22.無力さを噛みしめる
朝が来たのか、視界が明るくなる。
「目が覚めた!! ねえ、大丈夫!?」
そこにいるのはお母さん……じゃなく、見覚えのない女の人だった。あれ、ここは実家じゃないの? ああそうか、私はもう魔法学校に入って……。
「うう……」
口を開いても、なぜか意味のないうめき声しか出ない。全身を丸ごと薄い布に包まれたような変な感じがする。
「あなた!! 先生を呼んできて!!」
ぼんやりしている私をよそに、女の人は慌てた様子で窓を開くと外に向かって大声を張り上げた。流れ込んできた風の匂いが、雨上がりの森のものによく似ていて、ふっと記憶が浮かび上がる。
ああ、えっと、私は先生とノクストの森の集落に来て……。
私は女の人に背中を支えられながら、起き上がった。先生と家を出て、ここに来たことは思い出せても、その先が……頭の中身が泥水に変わったみたいに、何も浮かんでこない。
そういえば胸の中にも似たような違和感がある。そのせいで湿った咳を止められずにいると、ドアが大きな音を立てて開いた。
「なぜ、余計なことをした! 怪しいものには触るなと言ったはずだ!!」
そう声を荒らげた先生は、明らかに苛立った顔を私に向けた。いつもは静かな青い瞳が、今は真っ赤に燃えているように見える。
その炎のような怒気に炙り出されるように、ぼやけていた記憶が徐々にはっきりしてくる。木々のざわめき、そして朽ちかけた廃墟。覆い茂る雑草。白黒だった景色に蒼々と色がついてくる。そうだ、私は森の中に家を見つけて、苔むした古井戸を見つけた。
突然あふれ出した水に足を取られた私は、井戸に引っ張り込まれて、溺れてしまったんだった。
でも、どうして魔法が勝手に動き出したのだろう。
「触れてないです……私は……井戸の中を覗いて……中がよく見えなかったので……ライトで照らしただけ……で」
先生はとたんに苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「ごめんなさい……」
「……わかった。もう何も言わなくていい」
先生は『もう少しの間だけ』と女の人に私のことを託すと、部屋を出て行ってしまった。
すっかり重くなった空気を破るように、女の人が言った。
「そうだ。帰る前に髪の毛、整えといてあげるわ」
「あっ、申し訳ないです……」
明るい声に、少しホッとする。手が痺れたままだったので、お言葉に甘えることにした。
……彼女はベッカーさんの奥さんで、ここはベッカーさんの家とのことだった。そういえば髪は少し湿っているけれど、服は変えてもらっている。明らかに余っている胸元を気にしていると奥さんは笑った。
「ああ、服を着替えさせたのは私とお隣さんの奥さんだからね。ちょっと丈が足りなくて申し訳ないけど」
「いいえ。親切にありがとうございます」
先生は身支度の終わりを見計らったかのように部屋に入ってきて、私のカバンや元着ていた服を持ってから、奥さんに丁寧に頭を下げた。
「お世話になりました。お礼は後日あらためて……とりあえず、君。少し歩くぞ」
先生はそれだけ言うと、私の手を半ば無理やりとった。「痛い」という言葉が出かけたけれど、飲み込んだ。そのまま引きずられるように玄関の外に出ると、庭には転送魔法のための魔法陣が引いてあった。
驚くほど正確に描かれた魔法陣の中心に、先生と並んで立つ。もちろん手を掴まれたままで。瞬きを一度すると、私はもう先生の家の庭に引かれた転移用の魔法陣の上に立っていた。
先生はこちらを振り返りももせずに先に歩き出す。声をかけられる雰囲気でもない。先生の後に続いて黙って家に入ると、マルタさんが奥から飛び出してきた。
「おかえりなさいませ!!」
「ただいま。詳細は先ほど鳥で伝えた通りです。彼女のことを頼みます」
先生は私とマルタさんを置いて、仕事部屋へとこもってしまった。私とマルタさんはリビングへ。そこではお医者さんが待っていて、手際よく診察すると私に告げた。
「目立った異常はないけど、しばらくは無理をしないように」
私は安心しつつも、先生のことが気になって落ち込んだ。そして、その日は先生と顔を合わせられないまま翌朝を迎えた。
「えっ、そういえば……」
身支度の時に、髪に結んでいたリボンがなくなっていることに気がついた。両親にもらったもので、とても気に入っていたのに。あの騒ぎの中でどこかに流されてしまったのだろうか。
朝食は、すでにダイニングテーブルに並んでいた。メニューはいつも通りなのに、先生はほとんど目を合わせてくれない。
「私は外に出る。あとのことはマルタに頼んでいるので、君は医者に言われた通りにゆっくり休むように」
朝食を終えた先生はそそくさと外出の準備を始めた。私は慌てて残りの料理を詰め込むと、ジャケットを羽織ろうとしている先生の背中に問いかけた。
「あの、今日はどちらに?」
「昨日と同じだ」
「また何かあったのですか!?」
「いや。水呼びの儀式魔法を新たに敷くために、何回か通うことになったので」
「それなら私も行きます。もう大丈夫なので」
あれだけの規模の魔法を仕掛けるなら、なにかしら手伝いが必要になるはず……しかし、先生は私を嗜めるように言った。
「……休めと言った。帰りは遅くなるから、夕食は先に済ませておくように」
先生は私を振り切って家を出てしまった。私は玄関のドアの前でひとり、肩を落とす。
「まあ、お医者さんも無理するなって言ってたしね……」
何かしなければという気持ちを持て余しつつも、マルタさんに甘えて素直に休んだ。そしてその日は先生に会えないままに、また朝になった。
またもやひとりで出かけようとしていた先生に、今日こそは置いていかれまいと必死で食らいついた。
「すみません、何かお手伝いできることはありませんか? ベッカーさんにお借りした服も返しに行きたいのですが」
しかし、先生は首を横に振る。
「……君に任せられる仕事はない。それは私が返しておこう」
先生は私が持っていた服を取ると、さっさと外に出てしまった。
「取りつく島がない……」
一日休んで、体調にはまったく問題はないのに。凹みそうになったけれど、落ち込んでいても仕方がない。仕事をもらえないのなら、自分で見つければいい……無理矢理に気持ちを切り替える。
「……掃除でもしようかなあっ」
出勤してきたマルタさんに挨拶をしたあと、部屋に戻ってエプロンを付けた。階段下の物入れから掃除道具を取り出し、仕事部屋にせっせと運び入れていく。
まずは、先生の机の前に立った。書物や走り書きの紙で雑然とした机のど真ん中に、まばゆく輝くものが置きっぱなしになっていた。
「わあ、初めて見た……」
それは一等魔法師の証たる、金のメダルだ。
メダルの色は違えど、取り付けられたリボンは私のものと同じ濃い青色。これは出身校で色が決まる。つまり先生も、『青の賢星』アストリウス魔法学院出身ということ。
「私の大先輩だったんだね……」
まるで夏の日差しのような金の煌めきに心を奪われる。触れてみたい、と思った。ごくりと喉が鳴る。頭の中で後ろめたさと好奇心が盛大に喧嘩して、好奇心が辛勝した。
ここにあるものは自由に触れていいって言われたもんね。エプロンでよく手を拭いながら心の中でブツブツと言い訳をして、私はメダルを手に取った。
私の銀のメダルより一回り以上大きいのもあって、ずっしりと重い。こんなにも違うものかと思わず嘆息する。
裏返してみると、魔法師の登録番号、生年月日ともに、先生の名前が刻んである……いや、なんか変だ。
『ヴィクトール・クラウス・アイゼンハルト』
「あれえ? 名字が違う……?」
私は首を傾げる。だって先生が普段名乗られているのも、私宛の封筒のコウモリの差出人に書かれていた名前も、何ならこの家にかかっている表札も、すべて『ラインハルト』だからだ。
しかし国から賜る魔法師のメダルに、嘘の名前が刻まれているはずがないわけで……。
「じゃあ、みんなには偽名を名乗ってるってこと……?」
私は指紋を丁寧に拭き取って、メダルを元の位置に置く。
ため息が冷たいのは、きっと覗いてはいけないものに触れてしまった罪の意識からと、心を開いてもらえないことに対しての苦しいほどの寂しさからと。
人は誰でも秘密のひとつは持っているものだ。弟子だからといって、一緒に暮らしているからといって、わざわざ全てを明かす必要もない。それはわかるのだけど。
「……ほんと、何にも知らないんだよなあ」
ここに来て二ヶ月。お供を許されたり、魔法を任されたり……やっと少しは近づけたと思った。だけどそれは幻で、先生は夏の日の逃げ水のように何度でも遠くなる。
この仕事部屋は、ひとりでいるには広すぎる。寂しさとやるせなさが深みを増していく。
『任せられる仕事はない』
先生が私を突き放す声が耳の中にはっきりと蘇った。
「冷たかったな……」
あれが先生の本心かもしれないと思うと、胸がぎりりと締め付けられた。封印処置が目の前に迫っていた時よりもずっと痛い。今にも涙がこぼれそうになった。




