03.謎の魔法使い
「君、行くところがないそうだな」
自分のつま先と睨めっこしていた私はの耳に、冷たい風の音に混ざって男の人の声が届いた。低過ぎず高過ぎず、淡々としているけれど痛いところがない。ひんやりと耳触りがいいと感じる声色だった。
「えっ?」
地面から少しだけ目線を上げると、よく磨かれた男物の靴が目に入った。突然の他人の登場に、出かけていた涙が引っ込んだ。
そこにいたのは、眼鏡をかけた銀髪の男性だった。ポケットがやたらと多い墨色のロングコートは、いかにも魔法使いといういでたちだ。丁寧に使い込まれた革のかばんを片手に、まるで影のように立っている。
左耳には瞳の色によく似た色の石の付いた耳飾りをつけている。人の視線を拒むような長めの前髪が、今は風に自由に遊んでいる。そのせいか年齢がわかりにくい。
なんというか、お兄さんにも、おじさんにも見える。まるで揺らめく水面のように、印象を変える、というか。
この人とは面識がないだけで、別に知らないわけではなかった。
「ラインハルト先生、こんにちは」
私の挨拶に静かに頷いて返したこの人は、ヴィクトール・ラインハルト。確かフルネームはそうだったと思う。ここに勤める先生だ。
とはいえ、校内を歩いているときにたまに見かけることがあるという程度で、私は先生がどの科目を持っているのかすら知らない。アストリウスには常勤の教員だけではなく、外部からの講師も多いので全員は把握しきれていないからだ。
……どうして私に声をかけたのだろう?
ぽかんと口を開けたままの私に向かい、先生は硬い表情のままじりりとさらに迫ってくる。眼鏡のレンズの向こうにある深い青の瞳が、逃がさないと言っているようだった。今の私はまさにヘビに睨まれたカエル、いや、野ねずみか。
「君、師事先は決まったのか?」
念のために辺りを見回しても、先生と私の他には誰もいない。けど、やっぱり話しかけられたことが信じられずに私はこう答える。
「すみません、私に仰っているのですか?」
「……ここには私と君しかいないが。エルシェ・リヴェール君」
「ですよねえ……」
先生は、私の間抜けな答えに呆れたのか頭をガリガリとかいた。まさか接点のない先生が私の名前を知っているなんて思わなくて、口ごもってしまう。そうだ、きっと私が野ねずみだからだ。先生も私を笑いに来たのに違いない。
「……質問に答えてほしいのだが」
けれど濃い青の瞳はどこまでも静かで、じっと私の答えを待ってくれている。傷ついてぱんぱんに腫れた心が冷やされていくのを感じながら、私は言葉を続けた。
「お恥ずかしながら、行くところがありません。あとは『処置』されるのを待つだけです」
封筒を納めたポケットを押さえると、とうとう涙がこぼれた。慌てて拭う。
なんとか笑顔を絞り出した私を、先生はどちらかと言うと険しい顔を保ったまま見つめていた。逃げ出したいのに動けない。
先生は音が聞こえるほどに息を大きく吸って、言った。
「そうか。ちょうどよかった」
怒鳴られるのかと思ったけれど、声色はあくまで落ち着いている。
「何がですか……?」
「私もそろそろ弟子を取ろうと思っていた。だから、君にする」
「はぁっ!?」
絶望的な状況を全てひっくり返されて、心臓が止まりそうになった。待って、野ねずみの私を? 二月も終わりのこの時期に?
先生はコートのポケットから手帳を取り出すと、スラスラと何かを書き付けはじめた。
ペンのキャップの先が、溶けたガラスのようにぐにゃっと歪んでいるのが目に入る。
私の他にもいるなんて。
壊れたのを魔法で直した跡だと気づき、鼓動が早くなる。
……卒業審査にいた審査官全員に、『あまり意味がない』と笑われた魔法。
でも、先生なら私の魔法を見てもがっかりしないかもしれない。目の前が徐々に明るくなっていくようだった。
だけど、まだ今の状況が信じられない。
「いや、あの。ちょっと待ってください。あの私、難ありなのですが。その、魔力不足で」
「……知っている」
先生は手元から一切目を離さずに返してくる。ペンも流れるように動いている。
「それなら、どうして私なのですか……?」
「理由を聞いているのか? 弟子が欲しいと思っていたところに、いまだに余っている君が現れた、それだけだが」
先生はここでペンを止める。ピリピリと、紙を破く音がする。
「……えっと……でも私、余るべくして余っているわけでして」
「特に問題はないと判断している」
急展開にすっかり置いていかれる私に、先生は手帳のページをちぎってふたつに畳んだものを押し付けるように差し出してくる。私がおそるおそるメモを受け取ると、先生は噴水に腰掛けたままの私の前に跪いた。
「へっ!?!?」
まるで騎士が主人に誓いを立てるような格好で、年上の男性が私にこうべを垂れている。本当に訳がわからなくなってきた。




