23.寝坊、お出かけ
翌朝。寝ぼけ眼の状態でも、体はいつもの習慣に沿って窓際へ。カーテンを開き、眩しいなと思ったところで……大変なことを思い出した。
「しまった!」
目が限界まで空いた。私は踵を返すと、身支度もせずに階段を駆け下り、無人の仕事部屋に飛び込んだ。壁の予定表には今日の日付と共に『アストリウスへ』と書かれた紙が貼ってある。
今日は、先生がアストリウスに出務される日。王都行きの一番列車に乗るために、日の出の時刻には出発されている。
「何やってんだ、もう……」
井戸の事件から……先生とすれ違って、もう三日になる。そのあいだ仕事は与えられなかったので、せめて見送りくらいはちゃんとしたかったのに。私は自己嫌悪に苛まれながら自室で身支度をして、台所に入った。
私の分の朝食はいつも通り用意されていて、きちんとクロスが掛けられていた。台所にも、ダイニングにも書き置きはない。すっかり冷めてしまった食事を食べる。
流れるように後片付け。お皿を洗って拭いて、棚にしまう。今日は勝手口は開かない。
先生が授業に行く日には、マルタさんにはお休みをとってもらっているからだ。私も残っている仕事がなければ休日にしていいことになっている。
自分の下着を洗濯して部屋に干すと、私はカバンを持って家を出た。
降り注ぐ陽の光を浴びながらのんびりと歩く。木々の緑はすっかり濃くなり、季節が夏へと移ろっているのを感じる。外の風を吸って少し気分が軽くなった頃、目的地にたどり着いた。
頑丈な作りの木の門を開けて、中に入る。先生の家と同じような石造りの家だけど、ここは平屋。広い庭のすみで、木イチゴの木が真っ赤で大きな実を鈴なりにつけていた。
「ごめんくださーい」
呼び鈴がないので、玄関ドアをノックする。すぐにパタパタと足音がして、ドアが開いた。
「いらっしゃい。さあさ、中へどうぞ」
マルタさんがいつも通りの優しい笑顔で出迎えてくれた。
◆
わたしがマルタさんの家を初めて訪れたのは先々週のこと。
「お休みの日は、お茶でも一緒にどうですか?」と誘われたことがきっかけだった。
まだこの土地には知り合いがいないので、ありがたいと飛びついた。なにより、マルタさんともっと仲良くなりたいとも思っていたから。
この間は縫い物を教えていただいたけれど、今日は違うことをするようだ。
「今日は木イチゴのタルトを作ろうと思うのですが」
「いいですね!! 作りましょう!!」
そうと決まればマルタさんとふたりで庭に出て、宝石のようにキラキラと輝く木イチゴをせっせと摘んだ。それからふたりで楽しくおしゃべりしながら生地をこしらえていると、ドアが開く音がした。
マルタさんの旦那さん……フリッツさんが台所に顔を出す。干し草が服のあちこちにくっついている。お馬さんのお世話をしてきたんだろう。
「おっ。エルシェちゃん、いらっしゃい」
「おじゃましてます」
フリッツさんはにっかりと歯を見せた。腰をトントンと叩くと、まるで空っ風のように笑った。
「君が来てくれるたびに、家内はどんどん若返っちゃって可愛くなってさあ。俺なんか、ジジイになっていくばっかなのに」
「もう、何を言うのよ。あなたはずっと素敵よ……干し草を外できちんと払ってくれたらもっと素敵なんだけど」
マルタさんが苦笑いで指差した先……玄関の方から点々と、足跡のように干し草のくずが落ちている。
「わかったわかった。床は後で掃いておくから」
「はい。よろしくね」
ふたりはそうして、まるで若い恋人同士みたいに微笑みあった。フリッツさんはマルタさんより十五歳歳上でもう七十歳らしいけど、それよりずっと若く見えて、とっても元気だ。
「あいかわらず仲良しですね」
私が笑うと、マルタさんからはまるで歳の近い女の子のような瑞々しい笑顔が返ってくる。
「ええ。何せ、たったひとりの大切な家族ですから」
マルタさんは木イチゴをふきんの上に優しく転がすと、ほんの少しだけ頬を染めた。玄関の方からホウキで床を掃く音と、楽しげな鼻歌が混ざって聞こえてきた。
マルタさんとフリッツさんはふたり暮らしで、お子さんはいらっしゃらない。私が若い頃にした病気が原因で、とマルタさんは少し寂しそうに教えてくれた。
『あの人はね。子供が産めなくてもいいって言って一緒になってくれたの。その言葉の通りに本当に大切にしてくれたわ。彼と出会ってからはずっと幸せ』
マルタさんが笑顔で語っていたのを思い出して、胸がちくんと痛む。心のひび割れから、じわっと血が滲むような感じがする。
また目頭が熱くなって、私は俯いた。私には恋だの愛だのはまだよくわからない。けれど、一番身近にいる先生との間に壁ができてしまったことがどうしようもなく悲しい。
「エルシェさん?」
「ああ、何でもないですっ」
泣いていてはダメだ。タルト生地をこねる手に力が入った。
◆
オーブンに頑張ってもらっている間、マルタさんは私が持ち込んだあるものを広げていた。
「これねえ、まさか自分でお直ししてたなんて。お裁縫は学校で?」
それは、私の元制服だった仕事着だ。先日の井戸の事件でずぶ濡れのドロドロになってしまったけど、マルタさんが綺麗に洗濯してくれた。今日は完成したものをちゃんと見ていただこうと思って持って来ていたのだ。
「いえ。母に教えてもらったのと、あとは見よう見まねでなんとか」
「もしかして、魔法を使ったのかしら?」
期待めいた視線に、私は苦笑いを返す。魔法を使えない人にありがちな誤解をされていると感じた。私は手振りを交えつつ説明する。
「魔法でできないこともないですが……手でやるのとそう変わらないですねえ。糸と針を手縫いと同じように動かす感じになってしまうので」
「あらあ。そんなものなのねえ……」
マルタさんは、縫い目をひとつひとつ確かめるように目で追った。
プロの家政婦さんなら当然のことかもしれないけど、マルタさんは料理も洗濯も掃除はもちろん、お裁縫も編み物も上手。私が来るまでは先生のお手紙の代筆をされていたらしいし、おまけに簡単な大工作業までこなしてしまう。
先生の家の台所にある棚は、マルタさんの作品らしくてびっくりしてしまった。ちょうど良いものがなかったので、わたくしが作ったんですよ……って、かっこよすぎる。
『マルタは、まるで魔法使いのような人だ』
魔法使いの先生が感心して言うくらい、何でも上手にこなしてしまう。そんな方が、めいっぱい褒めてくれる。
「縫い目も整っていて綺麗だし、デザインもとっても素敵。さすが、若い人はセンスがいいわねえ。ねえ、あなたもそう思わない?」
呼びかけに答えるように、フリッツさんが隣の部屋から顔を出す。
「そうだなあ、エルシェちゃんは料理も上手だし、いつでもお嫁に行けるな!!」
最近、フリッツさんは私が何かするたびにこればっかりだ。きっとおじいちゃんが子供や孫の将来を気にするのと同じだろうけど、体がだんだん熱くなってきた。
「あああ、その話はもうやめていただいて!!」
私が手で顔を煽ぐと、フリッツさんはツンと口を尖らせる。
「なんだよー。エルシェちゃんの花嫁姿を見るのが、じじいの夢だっていうのに」
マルタさんがすかさず「コラ!」と子供を叱るみたいに言った。フリッツさんは少し肩をすくめるも、反省するそぶりも見せずに大笑い。期待されるのは嫌じゃないけど、やっぱりこそばゆい。
「わかりました。けど、ちょっと時間がかかるかもしれないんで、めいっぱい長生きしてくださいね」
「おう。何百年でも生きてやるよー」
大笑いした私の肩を、マルタさんがすかさず抱いた。びっくりして声を上げると、
「よかった。やっとちゃんと笑ってくれた。あの日から元気がないようだったから、心配してたのよ」
「あっ……」
何もかも見抜かれていた気まずさと、昨日の先生の疲れた顔を思い出して、再び心の中に苦いものがこみ上げてくる。
「エルシェさん。坊ちゃんとは、ちゃんとお話できてますか?」
私の肩を抱く、柔らかな手に少し力がこもった。マルタさんに確信を突かれて、私はつい俯いてしまった。




