34.夏に咲く花
夏迎えから一ヶ月ほど経って七月も半ばになると、北の街シュネハイムにもようやく本格的な夏が訪れた。
いつも通りの時間に目覚めてベッドから抜け出し、カーテンを開けた。瞬間、朝日の強さに目を焼かれ、視界が変な色になる。
コウモリ便が届いていないことをなんとか確認した私は、うう、とうめきながら目を擦り、鏡の前へ向かった。首筋に髪が張り付いている。
「暑い……」
うっすらかいた寝汗を拭って、今日からは半袖の服を着ることにした。引き出しの底から半袖の服を出して着替えを終え、すっかり伸びた髪を露草色のリボンでひとつに束ねてから部屋を出る。
洗面所で顔を洗い、身支度を整えた。それから台所で先生の朝食作りを手伝い、一緒に食べて、私が後片付け。出勤してきたマルタさんにご挨拶。
特筆すべきことはない、いつも通り一日の始まりだった。
しかし仕事部屋に入った途端、あるものに目が止まった。予定表には明日の日付と共に『アストリウスへ』と書かれた紙が貼ってある。その横にかけてあるカレンダーと紙を見比べ、不思議に思った私は首を傾げた。
先生は週に一度、列車でアストリウスへと出向かれて古代魔法語の講義をする。だけどそれは先週までの話。
「明日もアストリウスに出勤されるのですか? もう夏休みに入っているのでは……」
私から少し遅れて研究室に入ってきた先生は、私の質問にわずかに肩を揺らした。そして、ずれてしまった眼鏡を直しながらぼそっと返した。
「学生は休みでも、教員には色々とやることがあるので」
表情はいつも通りでも、明らかに声の調子が違う。まるで隠し事をぴたりと言い当てられたような、そんな感じの気まずさを帯びている気がした。ただ、私はその疑問はいったん胸の中に押し込んだ。触れてはいけないことかもしれないからだ。
「そうなんですね。よく知りもせず、すみません」
「……構わない。ああ、出発も帰宅もいつも通りだ」
「わかりました」
「それと魔道具屋に寄るが、必要な物はあるか?」
「いいえ。今のところは」
「わかった。夕食はいつものところで魚料理を頼んでいるので」
そのひと言で、あくまで仕事モードだった私の心は一気に弾けた。お祭りの時に魚が好きと打ち明けて以来、先生は毎週の出務の日の夕食に魚料理を買ってきてくれるようになった。好物を知ったからには、と言って。
「ありがとうございます!! 楽しみにしてますね!!」
子供のように声を張り上げた私に、先生はまるで父のように表情を緩ませた。
「そうか。出来るだけ早く帰れるようにするので」
「はいっ!!」
ここで雑談を終え、仕事を始める。私はそろばんを取り出しつつ、先生の方を見た。
先生は、少し前から長袖のシャツの袖を肘の辺りまで折って着ていて、真っ白だった肌はほんの少しだけ日に焼けていた。袖から伸びるのはすらりと細いけど、自分とは明らかに作りの違う筋張った腕。別に見慣れていないわけでもないのに、今日はやけに気になった。
外気を入れるために開いたままにしていた窓から風が吹き込んだ。先生がなびくカーテンを気にされているように思ったので、まとめるために窓辺に立った。ひらひらと風に踊るカーテンを捕まえて、紐で結える。
もう真夏といってもいい時期なのに、風はからりと乾いていて爽やかだ。これが地元だったらこうもいかない。ジメジメとまとわりつくような蒸し暑さで、日によっては息苦しく感じるほどだ。
けど、窓の外の景色は地元もここもそんなに変わらないんだよな……眩しすぎるほどに夏の日差しが降り注ぎ、草花も、庭木も、雑草も伸びやかに、気ままに育っていた。賑やかに歌う蝉の声を聞きながら、風に乗ってきた青々とした匂いを胸に吸い込んだ。
また暇を見つけて草むしりしないといけないな。そんなことを思いながら息を吐き出すと、先生の呟きが聞こえた。
「……綺麗だな」
「ええ、夏の庭は力強くていいですよね」
振り返ると先生がこちらに視線を向け、眩しそうに目を細めている。
「ではなく、君が……」
「へっ!? 私ぃ!?」
綺麗!? 想定外の言葉に声が裏返り、心臓がバクバクと激しく打っている。先生は私の反応に驚いたようで、持っていたペンを倒してしまった。そのまま机から転がり落ちそうになったペンを慌てて捕まえて、私に向けて首を横に振った。
「……ああいや、違う。君がつけている腕輪が、その。それは祭りの時に買ったものか?」
私の左手首では、お祭りで買ったブレスレットが輝いている。あと、耳には銀のイヤリング。綺麗な物をつけているとしゃんと背が伸びることに気がついたからだ。近頃は毎日身につけていたのに今更指摘するのか、と思いながら私は頷いて答える。
「ブレスレット、ですか」
「そうだ。その腕輪だ」
先生は珍しくこくこくと頷いている。落ち着けエルシェ……冷静に考えれば、先生が私に『綺麗』なんて言う訳がないじゃないか。早とちりを恥じた私は前髪と呼吸を整えてから返す。
「ええ。とっても綺麗なので、思い切って買ってしまいました。綺麗な石がついたアクセサリーを身につけるのに、子供の時から憧れていたので」
「そうだったのか、てっきりそういった装飾品は身につけない主義なのかと思っていたのだが」
洒落っ気がないことをずばり指摘されたようで、耳が痛かった。だけど、私に洒落っ気がないことは紛れもない事実だった。
長い髪はひっつめただけ、服は母が若い頃に着ていた服を直したもので、おしゃれな女性の服装とはほど遠い。たとえ流行遅れでも、きちんと手入れした清潔な服を着ていればいいって思っていた。
けれど、これからは大人の女性として、もう少し綺麗に着飾ることを考えた方がいいのかもしれない。
誰に何を思われても気にはならないけど、先生にだけは、素敵だと思われたい。できれば、少女ではなく大人の女性として見てほしい。
どうしてそんなことを考えるのかはわからない。わからないけれど、そう望むたびに腰のあたりがなんだかこそばゆくなる。夏迎え祭で先生と一緒に踊ったときに、触れられたところだ。
顔を熱くしている私をよそに、先生は作業に戻っていた……いや、ペンは動いていない。背筋を伸ばしたまま、私をじっと見ている。小さな咳払いのあと、先生は口を開いた。
「その、君。それはもしかして」
「はい?」
先生は自分の左の耳たぶを摘まんだ。細い指先で、青い雫が光っている。銀のピアスからぶら下がった、ペンデュラム型の青い魔石がぷらぷらと揺れている。私は詳しくないけど、おそらく魔力の制御を補助する魔道具だと思う。
「これと同じ石か?」
そう言われるとドキッとした。魔石の販売には魔法省の許可が必要だ。きちんと魔石だと伝えて売らなければならない義務もあるからだと思う。
だけどあの商人のおじさんは『宝石』だと言ったし、この石には特に魔力に反応するような様子も見えない。
「……露店で魔石は売らないのでは?」
「ああ。そうか、確かに。よく似てると思っただけだ。妙なことを聞いてすまなかったな」
先生は早口で言うと、今度こそ何事もなかったように手を動かし始めた。私は自分の席につくと、ブレスレットに嵌められた石と先生の耳で揺れる耳飾りを見比べながらじっと考えた。
言われてみれば、間違われても不思議ではないくらいによく似た調子の青だ。
鮮やかな青。故郷の湖が晴れた日に見せる透き通った色。アストリウスの象徴の色。常に私の身近にあった色。
……青は嫌いではないけれど、好きというわけでもなかった。
いま一緒にいる人の、瞳の色、耳飾りの色。涼やかで、静かな佇まい。
「あっ……」
その瞬間、雷に打たれたように唐突に何かが胸に落ちて、視界がくっきりとした気がした。
「どうした?」
……そうだ。先生は、まさに青い。
思えば春の訪れとともに、私の心の底には小さな芽が吹いていたのかもしれない。先生と過ごすことで、ごくゆっくりと育っていたそれを何と呼ぶのかに、今ようやく気がついたのだ。
お祭りの日にはすでに蕾がついていた。だから私は数多くの輝きの中で、青い石に一番心惹かれたんだと。
先生と目が合った瞬間、胸の中にぽっと小さな花が咲いた。
「す、好きです……」
私は、頭に浮かんだ言葉をそのまま外へとこぼしてしまった。




