきた。一度は落ち着いたと思っても、なかなか引っ込んではくれないようだ。
「うーん。先生のほうは大丈夫かなあ……?」
「あれでも良くなったんですよ。コリント先生のお薬は南部の薬草をふんだんに使っていてよく効くそうで。この辺りでは、取り寄せるだけでも大変だから貴重なんですって」
「じゃあ、やっぱり白鐘草なんだろうな……」
うちの実家でも扱っていて、親しみのある薬草。薬の匂いと同時に、赤髪の魔法使いもひどい咳をしていたことを思い出した。
苦しそうに背中を丸めた姿が、なんとなく重なる。そういえば、先生とあの人はよく似ている。髪や目の色は全く違うけど……彼が見習いになりたての十八歳だったとすると、十四年後の今は三十二歳で年齢はほぼ一致する。
先生はかつて仕事で国中を飛び回っていたと語っていた。それなら、魔法使いのいない南部の端に立ち寄って、そこで迷子になった小さな女の子に出会うこともあったかもしれない。
……いや、まさかね。
偶然似ている点があるというだけだ。魔法師は掃いて捨てるほどはいないにしても、かといって稀少な存在というほどではない。中には病弱な人だっているだろう。身体が強くなくても身を立てられる職業のうちのひとつではあると思うし。
けれど、そうだといいなと思っている自分がなんだかおかしい。今日の天気があの日とよく似ているから、こんなことを考えてしまうんだろうか。
ささやかなお茶の時間を終え、雨が少し弱まったのを見計らったようにマルタさんが立ち上がった。
「さてと、少し早いですが、わたくしは今のうちにおいとましますね……もし何かあったら、鳥を飛ばして教えてくださいな。夜中でもすぐ駆けつけますからね」
「ありがとうございます。心強いです」
「エルシェさんも体には気をつけて。しっかりとお食事を召し上がって、ちゃんとお休みになってくださいね」
マルタさんを見送って戸締りをしてから、少し早いけれど夕食を急いで食べる。先生にも温めた夕食とお薬を運び、食器を下げるついでに体を拭くための手拭いとお湯を運んだ。
「……これは、さすがに自分でやらせてくれるな」
「そうですね。けれど、難しければ喜んでお手伝いしますよ」
先生が相変わらず私の顔色を伺うように言うものだから、つい意地悪を言ってしまう。
「バカなことを言うな」
「すみません」
私もお風呂は掛け湯だけで済ませ、髪を拭いてよくとかした。寝る前に、新しい水差しを用意してそっと先生の部屋に入った。薬が効いたのか、落ち着いた寝息が聞こえてくる。
空になった水差しを回収して、新しいものに変える。物音を立ててしまったけれど、先生は起きる気配がない。
私は思わず辺りを見回した。静かな寝室に二人きりと思うと、つい魔がさしてしまったのだ。
ちょっとくらい、いいよね? 私は先生のそばに忍び足で近寄り、思い切って額に触れた。もう熱も引いている。ほっと息をついた。
雨はすでに止んでいる。ちょうどカーテンの隙間からふうっと白い月明かりが差し込んで、先生の表情を浮かび上がらせた。
眼鏡を掛けていない素顔はめったに拝めない。長いまつ毛が白く光り、力の抜けた寝顔にはどこか少年の面影が残っている。胸が高鳴って、誘われるように頬を撫でる。顎のラインに沿って、ちゃんとお髭が生えていた。なんだか秘密を覗いた気分になった。
愛しい人に触れて、涙がこぼれそうなほどときめいてしまう。
「早く元気になってくださいね」
ずっと触れていたいけれど。名残惜しく思いながらも手を離し、布団をかけ直した。
その時、「きみか」と先生がつぶやいた。ドキッとしたけれど、先生の目はしっかりと閉じられている。寝言か。びっくりした。跳ねる心臓を抑えながら、もう一度先生の顔を覗き込む。
夢の中に私がいるのかな、それとも他の誰かかな、私だといいな。先生の夢に出てくる私はどんな感じなのだろう。先生の目に、私はどんな風に映っている?
そんな考えが、頭の中を目まぐるしく巡る。しまったはずの恋心が、また溢れてしまいそうになる。
先生はずっと優しかった。別にベタベタと甘やかされたわけではない。距離を置きつつも、いざという時は守ろうとしてくれる。果物は大きな方を、目玉焼きは形のいい方を私にくれる。震えていれば上着を貸してくれる。
押しつけがましくなく、ごく自然に。どれもこれも、思い出すと胸が高鳴る。
私に優しくするのは小さい子に優しくするのと同じで、先生にとってはきっと当たり前なんだろうと思う。
たとえば、私も十四歳年下の男の子が目の前にいたら、優しくはするけど意識することはない。好きなんて言われても、真に受けない。私ならそう、先生も、多分そう。
……とはいえ、一度吐き出してしまわないと胸がはち切れそうだった。
「あなたのことを、お慕い申し上げております」
眠るあなたに、この言葉は届かない。そして、きっと思いも届かない。
せめてずっとお側にいられたらと思うけれど、前に先生が言っていた通り、私はいずれ独り立ちをしてここを離れなければならない。私は弟子として、黙々と先生に認められるための準備をするだけだ。
その先は、別々の道を歩む。とはいえ、たまに手紙で近況を報告したりして、仕事の補助を頼んだり頼まれたりすることもあるかもしれないけれど、こんなふうに一緒にいられる時間はそう長くない。
雨は止んだはずなのに、ぽろりと雫が落ちてくる。
優しい人だもの、うんと幸せになって欲しいよ。けど先生が他の女の人と結婚したら、その時は大声で泣いちゃうだろうな。




