36.恋は心の底にしまう
クルクルと時計の針が回り、あっという間に夜になった。
今日だって、きっといつも通りの穏やかな一日になるはずだったのに。
……今日は散々、とまでは行かないけれど、平静を装うのがちょっと大変だった。
仕事でミスはしなかったはずだけど、たぶん挙動不審を隠せていなかったんだろう。先生の目はごまかせなかったみたいで、先生は午後のお茶休憩くらいから私のことを探るような目つきで追ってきた。
だけど追われると、逃げたくなってしまうのが生き物の本能というか。恥ずかしいので、食事の時もできるだけ目を合わせないようにしていたら、とうとうお風呂から上がったばかりの先生に捕まってしまった。
「君。朝から様子がおかしいぞ、熱でもあるのでは」
先生が真剣な顔で迫ってきたものだから、私は思わずたじろいでしまう。
銀の髪はまだ濡れたままでしっとりと輝き、はっきりと石鹸の香りをまとっていた。寝衣からは鎖骨が覗いていて……無防備な姿に接するのだってとっくに慣れているはずなのに、今の私にとってはただの燃料でしかなかった。
「だぁっ、大丈夫ですっ!!」
「しかし、普段より顔色が赤いように思うのだが……」
「き、今日はとても暑かったので! 暑かったからです!! えっと、私もお風呂いただいてきますね!!」
私は先生の追及から逃れるために大慌てでお風呂に入り、さっと夜の挨拶をした。立ちあがろうとした先生を振り切るように、自室に飛び込んだ。
濡れたままの髪をガシガシと拭きながら、私はドアを背にして天井を仰いだ。
「ええー!? どんな顔すればいいのー!?」
心臓の音がうるさくてたまらない。だって先生との距離が近すぎて、日常にときめきがあふれすぎることに気がついてしまった。
今日みたいに笑顔を見せられてしまったら、次はどうなってしまうのだろう。
お風呂上がりの姿にまでドキドキしてほんとに恥ずかしい。ここに来たばっかりの、互いに気まずかった頃のほうがまだマシとすら思う。
ランプに火を灯してから、頭を冷やすために窓を開くと、ほんの少しの湿り気を帯びた夜風が吹き込んでくる。涼しい風には確かに湿った匂いが乗っている。久々の雨模様に喜んでいるのか、カエルの鳴き声がいつもより賑やかだ。
「私、先生のこと好きだったんだなあ……」
机に突っ伏してからあらためて言葉にすると、顔にぎゅっと熱が集まった。目の前には先生からもらったカエルのおもちゃが並んでいて、つぶらな瞳が何か言いたそうに私をじっと見ていた。
カエルのおもちゃに見守られながら、日誌を開く。まずはいつもどおり今日の仕事の記録を書き込んだ。次に、今日先生に習ったことを続ける。
『氷結魔法で作成した氷の保冷について』
……と、書き始めたのはいいものの、ペンがそこからさっぱり動かない。
「あれ? 先生なんて言ってたっけ?」
話はちゃんと聞いたはずなのに、さっぱり思い出せない。氷の冷たさとともに浮かんでくるのは、先生の笑顔と笑い声ばかり。
一度聞いたら覚えてしまうので、メモを取る習慣がつかなかったことを恨んだ。今度からはちゃんとしようと心に決めつつペンを弄んでいると、雨の匂いにほんのりローズの香りが混ざっていることに気がついた。
はっとして窓を見ると、窓枠にピンクの鳥がちょこんと止まっていた。ノエミが飛ばしてくれた手紙鳥だ。
「エルシェ!」
「あっ、いらっしゃい! 何かいいことがあったかな?」
「えへへ……」
私はペンを置いてピンクの小鳥をそっと手で包み、形を崩さないように気をつけながら机の上に乗せてあげた。
いつもならすぐに話し出すはずの小鳥は、今日は何だか恥ずかしそうにもじもじと翼を擦り合わせて私を見上げている。私は鳥の頭をそっとつついた。
「……なあに? もったいぶって。早く言ってごらんよ」
小鳥は、思い切ったようにパッと翼を広げた。
「実はね……例の兄弟子と、付き合うことになったの」
「えっ!? やったね! おめでとう!!」
「ありがとうー!!」
曰く、前のお休みの日に流行りのお芝居を見に行って、帰りに向こうから告白され、付き合うことになったんだそうだ。師匠も応援してくれているらしい。
相手は年も近く、家柄も釣り合う。だから、ゆくゆくはそういうことになったりして……そう語るノエミの声は、手紙越しの声でもわかるくらい幸せそうだった。
「よかったね。末長くお幸せに」
私の指先で、ちょこちょこと踊る小鳥を眺めて微笑む。私はノエミと兄弟子の仲の深まりを、まるで恋愛小説を読むようにして楽しんでいた。そう、恋の話なんて物語の向こう、他人事のように楽しんでいた。この間までは。
「ねえ、エルシェは最近どう?」
ノエミに歌うような声で問われ、私は頬杖をついた。
「私は相変わらずだよ。朝から夕方まで仕事ばっかりしてる。計算と、器具のお手入れと書類整理。ああ、最近は草むしりが忙しいかな」
「え、エルシェが草むしりまでやるの? 家政婦さんを雇ってるんじゃないの?」
私は窓の外に視線を投げた。夜の闇に沈んでいて何も見えないけれど、この家の庭は庶民の家にしてはかなり広い。マルタさんも草むしりをしてくれるけど、人手がひとりでは厳しい。
「それだけじゃ追いつかないからね。一応、家事の手伝いも業務に入ってるし……なにより先生が率先してやってるのに、私がやらないわけにいかないでしょ」
「えっ、もちろん魔法でだよね?」
「ううん。手でだったり鎌でだったり。そもそも先生は魔法をお仕事以外ではほぼ使わなくて。その他では……飲み物を冷やすための氷作ったり、お風呂を沸かす時くらい? だから、普通の人だと勘違いしちゃう時がある」
「ラインハルト先生ってやっぱ変わってるんだなあ。もし草むしりを手でやれなんて言われたら、私なら逃げ出しちゃうよ」
「あはは。ノエミはお嬢様だからね。私は実家にいた時もやってて慣れてるから。お小遣い稼ぎに頑張ってた」
「へえー……」
ノエミに限らず、ほとんどの魔法使いはそう言うだろうなと思う。だけど、私は草むしりだって嫌じゃない。ふたりで別の方を向いて草刈り鎌を振るだけで、会話が弾むわけじゃないけど、先生がじっと何かに集中している姿を眺めているのは好きだから。
ああそうか……ちょっと鬱陶しそうに夏空を見上げているところや、滴る汗を少し荒い手つきで拭うところ、草むしりを終えてスッキリした顔をしているところが妙に目に焼きついているのも、きっと恋をしてたからなんだ。
夏迎え祭りで一緒に踊った時の不思議な気持ちの正体も今ならわかる。私は好きな人に触れられて、踊れたことが嬉しかったのだ。
「仕事の話もいいけど、先生とはどう? 何か芽生えた?」
なんだか心のうちを言い当てられたみたいで、どきりとする。だけど先生を好きになったことは、たとえ唯一無二の親友にも言えなかった。手紙鳥の魔法では相手に顔が見えないことをありがたく思いつつ、私は目を伏せてつぶやくように言った。
「残念ながら、ないよ。なんにも」
翼をたたんだ小鳥は、何だかしょんぼりして見える。
「そっか……なんかごめんね、しつこくて」
「大丈夫。期待したくなる気持ちはわかるから」
魔力切れで動かなくなってしまった小鳥を、私はお菓子の空き缶の中に大切に入れた。
これでいい、と思う。
きっと少しの勇気さえあれば、想いを伝えるのはたぶんそこまで難しいことじゃないと思う。だけど、結末は透けて見えている。先生と過ごす日々……今のあたたかい暮らしは、この気持ちを言葉にすれば間違いなくひび割れるか壊れてしまう。
これからも師匠と弟子として、付かず離れず。私たちにとって適切な距離と関係を、守らなければならない。
「気まずくなりたくないしね……」
だから、この恋は心の底に大切にしまって紐をかける。気持ちを育てはしても、決して開くことのないように。
私は空き缶の蓋をそっと閉めて、ランプを消した。




