35.氷でも冷やせない
「何が?」
先生はすかさず顔を上げ、訝しげな顔で私に訊ねた。
……私の告白のようなものは先生の耳にしかりと届いてしまったらしい。先生は難解な暗号文を目の当たりにしたような、しわくちゃな表情をしていた。
「あ、青が。私、青が好きなのです」
髪に結んだ露草色のリボンに触れながら慌ててごまかしたけれど、私たちの間には妙な沈黙が落ちた。
「……なるほど。覚えておこう」
窓からは、私の背を押すように夏の風が抜け、先生の長い前髪を揺らしている。まっすぐに私を見つめる青い瞳が、何も言わずとも何もかも見抜いていると語っているようで、心臓の早鐘が止まらない。
先生は何事もないようにペンを動かし始めた。
大丈夫だよね、ごまかせたよね、変に思われてないよね。私は今にも飛び出してどこかに転がっていきそうな心臓を宥めながら、席についた。
出したきりだったそろばんを引き寄せて、珠を意味もなく弾く。計算をやっているふりをするのが精一杯で、それっぽく音をさせているだけだ。
目を閉じれば、頭の中を駆けるのは数式ではなく先生のことばかり。こんなことは生まれて初めてだった。
動揺しすぎて喉が渇ききっている。今すぐ飲み物が欲しい。マルタさんが持ってきてくれないかな。いや、自分で取りに行こうかな、と顔を上げた。先生はまた私を注視していたらしく、目がバッチリ合ってしまった。心臓が跳ねる。
仕事をサボっていたのがバレたのだろうか。目を逸らし、台所に行こうと立ちあがろうとした時、ドアが開いた。マルタさんがワゴンを押して入ってきた。
「おふたりとも。お茶はいかがですか? 今日は坊ちゃんのリクエストで冷茶にしましたからね」
ワゴンには少し大ぶりなポットと、氷がたっぷり入った金属製の入れ物、グラスがふたつ乗っている。先生はマルタさんに黙礼してから尋ねる。
「……氷はまだ残っていますか?」
「ええ、まだたくさんありますよ。壺の中に……半分ほどでしょうか」
「よかったら帰りにいくらか持って帰ってください。しばらく溶けないようにするので」
「ありがとうございます、坊ちゃん。夫が飛び上がって喜ぶと思います」
「それは良かった。ただ、美味しいからとあまり酒を飲みすぎないようにと伝えてください」
「ふふふ。わかりました。ちゃんと言い聞かせますからね」
先生との会話を終わらせると、マルタさんはお茶の支度を始めた。
「てっ、手伝います!!」
勢いのまま立ち上がると、椅子の脚が床に擦れて大きな音がした。恥ずかしい。マルタさんが小さな子供を見るようにニコニコ笑いながら、私が伸ばした手を受け入れてくれる。
「冷たいお茶って珍しいでしょう? どうやったら美味しくなるか……わたくし、いろいろ考えたんですよ」
まずは氷でグラスをいっぱいにするように言われたので、石ころのような形の氷をトングでつかんでポイポイと放り込んでいく。それからポットに触れる。
「あっ!! お茶は熱いんですね」
冷たくしたお茶が入っているものと思い込んでいた。恥ずかしい。
「ええ。気をつけてくださいね。それを氷に直接注いでください」
「はい」
いつもより濃く淹れたお茶からは、ハーブの爽やかな香りが湯気と共に立つ。
「わあ……すごく良い香り……」
熱いお茶を注ぐと氷が一気に小さくなって、溶け残った分がぷっかり浮かんだ。初めて見るものに思わず目を寄せる私に、マルタさんが微笑みかけた。
「ふふ。ぜひ飲んでみてくださいな」
マルタさんがポットを引き受けてくれたので、私はグラスを取った。手がかじかむんじゃないかと思うほどにひんやりと冷たい。
ころん、と氷が音を立てる。夏に冷たいものが飲めるなんて、なんて贅沢なんだろう! これは、冷却魔法や氷結魔法が使える魔法使いの特権だ。
私は琥珀色のお茶をゆっくりと、だけど一気に飲み干した。頭が痛くなるほどの冷たさと、微かな苦味と渋さ、ハーブの清涼感で、ぼんやりとした視界がたちまち晴れていく。
「はあ……おいしい……こんなに美味しいお茶は初めて!」
吐き出した息が冷たい。だけど、顔が熱くて喉は干上がったままで。先生が私に珍しいものを見る時と同じ視線を向けている。
先ほどまで考えていたことを思い出して、またかっと顔に熱が集まった。グラスを握り潰しそうなくらいに力がこもる。
「っっ〜!!」
「エルシェさん、おかわりはいかがです?」
助け舟のように掲げられたポットに、私は迷わずグラスを突きつけた。
「いただきます!!」
少し氷を足すと、マルタさんはグラスになみなみとお茶を注いでくれた。それも一気に飲み干して、私は大きく息をつく。ようやく喉は潤ったけど、今度はお腹がいっぱいで苦しい。なんだかもう、めちゃくちゃだ。
マルタさんは明らかに様子がおかしいであろう私を見てふふと笑いながら、先生の分のグラスにお茶を注ぎ……手を止めた。お茶は半分ほどしか入っていない。
「あら、もう空っぽだわ。追加で沸かしてこなくっちゃ」
「ええ、お願いします」
「わかりましたよ」
マルタさんがポットを持って去るのを見送った先生は、私の隣に立ち、ワゴンから自分の分のグラスを自分の方に寄せた。
「ごめんなさい。その、すごく暑くって、つい」
先生が飲みたいと言ったものを、先生が飲む分まで取ってしまったのに……その先生は怒るどころか自分のグラスにシロップをとくとくと注ぎながら笑っている……笑ってる!?
「君、よければ魔法で涼しくしようか?」
先生が、肩をすくめた私を見ておかしそうに笑っている。他人と比べたらずいぶんと控えめではあるけれど、確かに感情を見せている。
「ああいえ、えっと。その……すみません」
「構わない。しかし、気持ちのいい飲みっぷりだったな。ずっと見ていられる」
初めて聞く笑い声に、頬がさらに熱を帯びてきた。お願いです、勘弁してください。急にそんな顔にならないでください。このままだと本当に燃えてしまいそうなのです。
私はグラスに残った氷をめいっぱい口に含んでうつむき、真っ赤かもしれない顔をどうにかごまかそうとする。まるで餌を溜め込んだ野ねずみのようにモゴモゴと口を動かす私に、先生はまた笑いながら言う。
「水を凍らせただけものを、そのまま食べて美味しいのか?」
「ふぁい……」
「そうか。どれ」
先生は自分のグラスから氷をひとつ摘んで口に含み、口の中で転がしながら頷くと、私の顔を覗き込んだ。目の前で先生の耳飾りがぷらぷら揺れている。静かに輝く深い青に、また心を奪われる。
「そうだ、先ほどは言い忘れたのだが」
「なんでしょうか……」
そう言った先生の目尻は、明らかに下がっている。
「私も青が好きだ」
まるで耳元で囁くように言われ、とうとう動けなくなった。今にも燃え上がりそうなのを、また氷を食べてごまかした。
私のこの感情は一体いつ生まれたものなのだろう。
初めて話した日に渡された、ちょっと乱れた字のメモ。傷を癒してくれた時の心地いい魔力の揺らぎ。旅立ちの日に見た魔法使いの正装姿。列車で黙々と新聞を読み耽る姿。
整った部屋を用意してくれたこと。魔力が足りなくて野ねずみと笑われた私を、間違いなく魔法使いだと認めてくれたこと。
毎朝の少し柔らかな目玉焼き。お風呂上がりに、髪を乾かしてくれる風の暖かさ。
甘いものを食べてわずかに綻ぶ顔。射的に失敗して少し拗ねたような顔。カエルのおもちゃの鳴き声に驚く顔。音楽に乗って、ふたりで踊ったこと。夜空に鮮やかに弾けた光魔法。お茶に浮かんだ氷の冷たさ。
耳に残る、心地のいい低音。
『好き』が耳の奥にこびりついて離れない。なんとか椅子に座り、ぎゅっと耳を押さえる。
恋心の始まりはこの時期からだとか、これがきっかけで好きになったとか、はっきりとしたものはないと思う。
強いて言うなら、先生と共に暮らす日々で感じるもの全てが、私の心を小さく揺らし続けていた。それが少しずつ幅を増し、音になって耳に届いたような。今はそんな感じだった。




