04.差し伸べられた手
「ど、どうされましたか!?」
先生の予想外の行動に、つい声を裏返す私。しかし先生は全く動じず、目線はある部分に止まっている。
「君、怪我をしているのでは?」
「あっ」
そのひと言に、一度は遠のいていた痛みが戻ってきた。
「いえ、大丈夫です。こんなの別に大したことない……」
「見せなさい」
先生はぴしゃりと言い、湖のように深い青で真っ直ぐに私を射抜いた。
「うう……」
私は言われるがまま、ミディ丈のスカートを少しだけたくし上げた。膝は大きく擦りむけて、垂れた血がすでに黒く固まりかけていた。砂を巻き込んだ傷の周りが熱を持ちはじめている。
先生の細い指が、触れるか触れないかの距離に迫る。
「……別に深くないな。とはいえ、放っておくべきでもない」
先生の声はあくまで冷静なのに、お父さんでも弟でもない男の人にまじまじと見られる恥ずかしさに、体温が容赦なく上がってくる。
「あの、あの」
『清め、癒やせ』
ひとつの無駄もない呪文に応えるように、先生の指先に青い光が灯る。わずかに皮膚が引き攣る感覚がしたくらいで刺激は感じず、ひんやりとして気持ちいい。
もしかして、治癒の専門家なのかな?そんなことを考えているうちに、傷は瞬く間に消えた。なんなら怪我をする前より綺麗になっている気がした。
先生は小さく頷いてから立ち上がり、自分の膝についた砂を払った。
「……おかしな感覚はないか?」
そう言われ、膝を曲げ伸ばししてみる。元通り……いや、調子が良すぎるくらいだ。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
先生は顔を逸らし、目線だけをこちらに向けた。
「別に、礼には及ばない。すまないが採用の詳しい条件については後ほど。急ぎの質問があればコウモリをよこしてくれ……では、失礼」
先生はこの後に何か予定があるのか、懐中時計を気にしつつ急ぎ足で去った。黒い後ろ姿は、あっという間に建物の影で見えなくなった。
ぴゅうぴゅうと北風が吹いているけれど、もう冷たさは感じない。
「ええええ……」
思いっきり頬をつねる。ちゃんと痛い。絶望の淵で見た夢ではないのだ。手の中には先生に渡されたメモが確かにあり、膝はつるりと綺麗になっている。
「そうだ、これ」
手のひらほどしかない紙が風にさらわれないように気をつけながら、そっと開いて内容を確かめた。
そこに書かれていたのはたった三行。
一行目に、『勤務地はシュネハイム、自宅兼仕事場に住み込み』とある。
聞いたことのない地名だ。どこなのだろう。近隣の街なら名前を覚えているから、少し遠いところなのかもしれない。
二行目にコウモリ便を送るために必要な魔法師の登録番号。
コウモリ便は魔法師専用の夜間速達郵便だ。夕方に手紙を託せば、次の夜明けまでに相手に届けてくれる。普通の郵便屋さんやフクロウ、通信用の魔法も使うけど、魔法使い同士で短い手紙を送りあうならコウモリが一番確実で速い。
三行目に先生の署名がされていた。『ヴィクトール・ラインハルト』とある。
立ったまま急いで書いたからか、それとももともと癖がかっているのか、少し字は乱れている。
最後までじっくりと目を通したけれど、頭の中は『なぜ?』で埋め尽くされた状態のまま変わらない。
私と先生にはそもそも接点がない。こんなに近い距離で顔を合わせたのも、まともに話したのも、さっきが初めてだ。
弟子が欲しいと考えていたのなら、相応しい優秀な学生は他にいくらでもいただろう。なのに、こんな時期になって関わりのなかった私に声をかけた理由はなんなのか。
あまりにも脈略がなさすぎる。なにかよからぬ企みがあるかもしれないと、頭の中で警笛が鳴っている。知らない人について行ってはいけませんと躾けられてもいる。
けれど……私は魔法省からの通知書が入ったポケットを押さえた。
この申し出に乗れば、少なくとも魔法を取られずにすむのだ。
風に雪が混じり始め、頭上をまた黒い鳥がふうっと横切っていった。私はメモを握りしめて、早足で寮に帰った。
◆
私がようやく寮の部屋に帰ってから数分後に、ルームメイトのノエミ・ラフィットも帰ってきて、ベッドの上で膝を抱えて座っている私を見るなり目を丸くした。
「呼び出しくらってたけど、大丈夫だった?」
クラブの帰りと思しき彼女は、占いの道具が詰まった大きなカバンを机に置いてから私の顔を覗き込むように見る。
私は、とりあえず職員室を出てからの出来事を順を追って説明することにした。
「さっき、ロウェナとちょっとやりあって、怪我しちゃって……」
「はあああ!?」
ロウェナの名前を聞いたノエミの顔が、太陽をたっぷり浴びたトマトみたいにみるみる赤くなっていった。しまった、ここから話し始めるべきではなかったと後悔しても、もう遅く。
「お育ちはよろしいのかもしれないけど、性格が悪けりゃぜんぶ台無しよね!!」
ノエミは足を踏み鳴らして声を荒らげた。このままだとロウェナの部屋に殴り込みをかけかねない。
「ああっ、待って!! カチコミなんかダメだからね」
「エルシェが怒れないなら、私が代わりに怒らなきゃいけないのよ!!」
実は貴族令嬢なノエミはポキポキと指を鳴らしている。いつもは春の陽気のように穏やかな彼女。しかし今は緩やかにウェーブする髪が燃え盛る炎みたいに揺れていた。
彼女は家柄や魔法の才に恵まれながらも、私のことを絶対に笑ったりしない優しい子で、私の数少ない理解者だ。
私は感覚派の彼女が苦手な計算や作図を手伝って、代わりにと試験用の箱庭を作るのを手伝ってもらった。身分の差はあるけれど、持ちつ持たれつでやってきた。
「だって、怪我までさせるなんて度を越してるよ……ああっ、ごめん。先に治さなきゃね……」
ノエミの声色が柔らかくなった一瞬を狙って、私は言った。




