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41.眠る彼女を見て

「いやあ、助かっタ。おかげでつつがなく終わったヨ……ていうかキミ、そんなに計算早かったっけカナ?」


「計算したのは私ではない。例の弟子がとても優秀なんだ。速さも正確さも、彼女の右に出るものはいないので」


「ヘエ。しかし、キミが弟子を取るなんてねエ……ボクも歳をとるはずだナア。いやあ実は最近、どうにも手元が見えづらくてネ……怖クなって医者にかかったら、とんでもないことを言われテ……」


「ああ、申し訳ないがもう切らせてもらうからな。朝から歩き詰めなんだ。少しでも寝ないと体がもたない」


「アアッ、待っ」


 このままルーカスの話に付き合っていたら間違いなく朝になってしまうので、通信の道具に流していた魔力を止めて立ち上がった。まだ夜明けまではしばらく時間がある。少しだけでも休みたい。


 道具片付けて山小屋に入る。耳をすませば微かな呼吸の音が聞こえた。彼女はひと足先に夢の中にいる。


 眠そうにしていた彼女に仮眠を取るように言ったら、申し訳ないと肩を落としつつもおとなしく従った。慣れない登山のあとにひたすら複雑な計算をこなしたことで疲れてしまったのだろう。


 記録表や計算用紙がテーブルの上に雑にまとめられていた。一番上にあったものを手に取る。月明かりに照らされ、几帳面に並んだ数字が浮かび上がったのを目で追った。胸の底に言いようのない熱を覚え、顔の筋肉がまるで氷が溶けるように緩んでいく。


 こんな真夜中に、紙に並んだ数字を見て笑っているなんて、今の私は他人の目から見ればきっと不気味に映るだろう。しかし、数字の向こうにあるひたむきな姿を思うと、どうしてもそんな反応になってしまう。


「ごくろうさま」


 私は、毛布にきっちり包まって眠る彼女に向かってつぶやいた。微笑んだような寝顔は、少女時代で時を止めてしまったようにあどけない。白くなめらかな頬に吸い寄せられる手を伸ばしかけて堪え、しっかりと指をたたんだ。触れることなど、許されるはずがない。


 私は拳を握ったままで後ずさり、向かい合わせに置かれているもうひとつの寝台に腰掛けた。彼女の落ち着いた寝息に耳を澄ませる。


 ……あの日の彼女も、もしかするとこんなふうに伏せる私を見ていたのだろうか。


 もう二度と会うこともないと思っていたのに、今ともに暮らしているのは、もはや運命の悪戯としか思えない。


 ◆


 私と彼女には、実はちょっとした縁がある。私は、アストリウスに赴任したのと同じ年に入学してきた彼女が彼(・)女(・)であることに気がついた日から、密かに見守っていた。


 成績優秀にも関わらず魔力の弱さから野ねずみなどと揶揄され、誰にも手をとってもらえかった彼女。古くからの掟に則って魔法を取られる寸前だった。


 あの日、アストリウスは何十年かぶりに魔法省からの通知書が到着したことで微かにざわついていた。放課後、職員室に姿を現したのはやはり彼女だった。


 優等生らしく隙なく制服を着ていたが、背筋は気落ちしたように丸かった。あくまで彼女とは無関係な私は書類を片付けつつ、耳は部屋の隅に向けていた。


 封印処置が決まったことを告げられた彼女は、差し出された封書を受け取り、潔く頭を下げてからその場を後にした。


『私も、お兄ちゃんみたいな魔法使いになりたい!』


 耳の奥深くで遠い日の記憶が響くと、居ても立ってもいられなくなった。


 覚悟を決めたのは一瞬だった。


 今日が講義のある日で本当に良かったと思った。私が彼女を追って職員室を出て行ったことには、きっと誰も気がついていなかっただろう。私と彼女に一切の接点はない……ことになっているので。


 とにかく彼女と話をするために寮の方へ向かおうとしたが、ついかつて自分が住んでいた男子寮の方へ行ってしまった。女子寮は校舎を挟み、まるっきり反対方向にある。いったい何をしているんだと、踵を返して走り出す。


 今にも泣き出そうな灰色の空の下、彼女は水を止められた噴水の淵に腰掛けて俯いていた。どこかで転んだのか、彼女の膝から流れる血の色だけが妙に鮮やかだった。


――私もそろそろ弟子を取ろうと思っていた。だから、君にする。


 とっさにそう言ったが、そんなのは嘘だ。今までにも何度か弟子を取れないかと打診されたことはあるが、全て断っていた。預かったとして、見ず知らずの他人と一緒に暮らせるかどうかとか、自分に面倒を見切れるかどうかとか。


 あとは決して豊かではない懐事情とか……そういうことが頭をよぎって、迂闊なことはできないと思っていたのだ。


「せんせい……」


 不意に甘い声に呼ばれると、喉が渇いていくような気がした。水筒の中身を全て呷った。


「心臓に悪い……」


 わが身がどうしてそんな反応を示すのか、答えはもうわかっている。いっそ手折ってしまいたい……ふつふつと湧く汚い欲に心を飲まれないように、歯を食いしばった。


 彼女が愛しい、欲しいという気持ちが、隠せなくなっている。


 まさか、自分がこんなふうに女性に懸想する日が来るとは思わなかった。こんな冴えない年増の男が、今まさに花盛りの彼女に相応しいはずがないのにと思う。


 もちろん、最初からこんなことを思っていたわけではない。


 この道に踏み込んだきっかけが、私との出会いであると知って身が引き締まった。だから、最初はしっかりと守らねば、きちんと導かねばという一心だった。しかし、その考えはあっけなく崩れ、徐々に形を変え始める。


 彼女が入り込んできたことで、見える景色が変わった。私に笑顔を向け、涙を見せ、なんの躊躇もなく手を取ってくれた。彼女が隣にいるただそれだけのことで、日々の生活がまるで花を添えたように鮮やかさを増した。


 湖の街で出会った時とは違い、もう大人の女性なのだと思うと心を惹かれてしまった、どうしようもなく。


 だが、居心地がいいからといって勘違いしてはならない。私が手を離せば、彼女の志はほぼ間違いなく絶たれてしまう。


 私に向けられるのはもしかすると信頼ではあるかもしれないが、決して愛などではない……これまで何度も繰り返し呪文のように唱えた言葉を、さらに心臓に刷り込むように繰り返す。


 彼女を決して裏切ってはならない。触れたい、離したくない、こんな浅ましい気持ちは生涯隠し通さねばならない。私は影ぼうしでいることに徹さなければ。


「愛しているよ」


 彼女の眠りは深いので返事はない。まるで何事もなかったかのように、細い寝息が規則的に続いている。わかっている。届かないとわかっているから言えたのだ。


 そう、彼女には手が届かない。途方もなく遠い星に焦がれているのと同じだ。そんなことを思いながら見上げた空を、小さな星が流れていった。ただの迷信とわかってあえて、生まれて初めて願いをかけた。


――無事にここから巣立ち、広い世界へ旅立ってほしい。


 そうだ。私はそう願わねばならない。


 彼女は必要な資格さえ得られれば、私の元を離れることになる。協会からの評価も高いので、おそらくそこまで時間はかからない。餞別はすでに用意している。あとはなんと言って送り出すか……それだけを考えていればいい。


 心優しく、朗らかで、聡明な女性だ。いずれいい妻になり、母になるだろう。私は彼女と、彼女が作った家族が幸せに暮らす様子を、折に触れて知らせてもらえればそれで十分だ。


「エルシェ」


 人生の一時期を共にした師として、彼女の記憶の片隅に残れればそれでいい。それでいい、だが。


 ……彼女と共に歩く人生を、夢想するだけなら許されるだろうか。


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