42.風邪を引く〈1〉
天体観測から二日後の朝。その日はすごく冷える朝で、しばらく葛藤した末に、布団から何とか這い出て身支度をした。
そして先生はといえば。いつも通り朝食を作ってくれはしたものの、ほとんど手をつけずに静かに席を立ってしまった。
どうしたのかな……? 私はパンをかじりながら、リビングに向かった先生を目で追う。
ソファーに深く腰掛けた先生は、リビングテーブルの上の新聞にも、コウモリ便の手紙にも触れる様子がない。先生は決しておしゃべりではないけれど、さすがにここまで一言も話さないなんておかしい。
「先生?」
呼んでみても、珍しく返事がない。え、本当にどうしたの? 先生は私のことを無視したりなんかしないのに。
それ以上は話しかけられずにいると、返事の代わりのような咳の音が聞こえた。
これって、もしかして……自分の不始末に気がついて背筋を冷たくしつつ、おそるおそる先生に近づいてみた。
先生はソファーにもたれかかったまま目を閉じ、動かなくなっていた。呼吸は浅く速く、そのうえ頬が赤く……明らかに様子が変だ。私は、勇気を出して先生に手を伸ばした。
「ちょっと失礼しますよ……」
やっぱり、と思った。額がびっくりするほど熱かった。私が手を引っ込めると先生は目を半分開くとはっきり気まずそうに顔をしかめ、再び咳き込んだ。
「あの、お熱があります。ちょっと高い気がします……」
「だろうな」
「あああっ……」
先生がきっぱり言うものだから、変な声をあげつつ頭を抱えてしまった。
天体観測の時、私に上着を貸してくださって、寝るときは毛布を譲ってくださった。きっとそれで、先生はお体を冷やしてしまったのだ。心当たりも何も、ああもう私のせいじゃん。どうしよう。
先生は目を開けて手紙を手に取ろうとしたけれど、明らかに手が震えている。きっと発熱のせいで寒気がするのだろう。私は仕事部屋から膝掛け用の毛布を持ってきて、肩からかけて差し上げる。先生は私に黙礼すると、きゅっと毛布にくるまった。
「あの、すみません。その、山で、私が寒がったから」
「……別に君のせいじゃない。昨夜は遅くまで根を詰めていたからだ」
先生はあくまで私を気遣うようにそう言い、テーブルの上の手紙などにゆっくり手を伸ばした。しかし、ひどい咳に邪魔をされて、なかなか読むことができないようだ。呼吸をするのがつらそう。少しでも楽になるように背中をさすって差し上げたいけど、さすがに勇気が出ない。
先生はしばらく咳と格闘したのち、手紙を読むのを諦めて、宙に視線を投げた。
「やはり、これでは仕事にならないな……差し迫ったものはないし、今日は休みにしようか」
「わかりました」
……治して差し上げられたらいいのに。
苦しそうにしている先生と、自分の掌の上で視線を往復させる。治癒魔法は自分自身にはかけられないという縛りがあるから、先生の風邪を治すためには私が魔法をかけるしかない。
だけど……私はやるせない気持ちで強く拳を握った。もちろん治癒魔法の理屈は理解している。学生時代の試験もちゃんとパスしている。けれど、私の魔力を搾り尽くしたところで風邪は治せない。私の力でできることはせいぜい、ほんの小さな切り傷を塞ぐ程度だ。
本当に、ここぞというときに役立たずでつらい。私が野ねずみでさえなければと、胸の中を苦いものが転がるけれど、落ち込んでいる場合ではない。私は私ができることをやらなければ。
「お医者さんを呼びますね」
とうとうソファーで横になってしまった先生に声を掛けた。先生がわずかに頷いたので、私は仕事部屋に行き、引き出しから手紙鳥用の便箋を取り出しペンを走らせた。
まずは井戸の件の時にお世話になったお医者さん……コリント先生に往診依頼の手紙鳥を飛ばした。それから、マルタさんにも状況を知らせた方がいいかもしれないと、魔力を振り絞って鳥をもうひとつ飛ばした。
ほどなくして、静かだった家の中にドアベルの音が響いた。
「はいはい、お待たせしました! お邪魔しますよ!!」
「おはようございます! よろしくお願いします!」
かかりつけのコリント先生は、両親と同じくらいの年齢のはつらつとした男性だ。コートを預かって玄関のスタンドに掛け、先生が待つリビングにお通しする。お医者さんはてきぱきと診察をすると、苦笑いで言った。
「まあ、風邪ですね。ここ数日はぐっと冷えましたからねえ」
先生が頷くと、コリント先生はが続ける。
「しかし……魔法使いも風邪を引いて、しかも自分では治せないなんてなあ。初めて知ったときはびっくりしましたよ。てっきり魔法でなんでも治せるものかと」
「しょせんただの人間ですからね」
先生はかすれた声で言う。先生が呼吸をするたび、わずかに隙間風のような音がすることに気がついて、私は母の言葉を思いだした。たしか、あまりよくない兆候だったはず。本当にただの風邪なのかなと、私は部屋の隅で診察の様子を固唾を飲んで見守っていた。
「ですね。先生と会って魔法使いのイメージが変わりました……いつも……咳を鎮めて、呼吸を楽にする薬を出しておきます。咳が酷くなるようならいつでも知らせてください」
コリント先生は私にカバンから取り出した薬の説明をすると、急いだ様子で立ち上がった。聞けば、今日は何件も往診の依頼が来ているらしい。
「どうも、ありがとうございました」
「お大事に」
診察代を支払ってから、コリント先生を見送るために外に出る。ふと西の空を見ると、雨雲が垂れ込めている。
先生にお薬をお出ししたら、すぐに雨に備えなければ。家に入った私は、さっそくリビングテーブルの上に置いたままの薬袋を手に取った。
中身は煎じ薬で、馴染みのある匂いが袋越しにでも感じられる。両親が営む店の風景が、まぶたの裏に鮮やかに描き出された。ホームシックとまではいかないけど、なんだか懐かしいような切ないような不思議な気分になる。
「では、薬を煎じて参りますね」
「いや、自分でやるので」
肩に毛布をかけたままの先生は、ピシャリと言ってこちらに手を伸ばしたけれど、私は袋を庇いながら続けた。
「いいえ。先生はこのままお部屋でお休みになっていてください。私は腐っても薬屋の娘ですから、薬の扱いには慣れていますし」
薬の煎じ方や飲ませ方は父や母がよく語って聞かせてくれたし、実家を出るまでは積極的に家業の手伝いもしていた。だから、人よりはちょっと薬に詳しいという自負がある。
だけど先生は私を見ると不機嫌そうに顔を顰めた。しんどいからなのか、なんなのか。
「自分のことは自分でなんとかする」
「ですが、おつらそうですし」
「別に、君の……」
先生は最後まで言い切れずにひどく咳き込み、再びソファに崩れるように座り込んだ。ぜいぜいと肩で息をしている。素人の目から見ても、明らかに酷くなっていってる。
胸の中にモヤモヤとしたものが立ち上がってくる。私はそれを外に出さないようにギュッと唇を結んだ。
だって、もしも立場が逆ならば、きっと私を心配して、手を尽くしてくれるはずなのに。実際、私が井戸に落ちた時に救ってくれたのは先生だし、山で寒いと言った私に自分の上着や毛布を惜しみなく貸してくれて。
なのに、自分はこんなことを言って。もやもやする。
「君の手助けは必要ない。どうか放っておいてくれ」
先生は私を睨むようにしてそれだけ言うと、ひどく咳き込んでソファに倒れ込んだ。
放っておけ……?
頑なな態度は単にもどかしいだけだったけれど、このひとことはさすがに聞き流せない。頭の中でぷつんと音がしたような気がした。




